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ホルムの大迷宮  作者: ふくべおさひら
4/10

君と僕


昼前の朝を伝える鳥たちが、その美しい声を上げ始めた頃には、チェルシーは既に全ての準備を終えていた



借りていた寮の部屋の荷物を全てトランクに詰め込んで、ベッドの角からタンスの裏まで掃除をした


次の年になったら誰かがこの部屋を使うことになるからだ


もちろん壁に名前も彫ったし、次に使う人のためにお古のつるはしを壁にかけたりもした


攻略に使うための荷物は最小限にしたつもりだったが、それでも攻略バッグがパンパンになるくらい膨らんだ


どれもこれも出来るだけ削ったが、これ以上はここに残していくことはできないものばかりだった


綺麗さっぱり、自分のものが全てしまわれた部屋は、もうすでに自分のものではなくなってしまった


もうここに残る自分は、ベッドの横に掘られたチェルシーという文字だけしか残っていない



しかし、それでよかった



もうここに帰ってくることも、ないのかもしれないのだから







「チェルシー、起きてるわね…?おはよう

あなたのことだから、もう全て準備は終わってるかしら?」



薄い木製のドアの向こうから、スミス夫人の声が聞こえた




いよいよこの時がやってきた


10年、いやそれ以上に楽しみにしてきた大迷宮への切符は手の中にあった


形はどうあれ、大迷宮に行くのだ


その夢の一歩が、やっと刻まれたのだった







長い寮の廊下を、チェルシーのトランクを乗せた台車を押しながら、チェルシー達よりも先に年少の見習い達が走っていく


それを夫人とともに眺めながら、もう当分歩くこともない廊下を踏みしめる




「あの子達はあなたに似てるわ…

同じようにおてんばでやんちゃで、いつも明るくて、まるで太陽みたい」





「きっとあなたを見て育ったのね」




夫人は紫色のローブを引き、いつもとは違う豪華な正装だった


それは選抜の見習いを見送るためであり、チェルシーもそれを見たのは2年前の姉の選抜の時以来である





「それは、私…わがままで頑固だったし…

私みたいな見習いがまた生まれたとしたら、夫人も院長も大変ですね」




チェルシーは歩きながら重い攻略者バッグを時々揺らし、ちょうどいい位置を確かめた


すると、バッグを揺らす度にストラップやヘルメット、つるはしなどの小物がカラカラと音を立てる




「何を言うんです、チェルシー…

貴方がわがままだなんてことは一度たりとも思ったことはないですよ」



夫人は廊下の影をかぶりながら、幸せそうな表情で見習い達を見つめている


そんな夫人の顔をチェルシー改めて眺めた


10年前よりも、シワが多くなった夫人の顔は優しくなっていた


廊下を走るなと見習い達を叱らなくなったのも、時の流れのせいなのだろうか





しばらく夫人と喋りながら廊下を歩いていくと、女子寮とつながる男子寮の廊下に出た


やはり、廊下に連なる寮の部屋からは何の音も聞こえない


1ヶ月も前ならば、女子がこの廊下を通る度に部屋から男子が顔を覗かせていたというのに



ただの虚しい静寂しか、ここには残っていない













「…チェルシーは聖堂院にきて、良かったですか?」



立て付けの悪く、床を踏む度に木が悲鳴を上げる廊下を歩きながら、不意に夫人はチェルシーにそう尋ねた


チェルシーはそんなことは考えたこともなかったので、急な言葉に一瞬喉が詰まった


しかし、すぐに



「そんなの、もちろん良かったです

じゃないと今の私はここにはいないし…

目指すものも無かったかもしれない」




「その、ハルみたいに…」



と答える





チェルシーは廊下の脇の名札に目をやった



ディーン・クロラ、エヴァン・シュタイン…


チャン・ツァイツェン、ベン・ロックウェラー…


ハリー・ヘルストフィール…






ハリーの部屋のドアからは、光は漏れていなかった


まだ彼は寝ているのだろうか




チェルシーはハリーの部屋をフクロウのように見つめ続けながら廊下を通り抜ける





「そう…それならいいの、気にしないで」



夫人はチェルシーの方を見ずにそれだけ答える










チェルシーはハリーのことが気になった


夫人にハリーのことを聞こうかと思ったが、それはそれで自分がハリーのことばかり考えてるみたいで嫌だった


なかなか夫人に口を開けないまま、聖堂院の正門に着くと、そこにはウィンストンやセオルの役人、スタンリーにその他聖堂院にゆかりのある攻略者たちが集まっていた


中には攻略協会の権力者、名だたる攻略者もいた



その数は全部で30人から50人ほどで、あの大きな正門が小さく感じるほどだった


2年前のマチルダの時も、こうしてたくさんの人に紛れて自身の姉を見送った


いざ自分が送られる立場になると、なんだか大袈裟で照れ臭かった




「チェルシー、おはよう

昨日はよく眠れたかい?」



ウィンストンがチェルシーに向けて喋りかけながら、役人と近くにまで寄ってきた


ウィンストンもいつもとは違う、学長の厳かなローブを身にまとっている




「ええ…おかげさまで」



チェルシーは嘘をついた


本当は大迷宮への興奮と1人での攻略への不安から、ほとんど寝れていなかったというのはこんな場所では口には出せない




「そうか、なら早速だが皆さんに挨拶を…」



チェルシーは攻略バッグを一旦セオルの役人に渡し、ウィンストンに手をつられて、権力者や攻略者達に挨拶をして回った


何人か回ってからスタンリーのところに来ると、チェルシーは少し顔を緊張させた


スタンリーはそれがわかったようで、少しだけ笑ってチェルシーに語りかける



「チェルシー、今更私もお前を咎めたりするつもりなんかないよ…そんな顔しないで…

1人でやると決めたんだろう?頑張りなさい」





「あ、ありがとうございます…」



チェルシーは苦い笑いを噛み締めながら、スタンリーともハグをした


チェルシーはどこまでいってもこの老人が苦手だった



スタンリーの元から離れてから、横にいたウィンストンが耳打ちをする



「スタンリーさんはね、もう攻略者を引退されるんだ…

もう70を超えている高齢だから…攻略協会側から止められたらしい

本人はまだまだやる気だったようだけどね」





まあ、そうだろう


あれだけ元気で、冗談も言えるような余裕がありそうなのだから、まだまだ現役でやっていけるはずだ


チェルシーはスタンリーの存在が改めて恐ろしく感じるのだった





あらかた、聖堂院に集まった人に挨拶を終えると、ウィンストンは正門前のロビーにいる全員に聞こえるような音で手を叩く


群衆の注目はウィンストンととなりにいるチェルシーに移り、チェルシーは少しだけ緊張した


大勢の人間に注目されるのはチェルシーにとって、慣れたものではない





「さあ、皆さん、写真を撮りましょう!

