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ホルムの大迷宮  作者: ふくべおさひら
3/10

落ちこぼれ



院長室に呼ばれた日から数日が経ち、大迷宮への日数がゼロに近くなった夜


チェルシーは眠れないでいた



夫人や院長とともに何度も確認を行い、入念な準備をもう3回以上繰り返した


夜遅くまで思いを馳せ、気持ちの昂りを紙に書いたりした


それなのに、なぜか眠くならない



その理由は明確だった





"君がどうしても1人で行くというなら、今回はそれを許す

確かにこんな時期にあんなことを言ったのは間違いだった

あの時は焦っていたんだ、すまない"



"でも、これだけは言っておく

ハリーを連れて行って後悔はしないよ

約束する、絶対だ"






チェルシーは最後の日記を書きながら、ウィンストンの言っていたことを思い出す


この2日の間にウィンストンとチェルシーはもう一度話をした


その時のウィンストンは申し訳なさそうな顔でそんなことを言った






やはり、あの時の院長は少し焦っていたのだろう


無理もない

よく考えれば、自分も無茶苦茶なことを要求していた






何十年も前から形式自体はあったものの、"バディ"が一般的になったのは今から20数年前のこと


両親が死んだ頃なんかは、まさにバディのブームだった


事実、そのころから今までは、バディで挑戦するのが攻略者の間では当たり前だった



なぜなら死亡率の低下も、人類の観測階層が大幅に伸びたのも、どれもこれもバディという形式が広まってからである


かつてはエリー・オストラヴァのような、1人で上層まで駆け上がるような化け物もいた


しかし、ワイゼル&ティンプトン、アリア&タイラー・ポール、バディが広まってからのほうが英雄は沢山いる


いずれにせよバディがもたらす利益というものは、ソロの時代よりも大きかった



当然、バディを組むつもりがないなどというのは、とても愚かな発言だったのだ



なぜなら、自分は英雄達とは違うからだ


エリーのように巨大な斧つるはしを振り回すパワーはない


デニス卿のような、普通では手に入れることのできない膨大な知識を持っているわけじゃない


ワイゼルのような根性やカリスマを持っているわけではない




自分にあるのは、ここ数十年の努力と固い意志だけ



ウィンストン達がああいうのは、何も間違ってはいない


チェルシーは、バディを組まなくてはいけない側の人間なのである








だがそれでも、チェルシーは譲れなかった



ウィンストンが言っていたことを思い出す




"君とバディは組めない"



