勇気のはじまり
「なあチェルシー待てって、無視しないでくれよ」
大迷宮へ行くために通過しなければならない扉は2つある
1つはウェールズの中心部にある厚さ2m、高さ25mに幅10mを超える巨大な二枚扉
一年に一度開く、大迷宮とウェールズを間接的につなげる扉である
巨大な扉のため人の力で開けることは不可能であり、扉の内側にある機械での自動開閉となる
そのため、開閉を途中で止めることはできない
この扉の開放を逃すと、少なくともその後一年は開閉を待たなければいけなかった
特に重要なのは、このウェールズに繋がる扉である
だが、この扉を超えたところにも、もう1つ重要な扉が存在する
それが、今チェルシーとハリーの目前にある扉である
こちらは、2人が通ってきた背後のそれよりも一回りほど小さい
しかし、扉の中央の一筋の線から漏れる狂気のせいで、その圧は背後の扉よりもずっと大きかった
2人はその扉と扉に挟まれたトンネルのような暗闇の空間を、前へ前へと歩いていた
「チェルシー、ほら、お互い色々言わなきゃいけないこともあるだろう?
前のゲートが開くまではまだ時間があるみたいだし…」
ゲートに滑り込んでから、ハリーはチェルシーに無視を決め込まれていた
たしかに、一歩間違えればハリーはチェルシーの夢への道を遮るところだった
チェルシーの大迷宮にかける思いというのは、ハリーのそれとはレベルが違う
チェルシーは人生をかけていたが、ハリーがかけているのは自分の気持ちくらいである
流石に今回ばかりは、ハリーも心の中で猛省した
その反省の気持ちも込めて、ハリーはもう一度チェルシーと話したかった
自分は前の自分とはちょっとだけ違うのだということ
それは信じてもらえなくても、聞いてくれるだけでもよかった
だが、ハリーがチェルシーにいくら声をかけたところで、チェルシーはハリーの方を向くことはなかった
ただ、闇の空間に散らばる攻略者たちを避けながら前へと進んでいくだけ
ハリーのことなど、意識の外側に放っているようだった
(参ったなぁ…)
ハリーは脇目も振らないチェルシーを後ろから眺めながら、彼女についていく
暗闇のせいで誰が誰だかわからなくなりそうだったが、見失うことはなかった
なぜなら、あのオレンジ色の髪がここでも美しくその色を主張していたからだった
ハリーは立ち止まる攻略者達を避けながら、時々辺りも見回した
扉と扉で挟まれたこの空間は、細長いトンネルのようだった
ハリーが踏みしめる床から天井への高さは20m以上あり、扉と扉の奥行きはざっと50mを超えている
あれだけの列を作っていた攻略者達が、まばらに散らばるほどには空間に余裕があった
トンネルの左手では、二本の松明に挟まれた、壁に埋まった小さな扉の前の机で、ずいぶんな人だかりができていた
どうやら彼らは、大迷宮を囲む"壁"の中で一年を過ごす契約をしているようだった
大迷宮から帰ってきたもののゲートに間に合わなかったものや、怖気付いてしまったもの、大怪我をしてしまったり病気にかかってしまったものなどは、壁の中でゲートの解放までの期間を過ごすことが許されている
あの小さな扉は、"壁"の中へと繋がるものであった
ハリーはそんな明るい左手を眺めながらも、チェルシーを追いかける
やはり、彼女は前だけを見て進んでいた
"逃げるための道"のことも、どうやら意識の外側に放っているようであった
しばらく、2人は前へと進んだが、前に行くほどに人々の隙間は無くなっていった
チェルシーがこれ以上進めなくなり、足を揃えたのが見えた時、ハリーは心の中で"チャンス"と呟いた
すぐにハリーは、つま先立ちをして前を見ようとするチェルシーに駆け寄る
「なあ、チェルシー」
ハリーは皮肉をたらすような声色で、チェルシーに声をかけた
当のチェルシーは、もちろんそれが聞こえたようで、腰に手を当てながら、こちらを見ずにため息をついた
「このまま無視され続けるのは僕も困る
一度だけでいいさ、ちゃんと話そう」
ハリーは真剣な面持ちになってから、チェルシーにそう声をかけた
ここばかりはヘラヘラするのはやめるつもりだった
チェルシーはというと、聖堂院の正門で見せたような、呆れたような、軽蔑するような顔つきでハリーの方を向く
そんな顔はしてほしくないなと、ハリーはまた思うのだった
「何?アンタと話すことなんか一つもないんだけど」
チェルシーはいきなりキツイ声で、キツイ顔でそう言った
ハリーもそれには慣れたものだったが、やはり少しだけその圧に押された
チェルシーからは、目に見えて嫌な気持ちが滲んでいるのがわかる
「あるさ、君にはなくても僕にはある」
ハリーはチェルシーの目をまっすぐ見た
チェルシーは美しい目で、ハリーを睨み返す
「なんていうか、僕は考えを改めたんだよ
君らのように頑張って、努力して生きるのも悪くはないかなぁって」
「あのままだとみんなの言う通り、いいことなんて一つもないんだろうし…」