全員我々の横と後ろに並んでください」



ウィンストンは大きく手を仰ぎながら群衆を手招きする


すると続々と椅子やひな壇などが配られ、次々に人が並び始めた


真ん中にいたチェルシーの横には、ウィンストンと夫人、その横には年少の見習いも並ぶ


2、3回ほど撮りなおしてから、正式な写真が現像されると、セオルの役人とウィンストンが丁寧に額縁に入れて攻略協会の人間に手渡した


今取られたこの写真は、セオルの浮遊岩盤の中心地にある攻略協会の正教会に正式に飾られるもの


チェルシーは変な顔をしていなかったか、少しだけ気になった





写真の確認が終わると、とりあえずこの場は解散となり、チェルシーは人の波に流されるように正門の外に出た


聖堂院の外はすでにお祭りのような騒ぎになっており、ウェールズ全体が賑やかな雰囲気でごった返していた


どうしてこんなことになっているかというと、これは1年1度、大迷宮への巨大なゲートが開かれるからである


いかなる理由があろうとも、ゲートは1年に1度、さらに開く日の正午から5分の間しか開かないため、ゲート解放の日は半ば記念日のようなものになる


だから、今日のウェールズはこのように賑やかなことになっているのだ






「いやぁ、凄いことになってるね」



ウィンストンがチェルシーの横で額に手を当かざしながら、遠くを見回した


チェルシーは役人から荷物を受け取り、再度バッグを背負い直すと、ウィンストンや人の波につられて長い石段を下り始める


聖堂院の外でも、近くの民家の窓から顔を出してこちら見ている民衆や、出店から顔を覗かせる商人などの視線が痛いほど突き刺さった


姉もこんな気持ちだったのだろうか


石段を下がるたびにそう思った




夫人やウィンストン、役人達が民衆の塊を割いて道を作り、チェルシーはその轍を進んでいく


美しいウェールズの街並みが、どんどん視界の外へと消えていった


後ろを向いても、景色は消えていなかったが、いつしか、背後が真っ暗になるんじゃないか


なぜかそんな不安が脳裏をよぎる



これは大迷宮への恐れなのだろうか


死へのイメージなのだろうか


それとも、緊張とワクワクからくる、あの口では説明できない何かなのか


チェルシーは、変な汗を思い出しながら足を運ぶ




ウェールズの中心地、大迷宮のゲートの前の攻略者達が集まる一本道に着いた頃には、チェルシーは汗だくになってしまっていた


気温が高いわけでも、激しく走ったわけでもなかったが、不思議な汗がチェルシーの肌を濡らしていた


他のみんなはそんなことはなかったが




ここでウィンストンはセオルの役人に、聖堂院の面々だけにしてくれと言い


残ったのは、ウィンストンと年少の見習い、スミス夫人と荷物を抱えたチェルシーだけになった






「ルチアーノ、時計がずれてないか確認してもらえるかい?」



ウィンストンが夫人にそう問いかけると、夫人はすぐにローブの裾から黄金の懐中時計を取り出し、その蓋を開いて睨みつける


ウィンストンはその間にチェルシーと荷物の確認を行う


年少の見習い達もそれを手伝う中、ゲートの方からゲート開放5分前の鐘が鳴り始めた




「チェルシー、これを持って行きなさい」



夫人は懐中時計の蓋を閉めると、チェルシーの首に懐中時計をかけた


この懐中時計は、選ばれた見習いの全員が持たされているものだった


二つの蓋が付いており、前面には時計が、裏面にはコンパスが備え付けられている


マチルダがものすごく高いものだと言っていたのを思い出した




「ありがとうございます…」



チェルシーは時計の肌触りを確かめると、大迷宮のある方を見る


そこには、巨大なゲートとその向こう側にそびえ立つ、大迷宮があった


約1,000メートルの幅と、見るだけでは測りきれない高さの迷宮が空を突き抜けている


抱えきれないほどのオーラと気迫が、ゲートから漏れ出ているのがわかった



チェルシーは唾を飲んだ




ついに、夢の第一歩がこの10年の歳月を経て始まるのだ


心はさらに熱くなり、肩と拳が余計なものを払うように震える


大迷宮への覚悟は、既に整っていた





「チェルシー、いよいよだね」




ウィンストンの両手が肩を触れながらも、チェルシーは震えを止められなかった



不安、後悔、期待、恐怖


そして勇気の鼓動がかつてないほど、それは朝の鐘よりも大きく、鳴り響いていたからだった



10年




それ以上に待ち続けた旅が、この後5分もすれば始まってしまうのだ


長年憧れた英雄や、夢の一部に触れることができるかもしれないのだ



チェルシーの目は、すでにこの世界のもののそれではなかった



ずっとずっと遠い、星の彼方の闇の先


心の奥の光の上


そのはるか先を見透かす、究極の目



瞳の輝きはさらなる勇気となり、熱くなりすぎた心は、これまでの努力を自信へと変えていく



チェルシーが見習い攻略家から、本物の攻略者になった瞬間であった










「院長…もし今度またあのバカに会ったら言っといて欲しいことがあるんです」




チェルシーは震える片腕を抑え、ウィンストンに声をかける


ウィンストンは、そんなチェルシーを心配そうにを見つめながらもなんだい?と返した



「ハリーに、あいつに色々言ってごめんって言っておいて欲しいんです

色々バカにしたり、キツイこと言ったりしちゃったから…」


「自分で言うのは恥ずかしくて、できれば院長が誰かにお願いしたくて…

チェルシーがそう言ってたってだけていいですから…」



チェルシーは震えと勢いに任せて、ウィンストンにそうこぼした


ウィンストンはというと一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに満面の笑顔で



「分かったよ、任せてくれ」



そう言いながら、チェルシーの震えている方の腕を軽く叩いた









再び、ゲートからは開門の鐘が鳴り始める


チェルシー達の周りにいた攻略者達も次々に近くにいる肉親か、友か、はたまた恋人かを抱きしめてはゲートに向かって走っていく