それは成績が発表される前から、本当は気づいていたことだった


努力することが自分の全てだった当時のチェルシーは、無意識に壁を作っていたのだ



それも、誰にでもだ


それこそ信頼できる夫人やベンにだって作っていた


口では誰もあんなことは言わないかもしれないが、チェルシーは怖かった


きっと誰かとバディを組むことになっても、自分という存在がパートナーを困らせてしまうのだろう


不満を抱えたまま、命を預け合うような関係にならなくてはならないのだろう


パートナーに迷惑がかかるのは、自分でもなんとなくわかることだった






チェルシーは逃げたのだ



人とのつながりを自分からシャットアウトするために、ソロで挑むことにした


姉もそうだったから、かつてのエリーもそうだったからではなく、何より自分が逃げるためだった


本当は自分が楽になりたいだけだったのだ







チェルシーは日記を書く手を止める



これ以上思いを綴ろうが、きっとこの気持ちは誰にも伝わらない


誰かにわかってもらうために日記を書いていたわけではないけれど、どうせこの日記を目にするのはスミス夫妻くらいだ


これから自分で見ることも、多分ない



日記と羽ペンを放り出し、チェルシーは賑やかな自室を見渡す


放り出した服や小物、攻略用の道具や書類


かつての家族との写真、子供の頃にもらったお守り


付箋が山ほどついた、ボロボロの教科書





そのどれもに、全てに思い出があった




誕生日にスミス夫人からもらった服


あの時は少し子供っぽいと思っていたけれど、今見たらそんなに悪くない



傷だらけのつるはしと、自分で織り込んだロープは、数々の簡易迷宮を共にした愛器だ


汗と血が染み込んだ取っ手が、歴史を物語っている



クシャクシャの教科書は、もう何回読み込んだかわからない


雨の日も風の日も、いつも目を輝かせながら読んでいた


他の見習いが、小説などを愛読書としている中で、自分の愛読書はこれだった



人生で最初の攻略の日、スミス夫人からもらったお守りはまだ温もりがある


思いと魂が宿っているのか、お守りを握ると心が温まる気がする







そんな中、10年以上前に撮った家族との写真を手に取った




色あせ、変色した写真だが、それでもチェルシーにとっては一生の宝物だった


両親はもうこの世にはいないが、この写真の中と心で生きている



姉もそうだ


もし既に死んでしまったとしても、この写真の中では生きている


それだけで、チェルシーは苦しい毎日をを乗り切ることができた


努力を続けることができた



今まで頑張ることができたのだ







写真を攻略バッグのポケットに入れると、最後の準備を始める


教科書もお守りもつるはしも、全て鞄に詰め込んだ



それ以外は全て置いていく


安い思い出も弱さも、後悔も


持っていくものは体と必要なものだけ



それ以外は邪魔にしかならない




そう、思い込んでいた




……












寮の差し押さえが間近に迫る日の夕方




それでもなお、ハリーはまたいつものベンチで空を見上げていた






あれから何時間が経っただろうか



院長室に呼び出された日から、ハリーの心は宙に浮いていた


どこにも行けず、どこにも戻れない心は、自分の手の中で持て余すしかなかった


今も、この目線の先の空の上で、グズグズとうずくまっている


誰かが引き取ってくれるなら、金を払ってでも引き渡しているだろう


このまま置いておくと、きっとそれは毒にしかならないからだ


誰か、押し付けられる人はいないか


そんな価値のないものに誰も手など上げないだろうが








ハリーの見つめる雲は何も言わずに流れていった


風に乗って、受動的に流れていく


そして、雲はあの空高く伸びる大迷宮にぶつかった


途端に枝分かれし、それぞれがそれぞれの方向へと散っていく


バラバラになった雲たちは、もうあの大きな雲に戻ることはないのだろうか


それはちょっと寂しい気がした





あの雲と自分の心は似ている


ハリーはそう思った



小さな風に流され、何かにぶつかるだけで散り散りになる


自分から動くことはできない、風に流される方法でしか進めない


手では掴めないし、何より手の届かない高い場所にある



なんて軽くて脆い存在なのだろうか




そう思うと、急に悲しい気持ちになった


自分の心がそんな雲と同じなら、今見ている通り、こんなにも不安定なものなのだろうか


少しの壁にぶつかっただけで壊れてしまうものなのだろうか




なんだよ、情けない


ほんとダメなやつなんだなぁ自分は



みんなはどうだ?


心が壁にぶつかろうが、すり抜けていくのだろう


簡単に通り過ぎていくのだろう




なんで自分はそんなこともできないんだ





ハリーは雲を見ることも嫌になった


腕で目を塞ぎ、ついには空を眺めることもやめてしまった


何をしてもこんなことになるなら、本当に死んでしまったほうが楽なのだろうか


この高台から飛び降りるだけで、楽になることができるのだろうか



ああ、そうだろう


眼を瞑ることがどれだけ楽か



よく知っている































「…ここにいたのですね」




不意に、高台を流れる風に言葉が流されてきた


それはいつもの金切り声ではなく、随分と優しいもの


しかし、どこか悲しく、痛みを感じとれるような声だった




ハリーは眼を隠す腕を避けながら、声のした方に顔を向ける







「あなたは昔からここが好きでしたね…

私はそれすらも忘れてしまっていました…」





スミス夫人は、いつもよりも老けている気がした


とても寂しい顔をしている


さあ、どうしてだろうか


知ったことではないが





夫人はこちらを真っ直ぐに見つめた


ハリーもいつも通り夫人の目線から目をそらす





「…何ですか…」



ハリーは夫人に向かって不貞腐れた返事を返した


悪いのは自分だが、誰かに当たらないと人というものは生きて行けないのだろう


不思議な感覚だ






「また、説教ですか…?」






なぜ今こんな子供みたいなこと言うのだろうか、それがさっぱりわからない


さんざん他人に迷惑をかけておいて、いざ厳しいことを言われるとすぐ不貞腐れて


どうせ自分なんかと諦めて



情けないなぁ


どうしてこんなことになってしまったんだろうなぁ



やり直したいなぁ





スミス夫人はハリーを責めるようなことは何も言っていない


というか、何も喋っていない


しかし、ハリーは自分の中で悪口を言われていると錯覚してしまう


そうなるとズルズルと闇にひきづられていく



誰に話しかけられたとしても、その誰かにそう思われていると勝手に気にする


誰もハリーのことなど、見てすらいないのに


昔からの悪いところだった









「…ハリー、そんな悲しいことを言わないで」



「…私はあなたを咎めるつもりなんてないわ」








ええそうだろう、その通りだ



夫人が悪意のあることをストレートに言うような人間か?