ハリーは意味不明なジェスチャーを交えて、必死にチェルシーに説明した
とにかく、言葉は少なくてもいいから、以前の自分とは違うと言うことを伝えたかった
喋るたびに馬鹿らしいだとか、サムいだとか、卑屈な感情が頭をよぎったものの、今回は喋るのをやめなかった
今のナシという言葉も、なんでもないという言葉も使わなかったのは、実に久しぶりな気がした
「とにかく、前とは違う…違うんだよ
僕は変わったはずなんだ…まだ表面の気持ちだけかもしれないだけど…」
「わかってくれとは言わないよ…
君の前ではあれだけ怠惰だったんだ
いきなりこんなこと言うのもおかしいかもしれないけど、それだけ僕も本気なんだ」
「言いたいことは…それだけさ…
…聞いてくれて、ありがとう」
ハリーは横に手を投げ出して、チェルシーの顔から目線をそらした
これでよかった
チェルシーに言葉を伝えられた分だけ、きっと前に進めているはずなのだから
なんとも言えない顔のまま、ハリーは鼻をマフラーに埋めてチェルシーの反応を待った
チェルシーは相変わらず、鋭い目でこちらを睨むだけ
ハリーの言葉は聞こえていたのだろうが、それでも彼女は眉ひとつ動かそうとしない
まるで生気のない、冷たい石像のようだった
ハリーは嫌な汗を一握り、拳に感じた
「それで…?だから何よ
アンタは結局何がしたいわけ?」
チェルシーは硬い口を開くと同時に、強い言葉をハリーに返してきた
こんな答えづらい返しも、ハリーは予想していたつもりだった
きっと何を言っても、今の彼女を自分が笑顔にすることなど不可能である
おそらく、一体何が正解なのかということを考えたところで無駄な努力なのだろう
だからといって、昔のように喋ることに逃げてはいけない
せっかくチェルシーが口を開いてくれたのだから
それに、今回はちゃんとした理由があるのだから
「…恥ずかしいよ、正直こんなことを言うのは嫌だ」
「でも、僕はいろんな人と約束した
…自分を変えられるように頑張るって
期待には答えられなくても、できるだけ頑張ってみるって約束したんだよ」
「君には迷惑な話かもしれないけれど…僕だって頑張るつもりなんだ」
「だから君にも、僕の気持ちを分かって欲しくて…なんて言ったらいいかなぁ
とにかく前のようにはいかないように頑張るつもりっていうのを…言いたくて」
ハリーはうまくまとめられない言葉を、片っ端からチェルシーに投げる
しかし、その殆どがチェルシーとハリーの間に空いた微妙な空間に墜落してしまっていた
結局、チェルシーはそんなハリーを見てられなくなったのか、腰に当てていた手を髪に絡ませながらため息をつく
そして、不機嫌な鼻を鳴らしながらハリーに詰め寄る
ハリーはそれに驚いて、何歩か後ずさりをしてしまった
「私が聞いてるのはね…アンタの気持ちとか、そんなどうでもいいことじゃない」
チェルシーは細い指をハリーの顔の前に突き出した
ハリーはその指に目玉を寄せる
「アンタは本当に会話が下手くそね…
さっき私が言ったことが聞こえなかったようだから、もう一度聞くわよ」
「アンタこんなとこまで来て何がしたいの?」
ハリーの背筋は一直線に固まった
チェルシーをさらに怒らせてしまったこと
自分の言っていることが随分とずれしまっていること
本当に会話が下手くそだと言われたこと
その全てが、体中の水分を汗に変えて吹き出ていく
「い…いやその、僕はただ」
ハリーの目は縦横無尽に、狭い海を踊り狂った
心と体は汗をかき、チェルシーの顔を満足に見つめることすらできない
大事な言葉が何一つまとまらず、言いたかったことが何一つ決まらない
大したことを聞かれているわけでもないのに、ハリーはなんだか重要な決断を迫られているような気がしてしまうのだ
「僕はただ…君の役に立ちたくて…」
オロオロしながらも、ハリーはチェルシーに自分の感情を正直に伝えた
彼女の役に立ちたいというのは本当だった
心の底からそう思っているつもりだった
「はッ、そんな都合のいい言葉並べたところで私が納得するでも思った?」
「はっきり!ちゃんと言いなさいよ!」
チェルシーは投げ出した手を胸の下で組みながら、視線を斜めに放った
2人の間には嫌な空気が流れていく
ハリーは焦りながらも、どうにかしてチェルシーをの機嫌をとろうとした
「わかった…ごめん…御託はやめるよ」
ハリーはボサボサの頭をかきながら、チェルシーの放った目線を追いかける
焦る心も少しだけ冷静を取り戻した
チェルシーは相変わらず鼻を鳴らしている
そんなに簡単に機嫌が直ることはなさそうだった
「僕がしたいことっていうのは…
一緒に行きたいってことだ」
ハリーは上目でチェルシーを見ながら口を動かす
喉が渇いて仕方がない
恥ずかしさと気まずさが肺いっぱいにひろがっていく
「何処に?誰と?」
チェルシーは鋭気のある声でハリーに問いかける