チェルシー達のいる位置からゲートまでは約500メートルほどあった


その広い道の脇は、既に興奮を抑えられない民衆や野次で埋め尽くされており、攻略協会の人間が彼らを抑えなければ、いつ暴動のようなことになってもおかしくなかった


真ん中の道は攻略者達のために空けてあり、その道は地面に書かれた導線によって2つに分かれいる


右側は大迷宮から出てくる攻略者のために空け、左側では大迷宮に挑戦する攻略者が列をなしている


こうでもしなければ、たった5分の間に出るにしても入るにしても、ゲートを通過することができないからだ


攻略者達の夢や、やっとの事で戻ってこれた安心などを、タイムオーバーで終わらせてしまうことなどはあってはならない


ゲートを通り抜けることを失敗した場合、それはどうしても自己責任になってしまうのだ


中には10年も待つような人間もチェルシーのようにいる


そんなことで、また一年持ち越しになるなんてことになればそれは本当に洒落にならないことだった





「チェルシー、もう時間はない

僕らがついてこれるのはここまでだ」




チェルシーは震える体をウィンストンに向け直す


ウィンストンはいつになく真剣な瞳で、チェルシーの目の奥を見つめた


チェルシーの目の輝きを感じたウィンストンは、すぐに笑顔に戻り




「…君も同じ目をしてる

マチルダやエリー、選抜のみんなと同じ目だ

とても美しく、僕たちにはもう欲しくても手に入れられないものだ」





「…後悔だけはしないように、いいね?」



ウィンストンはチェルシーの頭の後ろを軽く撫でた後に、後ろにいる一行に近寄るように手をかざす


ウィンストンの背後では、夫人が涙の浮かぶ顔をハンカチで拭っていた


その夫人のローブの端を年少の見習い達が不思議そうな顔でつまむ


チェルシーはすぐに夫人と抱擁を交わした



夫人は泣きすぎていて何を言っていたか分からなかったが、チェルシーのことを目一杯抱きしめた


年少の見習い達ともハグをした後に、最後にウィンストンとも抱擁を交わす


チェルシーはウィンストンの大きな胸に顔を押し付けた



彼は父であり、師であり、大切な家族の1人であった


それを思うと、今まで泣きもしなかったチェルシーの目にも涙が浮かんだ



夫人は母であり、年少の見習い達は弟と妹


聖堂院とはチェルシーの家だったのだ


その繋がりは、血よりも濃く、空の海よりも深い


迷宮を挟む壁程度では、断ち切れないものであった



ウィンストンはチェルシーの頭をその大きな手で撫でながら、いつもよりも強くチェルシーを抱きしめた



「大丈夫、大丈夫、君ならできる

君はうちで一番の努力家だ」



「でももし、どうしても進めなくなったら、辛くなったら、どうしようもなくなったら

すぐにだれか助けを求めるんだ

そして帰っておいで

僕らはいつでも待っているから」



ウィンストンはチェルシーを抱きながら、目を閉じて、暗示するように呟いた


夫人や見習い達もチェルシーを包むように折り重なって抱き合う


その温かいぬくもりが、チェルシーのお腹の下の方でやんわりと広がっていく


その瞬間に、チェルシーの中から優しい気持ちと、柔らかで、美しい悲しみがこみ上げる


チェルシーはウィンストンのローブに顔をうずめた


ウィンストンから離れる頃には、泣き顔を少しでも和らげるために





ゲートの上の城郭からは、カウントダウンのベルが鳴り始める


民衆の声は次第に大きくなり、列をなす攻略者達の額には汗がにじむ






ゲートの開放は、あと10秒のところまで来ていた

















……

………










いつもの鐘がなってから、早朝の鳥が鳴き始めた頃、ハリーはまたいつものベンチにいた


いつものように、首から下げたペンダントの蓋を開けて閉めるのを永遠と繰り返す



相変わらず無駄な時間を過ごしていた










昨日の夜中の早いうちから、重い荷物をまとめて逃げるように寮を出てから、夜明けを見届けた後もずっとここに寝転んでいる


何も考えず、ずっと空と星を、黒と青と

赤と白に変わるキャンパスを眺めていた





結局、聖堂院を出ても、どこにも行くところなんてなかった



下町に行くにしても、別の岩盤郡に行くにしても、セオルの船に乗るにしても、進む前に足が止まってしまう


なにかがハリーを進ませなかった






ハリーにとっても、ウェールズにとっても、今日はおめでたい日のはずだった




ウェールズでは大迷宮のゲートが開いて、攻略者達が多く出入りしていく


ある人は、感動の再会を喜び


ある人は、帰らぬ者達を嘆く


そのまたある人は、夢を胸に大きな一歩を踏み出すことだろう


住民達にとっては、何かが変化する素晴らしい日だった





ハリーも欲しかった自由を得たことで、気分は快晴より晴れわたっていたはずだった



でも、それはどうやら違うらしい


早朝から家々達が祭りを目前にした明るい雰囲気を催す中で、暗く陰鬱な空気を纏いながら、行くあてもなくさまよっては、また何もできずにここに戻ってきた


攻略コートのポケットでは、セオルの封筒がやんわりとハリーの手を温める


冷たく沈んだ心に反して、体は隅々まで暖かくなっていく


腹も減るし、歩き疲れた足は痺れている




心は死んでいても、体が生きている証拠だった








ハリーは空を見るための目を二の腕で遮りながら、ベンチを贅沢に使って横になっていた


近くには巨大なトランクと攻略バッグが無造作に投げ出され、履いていたはずの攻略ブーツは片方が横に倒れている


近くを散歩がてらに通るウェールズの住民は、ハリーを見るたびに足早に横を通り抜けていった


ハリーを覗くその目は、薄汚い浮浪者を見るような蔑んだものだった


だが、ハリーは既に浮浪者のようなもの




行くところもなければ、帰るところもない


それはハリーが勝手に思っているだけかもしれないが、あながち間違いでもなかった







(自分は何をやっているんだろう…)