そんなわけがないだろう




ハリーは知っている


夫人は厳しくも優しい人だということを





知っているはずだった




でも








「…じゃあ、なんですか?

言っておきますが…僕は大迷宮になんて行きませんよ、絶対に

チェルシーみたいなやつと一緒に仲良く攻略だって?冗談じゃない

それに、僕なんかが大迷宮に行く資格は最初から無いんです

チェルシーにも見習いのみんなにも失礼だ」



「…もう疲れる話はたくさん

何も聞きたくないんです…」





ハリーは前かがみになりながら、少しだけ声色を強くした


当然夫人の目も見ずに、真下のレンガでできた模様を眺めながら








子供だった



ただ、自分の悩みや力のなさ、不甲斐なさを他人に言葉で投げつけているだけだ


こういう人間を、ハリーは見たことがある


その度に、こうなったら終わりだなとも思っていた


そんな人間に、今自分がなっている


ああ、なんということだ




悔しいなぁ











「…そうじゃありませんよ、ハリー

私はただ、あなたと話をしにきただけです

ちゃんと話せる時間は、今しかありませんから」







ハリーは俯いたまま、夫人の言葉に返事すらしなかった


それでも、夫人はハリーの近くまで歩み寄ってきた


そして、ベンチの端に座るハリーの反対側に小さく座った





「話なんて、あの院長室で話したことが僕の全てですよ…何もない、何もしたくない

夫人も院長から聞いたでしょう?

僕はただのハリーなんですよ、口だけで何もできないただのガキなんだ」



「…もうこれ以上僕はそんな自分に耐えられない、きっと院長や夫人の言う通りだ

どうせクズのまま死んでいくような、どうしようもないやつなんです…

だから、もう僕に構わないでください

僕ができることなんて何もないんだ」







「もうほっといてください…」






ハリーはより一層深く俯いた



こんなことを言って、心の中では慰めて欲しいだけなのかもしれなかった




ああ、かわいそうなハリー


ハリーは周りのプレッシャーを吸収しすぎてしまうんだね、かわいそうに



ハリーは昔から厳しい環境にいたから努力も続かないんだね、かわいそうに



ハリーは他人より自慢できることがないから、胸を張って生きることができないんだね、ああかわいそうに…



本当はそんなことを言われたいだけなのだろう



そんな自分も、さらに自分が嫌になる原因の1つであった
















「…貴方がそんなことを言うのには、きっと私たちにも責任があるのでしょうね」




夫人は俯くハリーにそんなことを呟いた



夫人は自分に責任があると言ったのだ





ああ、ついにこんなことまで夫人に言わせてしまったのか自分は


クズだな、どうしようもない


終わりだ、人として失格だ


誰か自分を殺してくれないだろうか









「貴方のことを見れていなかったのは、やっぱり私が貴方から目をそらしていたからなんでしょう」




「…ごめんなさい、ハリー」





夫人はハリーの方を見ながら謝罪をした






違いますよ


謝罪をするのはこっちです



小さい頃から面倒を見てくれて


毎日寮まで起こしにきてくれて


迷宮のことについて熱心に教えてくれて



ありがとう



今までありがとう








普通だったら言えるはずの言葉なのに


自分にはそれができない








惨めだった





夫人に謝らせてしまっている自分が、自分で思っている以上に、ずっと惨めだった




ベンやチェルシーじゃなくてもできるような事を自分は一つもできなかった


なぜとかじゃなく、そんなことを議論する以前のことだろう


できて当然のことだ





そんな当たり前のこともできない奴にこれから何ができる?




何もできないんじゃないか?

