ハリーはまた焦りながらも、足りない言葉を付け足した
「大迷宮に…君とさ…」
チェルシーはハリーのか細い声を耳にすると、そう…と一言つぶやいて、腕を組んでから目をつぶった
周りは攻略者たちの音でうるさいはずだったが、チェルシーのため息はなぜかとてもよく聞こえた
チェルシーはしばらく目をつぶったまま、何も喋らない
ハリーはそんな彼女を眺めながら、どうしようもない気持ちを持て余した
だんだんとハリーはこの微妙な空気が耐えられなくなってきた
「図々しいかもしれないけど、僕は君のためを思っても言っているんだ
1人ぼっちっていうのは、君が今思っているよりもずっと恐ろしいもののはずだよ…」
「僕のことは気に入らないかもしれないけれど、それでも1人なんかよりはずっとマシさ…
チェルシー…なぁ、わかるだろう」
ハリーは余計な言葉を投げながら、チェルシーの肩に手を伸ばす
だがチェルシーはそれを手で軽くあしらった
「やめてよ」
ハリーは、再び焦り始めた
もう少ししたら、目の前の扉が開いて
間に合わなくなるかもしれない
そうしたら、絶対に後悔することだろう
こんなままでは、直ぐに死ぬのも納得だ
そのせいか、だんだんとハリーの言葉は、苛立ちの混じる強いものになっていった
「チェルシー、どうしてそんなに塞ぎ込んじゃうんだよ…
ちょっとくらい心を開いたらどうさ
僕だって協力するから…」
今度は逆に、ハリーがチェルシーに詰め寄る
その度にチェルシーは横に少しずつずれて行く
どれだけハリーがチェルシーのことを説得しようとしても、彼女はハリーを突っぱねるだけだった
「…いい加減にしろって、僕が嫌いなのはわかるけど…そうやって強情を張ってちゃ何も進まない!頼むよ!」
ハリーは、今度は少しだけ強い力でチェルシーの腕を掴んで、自分の方に引き寄せた
チェルシーはそれに少し驚いた顔をしながらもすぐに睨み返す
「ちょっと!気持ち悪い!触んないで!」
パシッと軽い音が響き、チェルシーはハリーの手を払う
「それだよ…!君の悪い癖だ!そうやっていつも突き放そうとする…!そんなんじゃ誰も君に味方してくれないぞ!」
ハリーは苛立ちの勢いのせいで、そんなことを彼女に向けて大きな声で言ってしまった
直ぐに、チェルシーは瞳孔を絞らせ眉間にしわを寄せる
ハリーはしまったと思ったが、そのことを考えた時にはもう遅かった
「はぁ?なんですって!?
アンタ何様のつもり!?
アンタが私のことを語らないでよ…!」
「ムカつく!これから夢に見た大迷宮だっていうのにアンタのせいで気分まで台無しよ!」
チェルシーは額に血管を浮き上がらせながら、ハリーに罵声を浴びせる
ハリーの胸を手で押し返しながら、チェルシーも再びハリーに詰め寄って行く
「チェルシー、落ち着けって…言いすぎたよ
僕が悪かった…すまない」
ハリーは眉をハの字に曲げながら、肩の高さまで手を挙げた
だが、怒れる少女は止まらない
「だいたい何!?私のためですって!?
そんなに私のことを思ってるなら…!」
チェルシーはハリーの後ろの左手を指差した
そこには壁内労働契約のテーブル灯りが、淡く光っている
ハリーはそっちに首を向けながら唾を飲み込んだ
「あそこで一年待ちなさい!」
「私のことを思ってるなら、聖堂院のみんなに申し訳ないと思ってるなら、当然のことでしょ!」
「アンタなんかに、大迷宮に挑戦する資格なんてない!」
チェルシーは歯ぎしりしながら、ワナワナと肩を震わせていた
今まで、ハリーにためていた怒りを吹き出したかのような声で叫ぶ
こうなるともう止まらない
ハリーはどうにか彼女をなだめようとした
「チェルシー、君の言うことはごもっともだ
確かに僕に大迷宮に挑戦する資格なんてない…」
「でも君を1人で行かせるわけには行かない!わかってくれよ!」
2人の声はトンネルをこだましていく
いつのまにか、何人もの攻略者たちの目がハリーたちの事を見つめていた
「あんたも院長も余計なお世話なのよ…!
私は1人で行けるって言ってるのに!」
全く進展しない2人の会話は、徐々に温度を増していった
落ち着かせようとしたハリーの声も、度重なる罵声で自然に強くなっていく
「だからぁ!無理だって言ってるんだ!
スタンリーさんに1人じゃ死ぬって言われたのを忘れたのか!?」
チェルシーはスタンリーの話題を出されると、苦い顔をした
だが、口の達者な彼女は直ぐに立て直して
「あんなボケたババアの話なんて信じない!
歳だけ重ねた死に損ないの老害よ!
死ぬ場所を見つけられなかったただの腰抜けにすぎないわ!」
ハリーもチェルシーのその一言のせいで、何かの血管が切れた
先ほどよりも顔を歪ませながら、チェルシーに言い返す
「やめろ!あの人のことは馬鹿にするな!」
ハリーは首元のボロボロのマフラーを握り締める
チェルシーはそれに気づいたのか、何かを察したように鼻で笑いながら
「なによ…!やっぱりボケババアじゃない!