静かな自然の音が響く中で、心の中につぶやきが小さく広がっていく


セオルの攻略ギルドに行けば、この満たされない心が少しでも変わるのだろうか


見える景色の一つでも、ちょっとくらいよく見えるのだろうか


それはわからない


思うだけじゃ、想像するだけじゃわからないことばかり


得るには努力をしなければいけないことばかり


小さい頃から、いつまで経っても成し遂げられないことばかりだ




ため息と小さな愚痴を心でこぼしながら、このどうしようもない感覚を持て余す


それはこの7日で、何も成長していないということなのだろうか


チェルシーから言われたことも、院長から言われたことも、夫人やベンから言われたことも全て、口だけで返事をしていただけだったのかもしれなかった


わかっているつもりで、いつも相槌だけの返事は返している


だが、それに見合う行動はしない


こんな状況が続くと、いつの日かそれが癖となり


癖は時とともに日常となって、日常は人生へとつながっていく


その結果がこのザマだ






今のハリーは負け犬だった




何一つ得られないまま、成し遂げられないまま、世のことわりの通りの罰を受け、当然の理由で自分を殺している


一体こんな人生の何が楽しいのか


何が好きでこんなことをしているのか


ハリー自身でもわからない



いつになったらまともになれる日が来るのだろう



それは少なくとも、何年も先な事の気がした








「君は、こんな僕でも許してくれるかい?」







ハリーはペンダントの中の女性にそう問いかける




彼女は10年前から笑顔のまま


美しい顔立ちで、蓋を開くたびにハリーにはにかんでくる


いつの日か、この小さな世界から飛び出してくるのではないか


慰めにきてはくれないだろうか



そんなことをぼんやりと考える








この女性が誰か、ハリーも周りの誰もわからなかった


一応、昔スタンリーにどんなものかの鑑定はしてもらった




どうやらスタンリーの時代の人々でも知らないほど古い写真らしく、スタンリーが眉をひそめながらルーペ越しに眺めていたのを思い出す



結局、50から70年以上も昔の、かなりの年代物であるということしかわからなかった





引き続きペンダントを眺めていると、今度はその女性がなぜかチェルシーと重なった


もっとも、ハリーはチェルシーがこんな笑顔を見せている瞬間など、ほとんど見たことはなかったが






ペンダントの中はというと、その写真以外は何も入っていなかった


手のひらの一回り小さいくらいのものなので、他に何が入るかというわけでもない


写真以外はただのペンダントだ






小さな女性は今日もはにかむだけだった


今度は、チェルシーと重なった笑顔でだ






ハリーは再びため息をつきながらペンダントを閉じて空を見上げる


そこでは、昨日と同じように雲が流れていく


そして、またそれが分裂して消えていく


それの繰り返しだった






ハリーはまた思った



雲になれたらと






しかし、今日は違った



それは雲は昨日と全く同じだったからだ



雲になれても、同じ事の繰り返しなのかもしれない


今と全く変わらないのかもしれない



いいや、雲は風に流されて飛んでいく


それは常に受け身で、自分から流れていくことなどないという事だった




それに比べたら、自分はまだチャンスがあるだけマシなのだろうか


自分から行動できる可能性があるのだから…







なんて、ここまで来るとそんな意味も無いことしか、考えることもできなくなっていた


でもそれくらいして、自分の過ちを忘れなければ、自分を褒めることも足りない自信を取り戻すこともできやしない


無駄に時間を消費することで、見えてくる可能性があるかもしれない






ハリーはまた目を閉じた



日が昇る頃には、自分が少しでもマシな人間に変わっていることを信じて










……






「ヘンリー起きなさい、もう時間だ」







闇の中で、ハリーはそう声をかけられた


重たい瞼を開けると、そこには見たこともない部屋の天井があった


このシミだらけでカビだらけの天井は、ウェルーズや聖堂院のものではない


それはハリーも一目でわかった


おそらく外国の、他の岩盤群の様式のものだ




ハリーは細長い部屋の中央に置かれた、大きなベッドに横たわっていた


上体を起こして辺りを見回すと、そこには古ぼけた家具たちが並べられている


中のワタが飛び出た高級そうな椅子、ススだらけで鏡面の濁ったドレッサー、茶色い木目の重そうな箪笥


どうやらそのどれもが、相当な年季が入ったものであった



右手の出窓からは淡い夕方の光が差し込み、部屋全体を小さく照らす


窓の外は何やらぼやけていて、よく見えない


左手側には、トイレやユニットバスか何かにつながる個室が角を立て、その横側には外につながるであろう細い廊下と重そうなドアが見える




ハリーはそのままベッドから床に足をつけると、ふわふわした頭を抱えた



なんだか不思議な感覚だった

意識ははっきりとしていても、なかなか考えがまとまらない


自分はなぜこんなところにいるのか、今は何時なのだろうか


そんなことを考えようとすると、すぐに泡のように思考が消えてしまう


今の体が自分のものではない気がした


ハリーは何も考えずに、そのまま左手の廊下の方へと、おぼつかない足取りで歩いて行った




その途中でドレッサーの前を通るときに、ふと鏡の方を眺めた





すると、そこに写っていたのはハリーではなかった


素足に水色の寝巻きを着た、ハリーと同い年くらいの金髪の少年だった





ハリーは一瞬自分を見失った


体は違うが、自分はハリー・ヘルストフィールである。もちろんそれはわかっている


なのに肌や体に触れると、骨格も容姿も全く違う全くの別人だった


ハリーは混乱した勢いでそのまま床に尻餅をつく


ドレッサーの下の方で血相を抱えた誰かが、肩で息をしながらこちらを見つめていた


上手く考えがまとまらないのもあってか、慌てて水回りのある個室に駆け込む


しかし、洗面所の鏡に映っていた顔もまた金髪の誰かだった


ハリーの呼吸はどんどん荒くなる



誰なんだ


一体自分は、この鏡の中のこいつは誰なんだ



誰か教えてくれ






ハリーはとっさに気づいた



自分はここに来る前に声をかけられた


誰かはわからないが、ひどく老けた男性の声だった


彼なら何か知っているかもしれない




すぐに個室を出て部屋を見回したが、やはりそれらしい人物はどこにもいない


ここまでハリーは1人だった


だとしたら



ハリーはすぐ左にある扉を見る




迷わずドアノブを捻り、勢いよく外に出た


つまづくようにしてハリーは外に出ると

冷たい外の床に頬を打ち付けた


すぐさま顔を上げると、そこは扉と平行に一本道、薄暗く青白い光が照らす廊下だった


10メートルほどの廊下の先ではタイプライターの音がカタカタと鳴り響き、そのまた向こう側では人の気配がしていた


ハリーはすぐに立ち上がって廊下を走った






なぜか、ハリーは怖かった


人気のない部屋も、この不思議な空間も、この不気味な体も


不気味な風に撫でられるたびに、嫌な鳥肌が体を走っていくのだ


語ることのできぬ何かが、ハリーに恐怖を与えた




数秒もかからず廊下を抜けると、そこはまた一つの部屋のようになっていた


3平方メートルほどの小さな部屋は、さらに奥に大きな部屋がつながっており、そちらは暗くてよく見えない


見える範囲には、頭上まで書類に囲まれた事務机と黒いタイプライター、そして湯気の立つマグカップが机に置かれている


だが誰もいない


さっきまで音のなっていたはずのタイプライターは死んだ動物のように、何も言わない



さらに、ハリーはもう一つ、不思議なことに気づいた



部屋は鉄格子で仕切られていたのだ


タイプライターと暗い部屋のある方、そしてこちら側とでだ


鉄格子から手を伸ばしても、何一つ掴めない


ハリーは絶望した



わかっていても届かない、誰かいるはずなのに何もいない


これはとても嫌な感覚だった




「誰か!誰かいるんだろ!?なぁ!」



鉄格子に顔を押しつけながら、聞き覚えのない声で、暗い部屋に向けて叫ぶ


だが、何も聞こえない


何も感じない



「クソッ!なんだよ!」



ハリーは鉄格子を叩いた


骨と鉄が大きな音を立てて共振する


ジンジンと後から痛みが広がった





「誰か…誰かいないのかよ

1人はいやだ、1人は嫌なんだ」




ハリーは涙をこぼしながら、そのまま鉄格子に沿って床に崩れ落ちた


冷たい床の温度が体を伝っていく


孤独が、冷えた肌からじわじわと入り込んできていた




ハリーはしばらくの間、床に座り込みながら俯いた


しかし、何分経ってもこの孤独は解消されない


仕方なしに、また立ち上がって鉄格子の外を眺める




変わらず、マグカップからは湯気が立ち上り


無機質なタイプライターからは、打ちかけの書類が舌のようにむき出しになっている


暗い部屋の方に目をやるがやはり何も見えない


事務机に積まれた書類の1番上には、何かの契約書らしきものが見えた


だがそれも、青白いライトの下ではうまく見えなかった


仕方なしに、来た道を戻ろうと鉄格子に背を向ける



しかし、その視界の端にあるプレートがその身を光らせた



それは鉄格子の接する左の壁にくっついていたプレートだった


そこには、"No.4 ヘンリー・リュークス"と書かれている



ヘンリー



ハリーはここに来る前にその名前で呼ばれた


老人の苦しそうな声でそう呼ばれた




この金髪の少年はおそらくヘンリーという名前だった


ヘンリーはハリーであり、ハリーはヘンリーであったのだ










なんのことか意味がわからなかった


いつのまにか、ハリーはヘンリーの体に乗り移っていたのだ


見たことも、出会ったこともない金髪の少年に、魂が入り込んでしまったのだ




「ああ!なんてことだ、どうして…

ぼくが…ヘンリー!?冗談じゃない!」



ハリーは再び頭を抱えた


脂汗が止まらなかった


重い焦りがハリーを包む




「ヘンリー、ヘンリーって誰だ!

なんなんだよこの体は!僕は僕だ!」




「ちくしょう!ふざけんなッ!」



ハリーは頭を抱えながら体を壁に打ち付ける


鉄格子がガシャンと音を立て、その衝撃で向こうのマグカップが床に落ちた


床一面に紅茶とカップの破片が広がり、その破片の一つが鉄格子の中に入ってくる


ハリーはそれに気づかないまま、この小さな空間を暴れまわった


案の定、破片を踏みつけ、思わず痛みで床に倒れこむ


赤い血が足の裏から吹き出した


ハリーはその血を眺めて再び我に帰る




「ああ…なんでだ…僕は何を…」




「僕は僕だろう、僕は僕以外の何者でもない

そうさ、ちょっと考えればわかる」



「…そうさ、僕は僕であり、ヘンリーはヘンリーだろう?何がおかしんだ」





「何も…」







「何もおかしくないさ…」














「ヘンリーって一体誰なんだ」





静寂だけが、ヘンリーとハリーを包んでいた





……

………










「ハリー、お前こんなところで何をしているんだい?」







ハリーの耳にスタンリーの声が入ってきたときには、街はすでに祭りの音で賑やかな雰囲気を醸し出していた


ハリーは覆いかぶさった瞼をゆっくりと開けると、気だるそうに体を起こした


ボサボサの頭を掻きながら目をこすり、声のした方を向く





「…スタンリーさん?なんでここに…」




眠たい目をこすりながら、長い前髪をとく


その隙間から、あのしわくちゃの顔が見えた






「なんでも何も、偶然だよ…さっき聖堂院でチェルシーを見送ってきたとこさ…

そんなことよりこんなところで寝ていると風邪をひくよ」




ハリーが、横になって独占していたベンチの横を開けると、スタンリーはそこに重い腰を下ろした


杖をベンチの横に立てかけると、スタンリーは大迷宮へのゲートを方を指差す



「お前さん、見送りはしなくていいのかい?