ハリーはもう泣くしかなかった




これまで募った悲しみとストレスが一気に吐き出た


思っている以上に惨めな自分が、これ以上にないほどに自分を苦しめていた


気づいていたはずなのに、やらなかった自分が自分の首を締め付けていた



くだらない、こんな簡単なことで泣いてしまう


泣き虫なのも変わらない、ずっと前から変わらない


このどうしようもない、自業自得の塊を一体どこで捨てればいいのだろうか



ハリーは手で顔を覆いながら、嗚咽混じりで泣き出した






「ああ、ハリー…」




夫人はローブのポケットからハンカチを取り出して、横に座った


ハリーの肩を抱きながら、顔の近くまで手に持っているハンカチを近づける




「ハリー、泣かないで…」



くしゃくしゃの泣き顔を隠すハリーの手を退け、夫人はハンカチで濡れたハリーの顔を拭う


当のハリーは悲しい気持ちのせいか力が全くと言っていいほど入らず、夫人に抵抗することもできなくなっていた







かつて、ハリーが幼かった頃に、裏の岩盤の側面の穴に落ちた時も、救出された後にハリーはこうして夫人に顔を拭われた


その時も同じように悲しくて寂しくて泣いていたのを思い出す


あの時から泣き虫なのも変わっていない


ずっと子供のままだ





ハリーはグズグズと、先ほどよりも肩を震わせながら泣いた


時を超えた悲しみも、さらに底から溢れて来たからだった











「貴方は変わっていませんね…ずっとあの時のハリーのまま」




「私は少しホッとしました」





悲しみを垂らすハリーの横で、夫人はハリーを眺めながらそう言った



夫人は安心したような顔をしていた



それがなぜか、ハリーにはわからない





「…大人になるとね、人はなぜか不器用になってしまうんです」




「それは多分、大人になるまでにいろんなことがありすぎるせいかもしれません

本当に素直なのは子供のうちだけなんです」






夫人はハリーにはハンカチを渡すと、ベンチを照らす夕日を眺めながら、そんなことを呟いた


それは、随分と遠く、長い時間の話だった





「聖堂院は、競争することが一番正しいことだと幼い見習いに刷り込んでいる」




「素直なあなた達は本当はそうじゃないと分かっていても、教えられた事は心の底にこびりついてしまう」




「それはあなたにも、チェルシーにも、わたしの心の底にもあるものなのよ」




夫人は自分の胸を手で押さえると、ハリーの胸をもう一方の手で指差した


ハリーは相変わらず、ハンカチに顔を埋めていた



しかし、ハンカチ越しに夫人の話は全て頭に届く







「聖堂院の歴史…それだけじゃなく迷宮の世界の歴史がそうであったからでしょうね」




「私も若い頃にはそう教えられたし、それが正しいとも思っていたから、こうして聖堂院を続けている」




「私はそれでも生きていけたんです…

なぜなら、そのやり方が体にあっていたからです」




夫人は夕日にさらされながら、手を膝の上に置いた


2人の座るベンチの間を、風と夕日が通り過ぎて行く


ハリーの嗚咽はやっと止まりかけていた







「でも、そうじゃない

私は勘違いしていたのです」



「聖堂院で、様々な子を見るようになってからわかったことがありました」



「この世には、自分のような人間ばかりじゃないってことです」





ハリーの肩に手を当てながら、夫人は再びハリーの方を覗き込む


その顔は先ほどよりも険しくなっている


ハンカチ越しでもハリーはそれがわかった







「私達は、強制と洗脳をしていたのです…

そんなことすれば、当然あなたのような落ちこぼれが生まれてしまうというのに」



「自分の経験ばかりを押し付けてしまった」



「あなたを伸ばす方法が、きっと他にあったはずなのに…」









夫人の言っていたことは、全てギリギリのラインまで落とした慰めにしか聞こえなかった


こんなことを言われても、それに気づいた人にとっては嬉しくもないだろう


なぜならこの慰めは、落ちこぼれのためにあえて用意してあるものだからだ


自分に自信がある人が見れば、滑稽なことだろう


なんて、また卑屈な感情がそんなことを考える







「…そんな…そんなの違いますよ」





ハリーの体内では、自分は悪くない、環境が悪いのかもしれない


その夫人の言葉が、体に染み込もうとした


その方がまた、立ち上がれるかもしれない






だが、棘のある事実が邪魔をする



どうしても、周りが悪いと思い込むことはできなかった


なぜなら、ハリーが自分でわかっているからである


自分が甘えているのも、間違っているのもわかっているからである




結局、日が沈みきり、星が空に輝く頃には涙も気持ちのぶり返しも止まり、ハリーは再び振り出しに戻ることになった


その間も、夫人は慰めをくれたが、一向にハリーの気持ちは空に沈んだままだった












「…私の言葉は、ひどく安いものですね」





あれから何時間、夫人は自分を慰めてくれたことだろうか


そのお返しにあげられるものも、過去にも未来にも自分にはない


こうなると、また同じ無限ループだった


自分はダメだ、そうすると誰かが自分を慰めてくれる


そしたら、気分はちょっと晴れるけど