アンタなんかに"証"を託すなんて、馬鹿でもやらないことだわ!」
チェルシーは軽蔑と怒りの混じった笑いでハリーとスタンリーを馬鹿にした
ハリーはそれに我慢できなかった
ハリーだけじゃないがだろうが、人が何より嫌な事とは、自分のことよりも友や大切な人のことを馬鹿にされることだ
ハリーはチェルシーが女の子であることにもかかわらず、襟元を掴んで彼女を攻略者たちの背中に押し付けた
「やめろ!」
ハリーは人に向けるような、ましては女性に向けるようなものではないくらいの力で、チェルシーを押し付けた
チェルシーは襟元を掴まれたせいか、苦しそうな顔でハリーを睨む
「痛い…!なにすんのよ!馬鹿ッ!」
チェルシーはハリーの腕を掴みながら、ひねり出したような声を上げる
だが、ハリーはやめない
ハリーは今まで感じたことのないような怒りをチェルシーにぶつけていた
顔は真っ赤になり、自分の言葉だけが自分にこだまする
怒りのせいで我を忘れていた
直ぐに周りの攻略者たちが2人を間を裂くように止めに入る
ハリーは背の高い攻略者に引き剥がされ、勢いをつけたまま後ろに大きく転んだ
チェルシーは女性の攻略者に背中をさすられながらも、咳き込んでいる
ハリーはそれが目に入ると、一気に体の熱が冷めていった
それと同時に、自分のした事が体に染み込んでくる
「…チェルシー、すまない…こんな…」
ハリーは攻略者達に肩を抑えられながらも、暗くなった顔でチェルシーに近寄ろうとした
しかし、チェルシーは先ほどよりも強く咳き込みながら、ハリーの方をもっときつい目で睨み返す
その目には涙が浮かんでいた
ハリーはそれ以上前に進めなかった
「…最っ低!ほんっっとに!アンタ最低よ!」
チェルシーはハリーに向けて掠れた声でそう叫ぶと、攻略者たちを押しのけて狂気の漏れる扉の方へと消えていった
ハリーは彼女を追いかけられなかった
不本意とはいえ、彼女に手を上げてしまった以上、もう彼女を説得する資格すら持てなかった
悲しみと罪の意識が体を蝕んでいくのは、そこまで時間はかからない
もはや、ハリーは立ち上がることすらできなかった
数秒前にふるった暴力の温もりが、まだその手に残っていたからだった
まさか自分があんなことをするなんて
女性に、それも幼馴染に手をあげるなんて
なにが、一緒に大迷宮に行こうだ
自分にはそんなことを言う資格すら無かったというのに
「おい!そんなところに座ってんじゃねえぞ!邪魔だ!どけ!」
冷たい床を眺めるしかなかったハリーに、そんな言葉が浴びせられた
ハリーはそれに答える間も無く、髭の生えた攻略者に背負ったバッグを押しのけられる
魂の抜けたような体は人波に流され、ついには左手の壁にまで追いやられた
生気のない目は無意識にチェルシーを探したが、彼女の手がかりになるものさえ見つけられない
見つけたところで、結局ハリーにできることなどなにひとつない
もはやハリーがここにいる意味など、無いに等しかった
(まただ…大迷宮だろうが外だろうがなにも変わらない…僕はどこにいったってこうなんだ
救いようの無いバカのままなんだ…)
ハリーは再び、手ですくえない悲しみの渦に包まれかけていた
なにも生まない、なにも進まない負の感情のベールが、いつものようにハリーの視界を遮っていた
自負の暗闇から抜け出せなくなるのはいつもと同じような流れだった
そのうちに自業自得の不幸が重なり、暗い感情の沼に体を取り込まれてしまうように、ハリーは動けなくなる
過ぎたことを永遠にかきつづけ、直ぐに抜け出せるはずの沼から這い上がれない
冷たい沼の温度が体に染み込んでくる頃には、その沼が気持ちよくなってくる
前と変わらない、5年も前から変わらない心の沼がハリーを蝕み続けていた
「開門するぞー!」
不意に、また別の何かが音を立てた
今度は狂気の扉が開く鐘が鳴り始めたのだ
ハリーは壁に張り付いたまま、扉の方を見つめた
扉は徐々にその口を開け始める
嫌な空気と重い匂いが、ハリーの鼻と肺を通り抜けていった
攻略者たちは雄叫びをあげ、自分を鼓舞するように扉に体を押し付けている
今か今かと体を扉の隙間にねじりこませ、大迷宮の狂気を体全体で一番に感じようとしていた
今まさに、少し前に見たものとは比べものにもならないような命の力を吹き込んだ波が、始まろうとしていたのだった
ハリーの心は、負のベールを纏うどころではなかった
後悔をする時間も、覚悟を決める時間もとっくに終わっていたのだ
本能を押し出さなければ、命の濁流に押し潰されてしまう場所に足を踏み入れていたのだ
ハリーは自分で思うよりもずっと先の、戻れない場所まで来ていた
「いけぇぇぇええ!!!」
誰かが始めた一つの言葉が、人でできた大砲の神経をなびかせた
それと同時にハリーの耳がちぎれるほどの声達が、一斉に扉を通り抜けて走っていった
ハリーは爆発しそうな心を手で押さえながらも、その巨大な命の群れを眺めつづけた
苦虫を噛みつぶしながらと、リタイア契約の扉の方も見返した
自分に大迷宮に挑戦する資格なんてない
その言葉が頭の中を響き続ける
逆に、光に向けて走ることを肯定する言葉は一つも響かなかった
約束という借金を抱えた体はまたしても、ハリーの大きな枷となっていた
チェルシーの言葉と、そんな約束と自分の意思達が囲むその中心にハリーはいた
その全てがハリーに決断を迫るのだ
頭を抱えるハリーをよそ目に、時間はどんどん過ぎていく
最大にまで開かれた扉が徐々に閉まり始める
命の波もあと数秒で終わってしまう
光は少しずつ細くなっていく
悩んでる時間などない
ハリーは頭の中にあるもの全て捨てた
そして、自分に問う
(僕はどうすればいい…!?)