こんなところで油を売ってるくらいなら、行ってあげたほうがいいとは思うよ」



スタンリーはハリーの寝起きの心臓を鋭くついてきた


彼女はハリーの状況を一目で見抜いていたようだった


ハリーはいじけるように逆の方向を見る





「…彼女はどうでしたか?」



スタンリーに小さくそう聞いた


しかし、老婆は澄ました顔で





「知りたきゃ自分で確かめにいきな、今からでも遅くはないんだから」



と、ハリー同様短く返した




ハリーは再び心臓を締め付けられた



チェルシーにこんな姿を見せたら、今度はなんて言われるのだろうか


彼女は大迷宮に挑戦するというのに、こんななりで彼女に会ったら、それはそれで失礼がすぎる


このままセオルに逃げおおせるべきか、チェルシーに、彼女に会いにいくべきか


少なくとも後者であれば、後に残るものはないだろう


だが、そういうわけにもいかない





「僕は…彼女に会う資格なんてありませんよ

スタンリーさんも知ってるでしょう?

大体、彼女は僕のことが嫌いだ」



「僕が行ったところで、彼女にかけられる言葉はたかが知れてます

そんなことなら、彼女に余計なことを言わないほうがいっそ…」




ハリーがまたつまらない言い訳を吐こうとすると、スタンリーは無表情でハリーの顔を見つめてきた


ハリーはそれにギョッとして、思わず口をつぐんだ






「…そうかい」




スタンリーは無表情のまま正面に向き直すと、しわしわの唇を震わせてそうこぼした


ハリーとスタンリーの会話はそこで終りだった


微妙な空気がハリーとスタンリーの間に広がる


もっとも、そんな空気感を気にしているのはハリーだけだった



気まずくなったハリーはベンチを立ち上がって、散乱した荷物を片付け始めた


投げ出されたトランクを直し、攻略バッグをそのトランクに立てかける


かがんで自分のブーツの紐を結び始めたあたりから、チラチラとスタンリーの方を覗いた



しかし、彼女はこちらを一瞥することすらしなかった


ただ、音のなる街の方を向いて、目を細めているだけだった



ハリーはいつのまにか、孤独よりも深い寂しさを感じた



あんなに優しくしてくれていた彼女が、なんだか冷たいのだから




「僕…もう行きますね」




「今まで…ありがとうございました」



ハリーは荷物をまとめ直すと、スタンリーに深く頭を下げた


形だけのお礼をして、さっさとこの場を離れたかったからだった


これ以上ここにいても、良いことなどないのだから



スタンリーの返事を待たずに、彼女の方を見ずにハリーは歩き出すと、背後からスタンリーから待ちなさいと一声かけられた


ハリーは振り返ることすら嫌だったが、それでももう会うことはないという事実が、ハリーを再びにスタンリーの方に向かせる


案の定スタンリーは笑っていなかった


最悪な気持ちが、妙に張り詰めた空気のせいでさらに尖っていく





「…なんです?」



いつものように目をそらしながら、それもいつもより不機嫌な声で返事をした


この時の人当たりは最悪だった


自分でも、嫌になるほどに




そんなふてくされたハリーを、スタンリーは眺めながらため息をついた


そして、傍からゴソゴソと何かを取り出すとハリーに向かって投げた


ハリーは急なパスに対応できずに慌てながらもなんとか、その何かをキャッチした





「それ、お前にあげるよ…

私が若い頃のやつだからとっても古いし、今はバンダナだけど…まだまだ使えるよ

もし攻略家として頑張るなら、きっと役に立つかもしれないからね」





何が何だかわからなかったが、ハリーは受け取ったものを眺める







それはボロボロの赤いマフラーだった


しかし、ただのマフラーではない


攻略協会の証、バラのマークの刻まれた、大迷宮や迷宮の通行パスとして使われるものであった


側面には、スタンリーやその前任者の名前が刻まれたドッグタグが4つほどぶら下がっている


そのうちの一つ、5つ目のドッグタグには名前が刻まれていない





これは、この空白のドッグタグにハリーが名前を刻み、後を継いでもらうということを意味するものだった



重い贈り物にハリーは驚き、戸惑う



「どうして…こんなもの…受け取れるわけないじゃないですか…」



「返します…」




ハリーはスタンリーの前に出て、マフラーを返そうとした


だが、スタンリーの鋭い眼光がハリーの足を進ませない


その目はハリーの目の奥を、そのまたさらに奥のはるか遠くの心を見据えていた


気迫が空気をビリビリと波打つ


一筋の汗が、ハリーの額を横切った




ハリーはマフラーを返すに返せず、渋い顔をしながらスタンリーの方を眺めた


彼女の鋭い目がハリーの目を捉えるたびに、ハリーは目をそらす


しばらくの時が経ってから、スタンリーはハリーの目を見ることをやめた


すると、ハリーは心の中でホッと一息つくのだった







「私はね、攻略者をやめるんだ

だからもうそれはいらないんだよ」







スタンリーは冷たい空気を取り去るように優しい口調でそう告げた


ハリーはマフラーをもらってから、なんとなくそれを察していた


赤いマフラーが、ハリーの手にその哀愁を伝える




「攻略協会から止められたからさ…

やつらが言うには、迷宮の歴史の語り部になれということらしくてね」



「退屈だけど、お前さんのような子がいるならば、それも悪くないんじゃないかとも思ってねぇ」



いつのまにか、スタンリーの口調はいつもの穏やかなものに戻っていた


アカプリのクッキーを腰を曲げながら焼いている時と同じ、ハリーの知っている顔だった


ハリーはそんなスタンリーを眺めながらも、マフラーをなぞる


不思議な感触が肌を伝った





「僕は…そんな価値のない人間です

これは…受け取れません」



ハリーはマフラーにくっついたドッグタグを眺めながらそう答えた


歴戦の攻略者の名前がドッグタグに刻まれている


そこに、こんな人間が名前を刻むことなどあってはならない


だが、スタンリーは首を横に降る




「今のお前に価値があるとかないとか言うと、お前の言うとおりないかもしれない

けどね、お前に渡したのにはちゃんとした理由があるんだよ

こんなボケたおばばでも、よく知らない子にはそれは渡さないさ」



ハリーはうつむいた顔を上げてスタンリーの顔を見る


今日初めて、ちゃんと彼女の顔を見た


いつものしわくちゃだけど、優しい顔だった


ハリーは何故か、心の底からせり上ってくる何かを感じた






「それに…お前はチェルシーをこのまま行かせる気かい?」




ハリーの脳裏に再びチェルシーの顔が横切っていく



最低でも、本当はもう一度会って、頑張れよくらいの言葉をかければよかったと後悔していた


一応はあのチェルシーとも、子供の頃に一緒に大迷宮を指差して夢を語ったのだから


それに、きっと彼女もベンやスタンリーや夫人やウィンストンと同じように、優しい人なのだろうから




「…まだお前にチェルシーとバディを組む気があるのなら、彼女がお前になんと言おうとも一緒に行きなさい

それが本当に嫌なら、挨拶だけして帰ってくればいい」


「後悔しかしない道を選ぶのは、今日でやめにしな」



スタンリーは優しい顔を潜め、まっすぐハリーの方を見た


ハリーも今回だけは目を逸らさなかった


たじろぎながらも、スタンリーの小さな目を見返す




「いいね…?」




先ほどよりも大きな威圧を吐きながら、スタンリーはハリーを見つめ続ける


しかし、ハリーが困ったような目をしだすと、シワのたくさん入った口元を少しだけ曲げた


ハリーはそれがわかると、緊張で煮えきった息を深く吐いた



目を合わせるのが、こんなにも疲れるなんて


ハリーは頭の中で胸をなでおろした





「…お前さんの目をちゃんと見るのは初めてだね」




スタンリーは少しだけ笑いながら、ハリーにそう告げた


当のハリーは振れる心境のせいで、不思議な疲労感を覚えるので一杯だった


ハリーは額を手でぬぐいながら、再び腕から溢れるマフラーを見つめる



ちょっとくらい頑張ってみようか



ハリーの腕が、赤いマフラーにそう声をかけた気がした



それを見て、スタンリーはまた一層嬉しそうに笑うのだった







「さて…ならそろそろお前もここを…」



笑うスタンリーがそう言いかけた時、突如大迷宮の伸びる方角から大きな鐘がなった


それは、開門10分前に鳴るあの鐘だった





「あまり時間はないらしいね、結局どうするんだい?」




スタンリーは再三ハリーを見つめた



ハリーは慌てて荷物をまとめ始めた


あの鐘がもう一度鳴る頃には、チェルシーはもうあのゲートの向こうなのだろう


なんとか挨拶だけでもできれば、それでいい


でも…それは最低限のことだ


ウィンストンがなぜ自分を連れて行けとチェルシーに言ったのか、きっとそれにも理由があるはずなんだろう…






「トランクは置いときな、私が見ておくから…攻略バックだけは持っていきんさい」



スタンリーは杖を振り回しながら、バッグやトランクの事を差した


ハリーはその言葉に頷きながら、バッグを背負って大迷宮のある方角へ走り出した


すぐにスタンリーのいるベンチが小さくなっていったが、ハリーは慌てて足を止めた


スタンリーが速く行くようにと、手を仰ぐもハリーも大事なことに気づく





「色々…ありがとうございました!」




ハリーは力一杯、出せる最大の声を上げてスタンリーに頭を深く下げた


スタンリーもそれを見て、呆れたような笑顔を見せながら、すぐに杖を大迷宮に向けて差し、ハリーに速く行くように促した


ハリーはすぐに頭をあげると、スタンリーに向けて手を振りながら全速力で走り出した



左腕に抱えていたマフラーを首に巻きながら、空に伸びる大迷宮を眺める


厳かな大迷宮はこちらを誘うようにゆらめいている


そんなわけがないが、そんな気がした




ハリーは走りながら下唇を噛んだ


暖かい感情が喉の奥にまで込み上げてきていたからだ


スタンリーもまた優しい人だった


いくら冷たくされようとも、厳しい言葉をかけられようとも、その言葉の奥底には揺るぎない優しさが光っている


スタンリーの言葉は嘘かもしれない


子供を騙すための安い気休めかもしれない


子供とは、騙されていた方がいいこともあるのだから


でも、そうじゃない




そうじゃないと思いたい




自分は都合の良く、馬鹿な男なのだろう


褒められるとすぐに調子にのるし、自分にとって嬉しいことはなんでも信じ込む


だからこそ、純粋に、その言葉のためだけに頑張れるのではないだろうか?


それが自分に残された、最後の砦なのではないだろうか?