その後に慰められてる自分が悲しくなってきて、また気分は沈んでいく


そしてまた自分はダメだって落ち込む





ハリー・ヘルストフィールという男の人生はこんなことの繰り返しだ


ただ、慰めてくれる人がベンから夫人に変わっただけに過ぎない


そんなどうしようもないやつが変わらないことに対して、慰めてくれた人々は皆、自分の力不足だと言うのだ


どうして、自分の周りはこういう優しい人ばかりなのだろうか









「…もうこれ以上私が言えることはありませんね」




暗闇の中で隣に腰をかける夫人は星を見上げたまま、静かに黄昏ている


ハリーは泣きはらした赤い目で、それを眺めていた



優しい人の横顔は、美しかった







「…貴方には時間がありませんでした

これ以上は、貴重な時間をただ浪費するだけかもしれない…」






夫人は悲しそうにそう言った



だがその通りだった


ハリーには時間がない


何をするにしても、いつでも時間はなかったが、今は特にそうだった


ハリーには、答えを出すまでに考える時間がもうほとんど残されていない


この月が沈み、日が昇るころにはもう全てが間に合わなくなってしまう


そうなると、今以上に後悔がなだれ込んでくることだろう







だが、できない



ハリーにはその一歩が、とてつもなく遠かった



それを縮めるだけの何かを、この短い時間でなんとか探さなくてはいけない


それは夫人の慰めを聞くよりも、ずっと大事なことだった


だが、慰めの言葉は、尖ったハリーの心を少しだけ和らげた


小さな可能性の良心がわずかに残る







「さて…」





夫人は静かに立ち上がり、ハリーに背を向けた


長い間座っていたせいで、ローブにはシワがよっている


ハリーも、それと同時に夫人の方から目をそらした


静かな星は、2人をうるさく照らす









「…私はもう戻ります、チェルシーにも言わなくてはならないことがたくさんありますから…」



夫人は首だけをハリーに向けて告げた


冷たい風と暗闇は一人ぼっちになろうとしているハリーを、大きく包み込んだ


ハリーは唾を飲んだ



ここで終わりだ


聖堂院にいたハリー・ヘルストフィールは、もうここで終わりなんだと


ここから先は、人生の敗者

最も恐れたハリーの人生が始まってしまうかもしれないのだと


その覚悟を、少しだけ組み立てる




















「最後に一つだけ、貴方に渡すものが」



夫人は再び顔を落とすハリーに向き直った


そして、大きくたるむローブのポケットから一枚の封筒を取り出す


それは、赤い紐とロウのバラの装飾がついた、高級そうな封筒だった



夫人は封筒をハリーの顔の前に差し出す


封筒の表面にはには、筆記体でハリー・ヘルストフィール宛と記されていた








「…なんですか…これ」



ハリーは死んだ魚のような目で封筒を眺めた



ハリーはこの封筒がなんなのか、よく知っていた


この封筒にくっついているロウのバラは、聖堂院宛に送られてくるセオルの攻略協会のマークであった


ベンと一緒にいたハリーは、この7日の間にこのバラを何度も見ていた


それは、ベンがバラをたくさん持っていたからだった



いわばこの封筒は推薦書なのだ


当然、バラを持っている数だけ、推薦書が来ているということである


ハリーは、ベンがバラを部屋に飾るたびに焦りを感じていた


やはり、ハリーのタンスの上には、ひとつとしてバラがなかったからだった







「院長が攻略協会に頼み込んで送ってもらっている予備の推薦書です…

ベンのような待遇は無いではないでしょうが、それでも一人の攻略家としては生きていけるはずです」






「これは、貴方に渡しておきます…」




ハリーは生気の抜けた手つきで封筒を受け取った


これまでの不安や悩みが、苦味を残したまま消えてゆく


ハリーの心に噛み付いた枷が、ニヤリと笑ってから離れていく


いつもの自分ならば、飛び上がるほどに喜ぶのが正しいのだろうか







「明日の早朝か、今日の夜中のうちにこれを持って寮を出なさい…

明日、私たちはチェルシーにつきっきりになってしまうでしょうから」




最後に、夫人はハリーに笑いかけた




「諦めたらダメよ、ハリー…頑張りなさい」






夫人はそれだけ残すと、軽い会釈をしてから、聖堂院のある方角へ歩き出した


ハリーは夫人が暗闇に紛れて見えなくなるまで、涙の枯れた目で夫人を見つめていた








最後の最後に、ハリーは再び救われた



この封筒を攻略協会の窓口に出せば、明日からセオルの専属攻略家として働ける


ベンやアルベルト、他の見習いと同じ土俵に立てるのだ


幼い頃の夢に見た英雄とは言えなくても、1人の攻略家としていることができるのだ



自分の伝説の片隅にいることができるのだ



それはハリーにとっては、とても喜ばしいことのはずだった



だが、これはそうじゃない



自分の望んだ形とは全く違うものだった



でも、これで良かったのだろうか






それを理解するには、随分と先の未来まで待たなければならないことだった



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