答えはすぐに帰ってきた
それはやっぱり簡単で単純なものだった
光はなくなる
トンネルは暗闇に閉ざされていった
…
……
狂気の扉の向こう側
まずハリーに届いた違和感は匂いだった
匂いなのに、嗅いだだけでこの匂いの色がわかるのだ
まず間違いなく、"赤"
そして"黒"だった
そしてハリーはすぐにこの匂いの正体を理解した
血だ
おぞましいほどの血がこの先に流れた
この腕ではとても抱えきれない
この胃袋には入りきらない
それほどの血が
ハリーは目を疑った
光の外、狂気の扉の外側は、美しいくらいに真っ赤な世界だった
巨大な城郭に囲まれ、その中心にそびえる大迷宮の根元から、ハリーの足元までは約1000メートル
その全てに赤黒い色をした血がたまっている
その血を割いて5000あまりの命たちの砲弾はどんどん大迷宮に近づいていく
ハリーもそれに遅れないように血だまりを蹴った
顔にもバッグにも血が飛び散ったが、そんなことを気にしている暇はない
この先は自分の知らないことばかりの世界
全てのことを全力をかけてやらなければ、すぐにでもこの命が消えてしまうのではないかとハリーは思った
この先何が起こるのか
何をしなければならないのか
ただ大迷宮に向かって走っているだけだというのに、この足元の赤い血だまりがハリーを不安にさせる
チェルシーと離れてしまったから、誰かを頼ることもできない
色のない、漠然とした不安がどっしりと、ハリーのお腹の下の方に居座った
ハリーがその不安の重さに息が切れてきた頃、命たちの走る大迷宮への石畳の一本道の横の血だまりから、何かが動き始めた
体からどす黒い血を垂らしながらも、変な方向に曲がった腕を掲げて、何人もの人間らしき影が立ち上がる
列の後ろをの方を走るハリーはその様子を細くした目で捉えた
(何だあれ…人か?)
彼らは"亡者"
迷宮が生んだ悲しき魔物
すでにこの世から魂が消え失せた肉体が、精気を求めて生者におそいかかる
人は死ぬと動かなくなるのが普通だが、大迷宮の中やその近くで死んでしまった場合、このような亡者になることがある
個体差はあれど、亡者になった場合は肉体と脳を完全に破壊しなければ、永遠に精を求める魔物として動き続ける
言葉はおろか、意思の疎通も不可能なほどに自我は崩れており、もはや人間としての機能を失った肉塊でしかない
そんな厄介な亡者達が、大迷宮へ向かう一筋の人波目掛けて、千切れかけの手足をふり回して歩き出した
そのほとんどは攻略具を身につけた攻略者達
かつて同じように夢を持った同士が、壁となって立ちはだかる
不意にハリーは、先頭の攻略者が叫び声をあげながらツルハシを高く掲げたのに気づいた
息を切らしながらも、ハリーはそのさらに前方を見るために首を伸ばした
だが、周りの人々の背が高すぎてうまく見えない
ハリーは後列の真ん中に近いところを走っていたが、合間と機を縫って外側に出た
体制を崩しながらもどうにか前を向くと、ハリーは嫌な汗が身体を伝ったのを感じた
なぜなら、人波の砲弾が向かう迷宮の一本道の上にまで、亡者達が血を滴らせながらもその鬱蒼とした顔を上げ始めていたからだった
(ウソだろ…あんなにたくさん)
ハリーは辺りを見まわした
轟音を鳴らす人波は、いつのまにか亡者達の壁に囲まれていた
それも、その厚さというのは1人なんてものではなく、少なくとも10人分の厚さがあるのが分かる
先ほどの先頭の声とは、肉壁にぶつかることの合図のようだった
ハリーが考える間も無く、前方の亡者達もこちらに向かって歩き始めた
どんどんと、先頭と亡者の間の空間が縮まっていく
ハリーはもう一度攻略者達の懐へ潜り込んだ
外側にいると真っ先に亡者の襲撃を受ける
逆に攻略者達の中に紛れれば、周りの攻略者達が戦ってくれるかもしれない
他力な方法かもしれなかったが、何も知らないハリーにとっては、それが1番の策だった
再び人波の中に紛れると、またハリーは人の壁に包まれた
たった何人かがハリーの近くにいるだけで、外の様子は全然わからなくなった
亡者がどのくらいの距離にいるのか、あとどのくらいで迷宮につくのか