嘘でもいい、騙されていてもいいから




ちょっとくらい頑張ってみようか



今回はなぜかそう思えるのだ




今まで、スタンリーも夫人もベンも院長も、そしてチェルシーも、言葉は違えど同じような言葉をかけてくれていたはずだった


今になってそれはわからずとも、ハリーはもうそう思うことにした


どんなに臭くても、どんなに格好が悪くても


自分が変われるのなら、もうそれでいい


そうさ、せっかくだしやってみよう






ハリーは少しだけ、前を向ける気持ちを取り戻せた気がした





……

………






街が今日最高の盛り上がりを見せる中、ハリーはその喧騒を裂くように走った


時には人の肩を押しのけ、屋根の上にも飛び乗った


酒場の看板をひらりとかわし、ハリーしか知らない抜け道を、音を置き去りにして駆けていく


それはまさに、伝承の"狼"のそれと瓜二つであった





ゲートに続く長い石段に、やっとのことでたどり着いた時には、ハリーは既に倒れこみそうなほどに息が上がっていた


攻略バッグの重みが、ハリーの体を余計に疲れさせる


こんなものがなければ、もっと早く走れたのに…


そんなことを、汗を垂らしながら誰かに嘆く



しかしそんな短い休憩もつかの間、ゲート解放のベルが鳴り響いた


200メートルもの高さのある石段の上の方では、まってましたとばかりに民衆たちが盛り上がっていた


既にゲートは開き、チェルシーも走り出した頃だった



おそらくもう間に合わないだろう



ハリーはまた悟ったように肩を落とした



やっぱり、自分はこうやってギリギリのところで間に合わない


あとちょっとのところで足りない


そんなことばかりだ


また、こんなことの繰り返しだ






だが、今回のハリーは少しだけ違った



まだだ、まだ間に合うかもしれない


もしかしたら、今回だけゲートに何かが挟まって閉まるのが遅れるかもしれない


誰かがこけて、閉めるに閉められない状況になるかもしれない




何のために、こんな重いバッグを背負ってここまできたのか


今回ぐらいは諦めるのを止めるべき





ハリーの心の中で、ハリーがそう言い聞かせるのだった





「はぁ…僕もほんとバカだな

こんな熱くなっちゃって…」


ハリーは頬を叩いた


そして、重くなった足を回すように、すぐに走り出した



この時間の石段は大迷宮から出てくる攻略者たちのために、原則として中央部を開け、見物人や民衆は傍に掃けることになっている


そのこともあって、現在は攻略協会の役員が興奮する人々を抑えることで、何とか中央の石段は通れるようになっていた



ハリーはその開いた道を堂々と、再び風となって駆け抜けた


下段の役員はそんなハリーに驚いて転げるものの、上段の役員達はそんなハリーを見つけると次々に声を荒げた






「おい!そいつを止めろ!時間外だ!ここを通すんじゃない!上に行かせるな!」





上段の方では、ハリーに気づいた役員達が中央の石段を塞ぐように並んだ


攻略者だろうが、一般人だろうが、既にゲートの前の一本道には人が入る隙間もない


ここでハリーを通すと、周り民衆の興奮が抑えきれなくなるのだ


しかし、こちらも引き下がるわけにはいかない



役員達は次々にハリーは飛びかかった


しかし、ハリーはその隙間をするりと抜けていく




何故かハリーの頭は変に冴えていた


こんなにも人の波が溢れているのに、全てがスローモーションに動いているように見えていたのだ


そんな中でハリーだけが、その何倍もの速さで動けていた


とても不思議な感覚だった




ハリーはあっという間に人の波をすり抜けてゲートの前の一本道に出ると、すぐに傍の民衆に潜り込んだ


人の波の間から、役員達がハリーのことを探しているのが見える


だが、すぐに民衆が役員の元になだれ込んでもみくちゃになっていった


ハリーはそのままゲートの方へと、再び泳ぐようにして人の波を進んだ


ゲート手前では、いまだ長い列を作る攻略者達とその反対側で雪崩れるように大迷宮から流れ出る攻略者達でもう何が何だか分からない


一本道はそんなに広さもないはずなのに、まるでハリーは大きな湖にでも浮かんでいるかのようであった





「何だこれ…!どうなってんだ…!」




まずはチェルシーを探さねばならなかったが、正直それどころではなかった


橋の上は人が多すぎて、先ほどよりもスラスラと前に進めない


すり抜ける隙間が少しもないのだ


人と人がぶつかり合って、どうしようもない



ハリーは再び焦りを感じた


これでは先に進めない


それでは、ここまで来た意味がない



ハリーはしばらく揉まれながらも橋の手すりまで追いやられ、人々が動くせいでそこから全く動けなくなってしまった


攻略バッグが大きいのもあってからか、やたらと人波が当たるせいで、どんどん後ろに流される


このままでは…





ハリーは足りない頭で考えた


中央も淵も人の密度が高すぎて進むのは不可能


人々の肩を踏みつけて上から行くなんてことはできない、中には子供だっているのだから


何かないか、こうしている間にもゲートが閉まるまでの時間はどんどん過ぎていく



ハリーは冷や汗を流しながらも打開策を探した


人の波は高さもあるせいで前の方も見えない



仕方なくハリーは手すりの上に登った


手すりの向こう側は谷


そこから落ちることは死を意味していた



だが、こうなったら死ぬことなど関係ない


やれるだけやってやろう


そんな気持ちが、珍しくハリーには沸いていたのだった


その甲斐あってから、ハリーはあることに気づく




100m先に、少しだけ間の空いている場所がある


そこは迷宮に挑戦していった攻略者達のいたスペースだった


そこに、ウィンストン達がいたのだ


だが、チェルシーはいない




「ウィンストン院長!ここです!ハリーです!気づいて…!」




ハリーは手すりにまたがりながら、大声をあげて院長達に叫ぶ


しかし、彼らはこちらを見向きもしない


この周りのガヤに、声はかき消されてしまっているのだ