何もわからない時間が少しだけ続いた
だが、呼吸を整えた後に、すぐに前方からバキバキッという音が雄叫びとともに聞こえはじめた
それはつるはしの刃が人間の体を割く音
ついに先頭の攻略者たちが亡者とぶつかったのだ
血の滴る亡者の体の一部が空高く舞い、先頭のつるはしから飛んでくる返り血が、まるで雨のようにハリーたち後方の攻略者に浴びせられた
ハリーはそんなおぞましい状況で、血を拭うことも許されなかった
走ることに集中しなければ、不器用な自分は何かにつまづいて転んでしまう
そうハリーは感じた
だが、そんな集中を切るように、何やら細い筒状の物に火をつける攻略者が目に入った
その攻略者はハリーのちょうど右斜め前におり、血を顔いっぱいに被りながらも、器用にも走りながら懐でマッチを擦っている
おそらく筒状のものは爆薬であった
それで亡者の肉壁を一気に蹴散らして進むつもりなのだろうか
ハリーがそんな攻略者に気を取られた次の瞬間、ハリーはとっさに何かを飛び越えた
その何かを確認するために振り返ることはできなかったが、そんなことをしなくてもそれはわかった
ハリーが飛び越えたのは人だった
攻略者と亡者の斃れた体が、ハリーのすぐ足元に転がっているのだ
鋭いツルハシの傷の跡がついた亡者の顔が、一瞬足元を眺めたハリーに語りかける
"痛い"
ハリーの頭にそんな言葉が響く
この間わずか5秒もたたない間、今度はハリーの前を走る攻略者が大きく前に倒れこんだ
それに反応できなかったハリーは、その上に折り重なるようにして倒れる
ハリーは倒れこむこの一瞬で、後ろからくる命の波の音を聞いた
その音を合図にざわりと頭の奥から冷たい水が湧き出る
とっさの判断で、ハリーは右に寝返りを打つように仰向けになり転がった
そのハリーの顔の上を、血をなびかせながらブーツが飛び越していく
そのままなんとか人波の外側に出ると、人息つく間もなくすぐに顔を上げる
休んでる暇はない
外側に出たのなら…
ハリーはすぐに判断したはずだった
そのまますぐに立って走り出す
そのつもりだった
だが、ハリーは血の池に手をつけながらも右足を引くと、何か突っかかったかのようにして動かなかった
その勢いのままハリーは前に倒れ、顎を血で濡らした
靴紐を誰かにふまれたのか?
いやそんなことじゃない
足首に冷ややかな触感がよぎる
肘で地面を押しながら自らの足を見た
にちゃ…
そんな音が似合う、冷たい肉の感触が右足に触れていた
下半身をツルハシで吹き飛ばされたであろう亡者が、ハリーの足を握っていた
腰からは臓物のようなものが伸び、腐食した顔は鼻と右目が腐り落ちている
ハリーの足を握る手の指は人差し指と小指がちぎれていたが、それでも、ハリーが自力で解けないほどしっかりと掴んだまま離さなかった
ハリーの心に冷たい氷が触れた気がした
命を失った光なき亡者の目がハリーの目の奥を捉えた時、ハリーは恐怖と嫌悪が喉から溢れた
「は…!離せ!クソッ!」
ハリーは左足でその亡者の顔を2、3度蹴った
蹴りが顔に決まるたびに、亡者の顔のパーツが血とともにどこかへ飛んでいく
それにハリーはひどい罪悪感を覚えた
同じ人間
ただ心があるかないかの違いなだけで、自分は人の顔も蹴飛ばしてしまうなんて
あの目玉はもう戻らない
この亡者にも家族や友人がいただろうに
亡者に5回ほど蹴りを入れた後、亡者は頭が砕けたからか、力なくハリーの足を解いた
その姿はハリーの心に大きな鼓動を伝えた
呼吸は深くなり、目は動かない亡者から離せない
"殺した…"
周りでは攻略者たちがツルハシで亡者を叩き割り、すぐ近くでは人が大迷宮に向かって走っている
それにもかかわらずハリーはしばらく動けなかった
一刻も早くこの場を離れなければ危険だということはわかっている
すぐに立って走らなければならないことも知っている
だが、ハリーの足をつかんだ亡者は、ハリーの心を離さなかった
激しい鼓動が止まらない
"亡者は人ではない、もう死んでいる
体は命を預かる器でしかない"
それはウィンストンの言葉だったろうか
そんな言葉がハリーを惑わせた
(それは本当に…本当か…?)
大きな鼓動は周りの音を消してしまった
鼓動と呼吸の音と心の言葉、それだけの世界だった
静かだが煩い、ハリーだけの世界
だが、それもまた一瞬だった
混乱の渦中のハリーの視界に、何人もの亡者が纏わりつかせながらも歩く攻略者が目に入った
首元や腕、はたまた太ももや胸に噛み付かれ、口からは血を吹き出している
その攻略者は数歩だけ歩くと、ハリーの目の前で力なく倒れ込んだ
その体を亡者たちは容赦なく貪る
頭にかぶりつき、指を引きちぎる
"食事"を始めるのだ
ハリーはそれを、生気のない目で眺めた
いつ目の前の亡者がこちらに飛びかかってくるかもしれない
後ろから亡者に首を食いちぎられるかもしれない
それでも結局体は動かない
なぜかもわからない
そんなグロテスクな"食事"を、理由もわからないままハリーは口を開けたまま眺め続けた
すると、目の前の亡者の一人が引きちぎった中指をくわえながらハリーの方を向いた
その亡者も同じく顔が腐り、耳と頬の肉がない
ハリーの背筋に、その顔が目に入った途端雷のような悪寒がよぎった
ハリーはこちらにゆっくりと手を伸ばす亡者から、肘で後ずさりを始めた
吐きそうなほどに喉の奥を突く狂気と腐乱の匂いが、再び閉ざしていたハリーの心に漂ってくる
(嫌だ…来るな…!)
腐りかけの手を足で蹴り飛ばす
だが、亡者の手はゆっくりだが確実にハリーへと伸びる
ハリーは抵抗できなかった
それもこれも、割り切れない心に刻まれたヒビが邪魔をした
「く…来るな!」
その言葉はもちろん届かない
なんてったって、既に人ではないのだから
そんな中、その亡者の後ろで何かがたくさん転がった
それは細長く、筒のような物
パチパチと音を立てながら、焦げるような匂いを纏っている
ハリーはそれが何なのかすぐにわかった
体を傾け、目の前で倒れた亡者が群がる攻略者の体に目をやる
その体にはたくさんの筒が巻き付けられている
10本、いいやおそらく20本ほど
自らが爆弾となり、亡者の壁を突破する
そのつもりだったのだろうか
今となってはもうそれはわからない
ハリーはその瞬間に正気を取り戻した
とっさに血で滑る地面に手をついて立ち上がり、走り去る攻略者達の後を追った
ハリーにすり寄ってきた亡者は、背後で手をからぶらせながらもうめき声をあげる
その時は、最後にそれだけが聞こえた
それからはもうめちゃくちゃだった
耳をつんざく轟音がした瞬間、ハリーは後ろから前に大きく吹き飛ばされた
浮遊感のないフライトのなかで、ハリーは恐怖を肺全体で感じた
顔から思いきり血の池に叩きつけられ、顔だけではなく体全体が血で赤く染まる
体はその衝撃と痛みに悲鳴をあげた
耳は先ほどの轟音のせいで何も聞こえない
世界がどんどん狭くなっていく気がした
ハリーはあまりの痛みとショックにより、体のすべてがうまく動かせなかった
口を開いても声が出ない、目はどこを見てもぼんやりと歪んだまま
頭には棒のようなもので殴られたかのように、激しい痛みが走る
とにかく、早くこの場を離れなければ
しかし、体が言うことを聞かない
ハリーはこの強烈な衝撃の勢いに任せ、そのまま気を失いかけた
だが、気力と精神でなんとか、頭を抑えながらもヨロヨロと立ち上がる
痛む体のせいか真っ直ぐに立ってられない
爆発の音が耳鳴りを生み、鼓動の音も分からなくなるくらいに体を包む
それでも、なんとかハリーは一歩足を前に踏み出した
しかし、その一歩を踏み出しただけで、ハリーの軟弱な右足はアコーディオンのように折りたたまれてしまった
そして、そのまま崩れ落ちるように再び手のひらを血の海に浸した
(無理だ…体が言うことを聞かない…!)
さらに、頭を抑える手の隙間から見える世界が突然赤く濁り始めた
すぐにハリーは抑えていた左手を離して顔の前に持ってくる
それを見てハリーはゾッとした
左手にべっとりと赤い血が塗りたくられていたのだ
バケツいっぱいの、赤いペンキを被ったかのように、頭からは赤い鮮血が吹き出していた
(そんな…ウソだろ)
ハリーはそのせいで、半分パニックのような状態に陥った
様々な考えが頭をめぐる中、最善の選択がどれかを選べない
早く治療しないと…いや、そんなことよりも血を止めることが先か…いいや、それよりも早くここから移動しなければ…
荒い息が今にもハリーを暗闇の世界へと連れて行ってしまいそうだった
このままではマズい
頭ではわかっているが、体が動かせない
いろんな要素が混ざり込むせいで、ハリーは膝をついてから全く動けなかった
しかし、そんなハリーの二の腕を後ろから誰かが掴んだ
ハリーの体はその勢いで前に飛び出し、半分引きずられるようにして進み出す
急な事にハリーの頭はさらに乱れていった
「馬鹿!止まるな!走れ!」
お人好しな大人の攻略者が、へたり込んでいたハリーをの腕を連れて走った
ハリーは何が何だかわからないまま、攻略者に連れられながらも軋む足を動かした
2人は体を前に大きく崩しながらも、亡者と亡者の間をすり抜けていく
「もうすぐだ!頑張れ!」
ハリーの腕を掴んで走る攻略者はもう片方の手で前方を指差して叫ぶ