「全然聞こえてない…そんな…」



手すりを乗り越えた以上、ハリーは同じところには戻れなかった


そこにも人の波が押し寄せていたからだ


つまり、動けなくなっていた








だが、まだ、諦めるわけにはいかない




ハリーは再び汗をぬぐいながら、息を大きく吐いた


そして、攻略バッグを背負ったまま、幅が10cmもない細い手すりを立ち上がった


近くで波に揉まれる民衆がそんなハリーを見て声を上げる


危ないぞー!という声や、女性の悲鳴がハリーの耳を抜けていったが、全て無視して、ハリーはそこから全速力で走り出した


手すりに寄りかかる人々の手を踏まないように避け、100mを一気に駆け抜けていく


右手からは死が手を招き、左手からはそんなハリーに気づいた民衆や人々の波が驚きの声をあげ続ける


半分を超えたあたりで、後ろのガヤ騒ぎに気づいたウィンストンたちも後ろを振り返った


夫人は手すりを走っているのがハリーだとわかると、口に両手を当てて驚く


年少の見習い達は悲鳴をあげている





「ハリー!?な…!何をしてるんだハリー!」



ウィンストンは頭を抱え、驚いた顔でハリー走る方の手すりに駆け寄った



「院長!そっちへ飛びます!道を開けて!」




ハリーは走りながら、ウィンストンの方へ叫ぶ


奇跡的にそれが聞こえたのか、ハリーの念が通じたのか、ウィンストン達はすぐに周りの人をはけ始めた


あまりの出来事にか、いつのまにか大迷宮のゲート手前で詰まっている攻略者達もハリーの方を向いていた


そっちの方を見る暇はハリーにはない




今世紀最大の恐怖を胸に、ハリーはついに手すりを走り抜け、ウィンストンの開けた小さな空間に向けて前のめりに飛んだ


誰もが驚いた顔をしながら、その滑空を目撃した


民衆はまるで火を投げられた暗闇のネズミのように、飛び込んでくるハリーを避けた


そのせいでハリーは地面に顔をぶつけながら、橋の内側に転がった


攻略バッグから鍋やら食べ物が散乱し、人々の足の森へと紛れていく


最後は地面に頭を打ち付けて、やっとのことで静止した


着地というよりも不時着に近かった





「ハリー!大丈夫か!」



ウィンストンが駆け寄るが、ハリーは痛む頭を抑えながらすぐに立ち上がって、ウィンストンに詰め寄った




「院長…!チェルシーはどこですか…!もう先に行ったんですか…!?」




ハリーは花火の散る頭を手で押さえながらウィンストンのローブを掴む


ウィンストンはハリーの肩に手を当てて、ハリーのことを困惑した目で見た




「…一体どうしたんだ!君は今セオル行きの船に乗ってるはずじゃ!」



ウィンストンの背後からはスミス夫人や年少の見習いが駆け寄ってくる


ハリーはまだ目が回っていた




「ハリー!どうしてここに!」



夫人はハリーに近づくないなや、ハリーに驚く顔を見せた


しかし、ハリーが首に赤いマフラーを巻いていることがわかると、すぐに何かを察したように、険しい顔でローブから黄金の懐中時計を取り出して時間合わせを始めた


ウィンストンもそれを眺めてやっと理解したような顔でハリーを見た


ハリーも頭を打った衝撃が、やっと薄まってきたところだった





「決めたんだな!?ハリー…!

チェルシーと一緒に行くと…決めたんだな!?」




ウィンストンはハリーに強い言葉で問いかける


一瞬、ハリーはその凄みに驚いた顔をしてしまったがすぐに頷き




「これ…返します…すみません

あとベンやみんなに、伝えておいてください…こんな自分が大迷宮への切符を使ってしまってごめんって…」




ハリーはポケットから、ロウのバラのついた封筒をウィンストンに返した


ウィンストンも小さく頷き、それを受け取るとハリーの目をまっすぐと見つめた


ハリーはそれに少したじろいだものの、そのウィンストンの目をまっすぐと見つめ返した


するとウィンストンはすぐに力一杯ハリーを抱きしめ、背中を叩いた



「君には済まないことをした…

だが君はそれにも負けなかった!

ここにきてくれたことに感謝するよ…!」



「チェルシーは先に行ったけどまだ間に合うはずだ…!少し先にいる!」




夫人も折り重なってハリーを抱いた


ハリーもそれに答えるように顔を埋める




だが、あまり時間は待ってくれない




ゲートから鳴る、最後の鐘


ゲート閉鎖の鐘がついに鳴り響いた



スミス夫妻は慌ててハリーを放し、夫人は懐中時計をハリーの手に織り込んだ



「ハリー、あなたを愛しているわ」



ハリーの手を握りながら、夫人はハリーに最後の声をかけた


ハリーは首だけで頷くと、夫人を大きく抱きしめる


そしてすぐに、夫人の手をするりと抜けて、夫人達の方を振り返ることなくゲートの方へ走り出した




少しの涙が、ハリーの目頭から風に乗って消えていく



2人はハリーの親だった


馴染みでもない他人の子供のはずなのに、1人の子供として扱ってくれた


それは、こんな世界でまずありえない





ありがとう



その言葉を伝えるのを忘れてしまった



帰ってきたらたくさん言おう



ハリーは一度も、後ろは振り返らなかった




ゲートは閉まるというのに手前はまだ人混みで溢れている



もう今更遅いのかもしれない



それでも、ハリーは足を止めなかった












「チェルシー!連れてってくれ!僕も連れてってくれ!」













……

………





「チェルシー!」







チェルシーは名前を呼ばれた気がした




孤独な旅の前に、一筋の言葉をかけられた気がした





いいや、やっぱりかけられたのだ



絶対にそうだ



その言葉の主は自分がよく知っているのだから





チェルシーは人の波に流されながらもすぐに振り返った





その随分と後ろの方で、見知った顔を見る




ハリー・ヘルストフィール






なぜ彼がここにいるのか



なぜ彼が自分を呼んでいるのか



孤独のオーラに包まれたチェルシーは一瞬何が何だか分からなかった



だが、徐々に何か込み上げてくる



なんだ?どうしてハリーがここに?