ハリーはというと、この攻略者についていくのが精一杯で、前に顔を向けるのも辛かった
だが数秒もすると空に伸びる巨大な大迷宮の入り口である、石段の踊り場が目の端に入ってくる
ハリーは石段で何度もこけながら、攻略者に引っ張られて、やっと踊り場にたどり着いた
空に高く伸びる大迷宮は、赤い血の池のちょうど真ん中にそびえ立っていた
だがその根元の踊り場は、血の池がある地面よりも10mは高く、そこまでくれば血の池に潜む亡者は追ってこなかった
踊り場も迷宮の平面と同じく円形になっており、直径500mほどの迷宮から外側にさらに100mほどの広さがあった
その広い空間の端でハリーは息を切らしながら倒れ込む
ハリーの他にも、何人もの攻略者が踊り場までたどり着いていた
中には、怪我をした者や、倒れた攻略者に覆いかぶさって声を上げて泣く者もいる
「おい、深呼吸しろ…大丈夫か」
ハリーの腕をとった攻略者が胸を膨らませたまま、へたり込んだハリーに声をかける
中年とはいかないものの、無精髭を生やし、濃い顔をした背の高い攻略者だった
ハリーは終始頭が真っ白なまま、無精髭の攻略者に言われるままに深い呼吸をはじめる
何が起こったのかを整理するのにはまだ体が追いついていなかった
「首から上が血だらけだ…拭いとけよ」
その攻略者は血の付いてない自身の攻略コートでハリーの顔を拭くと、ハリーの肩を軽く手で叩いた
「あ…あの…」
ハリーがパニックで口ごもってしまったのを見て、お人好しの攻略者はフンと鼻で笑う
ハリーの顔を拭き終えると立ち上がり
「ガキを助けるのは大人の使命ってもんだ
礼はいらねえ…頑張れよ」
それだけ残して、ハリーのピンチを救った攻略者は、まるで亡霊のように静かに大迷宮の方へと消えていった
ハリーはといえば、この一瞬で何が起こったのかわからないまま、しばらく一点をボーっと見つめていた
5分ほど同じ体勢のまま硬直していたハリーだが、ある時ハッといろいろなことを思い出す
(そうだ頭…怪我してるんだ…!止血しなきゃ…)
すぐに頭を左手で抑えながら、背負っていた攻略バッグを漁りはじめる
だが、左手に移る頭の痛みはすでに無くなっていた
(あれ…?痛くない…なんでだ?)
ハリーは自分の頭の端から端まで、舐めるように触ったが、痛みは見つからない
(まさかどこも切れてない…??)
それから何度も頭の傷を確認したが、それらしいものはどこにもなかった
結局、首から上にかかっていた血の全てが自分のものではなく、血の池で被ったものに過ぎなかった
それをハリーは頭に怪我をしたと勘違いしただけだったのだ
だが、その事実にホッと心を撫で下ろした
爆発のショックや新鮮な情報ばかりが入ってきて混乱してしまった頭が、過剰に反応してしまっただけ
実際は身体も動くし意識もはっきりしている
自分の勘違いが自分を騙してしまったに過ぎない
しかし、それでも指の先や腕がカタカタと震えた
判断を間違えていたらたら死んでいたかもしれない
いいや、自分1人では確実に死んでいた
今生きているのはあの優しい攻略者のおかげだった
(くそう…なんでこんなに恐れているんだ…)
ハリーは震える右手を抱えた
安堵を感じながらも、同時に寒気も感じた
あのまま、あの攻略者が助けてくれなかったら…自分は一体どうなっていたのか
爆薬を持っていた攻略者と同じようにバラバラにされていたのか
そう考えるとハリーの震えは肩まで上がってきた
あの程度の恐怖やショックで足がすくんでいるようでは、おそらくこの先の恐ろしさに耐えられはしない
そんな漠然とした不安が、ハリーの体に生まれ始める
やはり1人では何もできない
大迷宮の学も、精神的な覚悟も持ち合わせていない自分が死にゆく姿を、ハリーは容易に想像できた
きっとこんなままでは、チェルシーについていっても、本当に足手まといにしかならない
そう思うと、いつものようにやるせない悲しみがこみ上げてくる
やはり、自分が大迷宮に来たのは神さまの気まぐれに過ぎない
才能も実力もないのにチャンスだけ得られるというのはおかしな事だ
自分に与えられたのは、自分を叩き上げて努力してきた人間がもらう切符ではない
ましてや箔のない、誰でももらうチャンスのある切符でしかなかった
一体自分は何を勘違いしていたのか
底抜けのネガティブが再三ハリーを包み込んだ
だが、もう逃げ場などハリーには存在しない
ただ前に向かって走るしかなかった
過去を振り返ることも、後退することもハリーには許されていない
自分を殴りたくなるようなことがあろうが
孤独や恐怖に襲われようが
歯を食いしばって、泣きながら歩くしかないのだ
引きつった顔になりながらも、ハリーはその足の裏を再び地につけた
そして震える右腕を左腕で叩きながら、自分を鼓舞した
(頑張るんだろ!僕!頑張れよ!)
負のベールをシャツとともにしまい込み、涙のしみる目でハリーは再び大迷宮を見上げた
チェルシーに遅れを取るわけにはいかない
ハリーは脇目も振らずに、すぐに大迷宮の入り口へとつながる石段へ歩き出した
穴だらけの心を、一つずつテープで塞ぎながら