意味がわからない、でも知ってるはず


おかしい、おかしい




ハリー?



ハリー…



ハリー!?



どうして






「え…?なんでよ…」




「なっ…!?ハリー!アンタなんで!?」




チェルシーは攻略者達の波に飲まれながらも、ハリーを見た


チェルシーは既にゲートの内側に入っていた


ゲートは閉まり始め、慌てて駆け込む攻略者達のその向こう側にハリーはいた


彼はおそらくもう間に合わない


こっち側に来ることはできないだろう




「チェルシー!連れてってくれ!頼む!」



ハリーは跳ねながらチェルシーの方へ手を振った


その後すぐに攻略者達に肩をぶつけられ、盛大によろけている




「馬鹿!戻りなさい!アンタ頭おかしいんじゃないの!?扉に挟まったら死ぬわよ!」



チェルシーは必死でハリーに声をかけるがハリーは聞く耳を持たない



「チェルシー!頼む!こっちまで来て僕の手を引っ張ってくれ!」


ハリーは必死でこちらに呼びかけるが、その度に何かに引っかかったり、攻略者に当てられたりしてよろけてばかりだ


人の波は彼をなかなか進ませない



「信じらんない!馬鹿ね!もうアンタなんか知らないわよ!」




チェルシーは愛想をつかすような素振りをして大迷宮の方への向き直って、人の流れに身を任せた



これで良かった


ハリーを連れていくなんて、やっぱり自分には荷が重すぎる






「おい!チェルシー!待ってくれー!」





ハリーは情けない声を上げながらどんどん荒波に戻されていった




「チェルシー!待てって!頼む!」




ハリーの悲壮な声が、チェルシーを引き止める


だが、チェルシーは目をつぶってその言葉も無視した


やがて、ハリーの声は遠くなっていく




「待ってくれ!チェルシー!」






チェルシーは耳も塞いだ


だが、心の奥でチェルシーがチェルシーに呼びかける



本当にそれでいいの!?


絶対後悔するわよ!


人でなし!そんなの可哀想だわ!



心の中のチェルシーは自分にも厳しかった


その言葉もハリーが離れていくほど強くなっていく


良心の強いチェルシーは結局、観念したように足を止めた





「もう!私の馬鹿!」



すぐに、ハリーの方に振り返り人の波を逆に進み始める




ハリーの手を取るために




「ハル!これで私が大迷宮に行けなかったらアンタのこと一生許さないからね!」



チェルシーはハリーの方に向けて声を荒げた



だがそれに反応はない


頭上ではどんどんゲートが幅を絞る中で、人の波をかきながらチェルシーはゲートの外側まで出てきてしまった


だが、肝心のハリーを見失ってしまい、嫌な焦りが冷や汗を垂らす



「ハル!馬鹿!どこなのよ!」




しかし、チェルシーがハリーの名を叫ぶとすぐに波に投げ出された手に、温もりがほのかに移ろった


そして、まるで孤独を裂くかのように波からハリーが顔を出した



「チェルシー…!悪い…さあ早く行こう!」



ハリーは申し訳なさそうにチェルシーの手を握り返した


チェルシーは不覚にもほんの少しだけそれに安心してしまった


だが、すぐに険しい顔に戻って



「アンタぁ!ホントに冗談じゃないわよ!

私は中まで入ってたのに!これじゃ間に合わないじゃない!どうしてくれんのよ!」



チェルシーはハリーの手を思い切り手をつねった



「痛い!痛いよ!ごめんて…!

そんなことよりさっさと足を動かさないと本当に間に合わなくなるぞ!」




申し訳ない顔をしながらも、今度はハリーがチェルシーの手を引いて波をかき分けた




もうゲートが閉まる直前だというのに、まだまだ人の波は収まらない


それどころか、先ほどよりも勢いを増している


チェルシーは不意に扉の断面を見た


2mもの厚さを誇るゲートの側面には、かつて挟まって潰れてしまったであろう攻略者の血のシミが今でもくっきりと残っている


そのせいで、不安が急に心を締め付けた



「これじゃ…いけないわよ!挟まれるわ!」



チェルシーはすぐにハリーの方を見たが、当のハリーはチェルシーと違って笑顔を隠さない



「大丈夫…閉まる直前はみんな命の危険を感じて後ろに下がる…そこを一気に走って抜けるんだ」



チェルシーはハリーが手を握り返してくるのがわかった



「そんなの!挟まれたらどーすんのよ!」



半ばヒステリックになりかけたチェルシーだったが、すぐにハリーはチェルシーの顔を見て笑う



「その時は、扉と僕を恨んでくれ」




チェルシーはそれになぜかまた少しの安心感を覚えた


不安の方がもちろん大きかったが、そんな不安の中に一筋の希望がちらつくのだ


こんなことは認めたくはなかったが、事実だった






「もう最悪…アンタのせいでなにもかもめちゃくちゃよ…」



ゲートはどんどん口を閉じていく


ギリギリに近づくたびに、上を見上げる攻略者達はだんだんと足を止め始めた


それでもまだ何人かはゲートをすり抜ける




「ああ….無理よ…無理無理無理こんなの無理に決まってるわ」



泣きそうなチェルシーを連れてハリーはどんどん進んでいく


もう人2人が通れないくらいの狭さになる頃に、ハリーたちはやっと扉の前まで来た


だがまだ人壁が2人を塞ぐ




「僕を信じて…最悪君だけでも送るから

大丈夫…信じて」





「あぁもう…神さま…最悪」




いつのまにか攻略者たちはゲートの上部からバッグを投げ入れて、スライディングをするように滑り込んでいく


チェルシーもハリーもバッグを投げ込み、その時を待った







「待って…まだ…まだ…まだ…今だ!いけ!」




3人前の攻略者がもう30cmもない幅にたじろいだ瞬間をハリーは見逃さなかった


前の3人を押しのけ2人はゲートに滑り込んだ



「行け!行け!行け!行け!」




チェルシーが先に、ハリーが後から続く



「いやぁ…!!」



チェルシーは扉を通り抜ける瞬間、死んだような気分になった


体の中の空気が全て抜け、内蔵をしぼませるほどの恐怖が襲ってきたからだった


ハリーはというと、横向きになりながらも手を詰めるギリギリのところでゲートを通過した


チェルシーとは違い、ハリーは滑り込みながらも雄叫びをあげていた



2人はその勢いのまま、大きく前に胸と顔を地面にこすりつける



しばらく生きているかどうか、チェルシーは分からなかった


チェルシー達よりも前にいた攻略者が驚いた顔をしていたのが見える


チェルシーはそれと同時に、睨みつけるようしてハリーの方を向いた




ハリーは胸を膨らませながら、仰向けになって倒れていた


しかし、その顔に恐怖の色はなく、笑みが溢れている






「言ったろチェルシー、行けるって」





チェルシーは呆れて怒ることもできなくなった


上体を起こして、そんな愚か者を見下す




「信じらんない…なに笑ってんのよ!」



チェルシーはへたり込みながら、ハリーの足を蹴り飛ばした



それでもハリーは笑っている



さも満足げで気持ちよさそうに




ただずっと、笑っていた








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