第171話 絶望という名の演劇 終演
この馬鹿、悪魔っ子は今自分がどんな状態かわかっているんだろうか?
全身から血が留めなく流れ、その美しい顔は頭から真っ赤なペンキを被ったかのようにびしょ濡れだ。顔色は今にもぶっ倒れそうなほど青白く、その身体もよろめいて真面な歩行すら覚束ない。
メリュジーヌさえいればまだ翔太はひき返せるのに。この憎悪と悪意に魂までも焦がされても人間でいられたのに――。
だけど困ったことに翔太はメリュジーヌがこの場に来てくれた事がただひたすら嬉しかった。自分の気持ちに正直な彼女がただ羨ましくそして、愛しかった。
「こ、殺せ!」
コマンダーが捨て犬のような強烈な不安を顔に張らしながら、声を張り上げる。
心身ともにズタボロのメリュジーヌに四方八方から屈強な男達が襲いかかる。
――ある者は剣でメリュジーヌの脳天に垂直に叩きつける。
――ある者は槍でメリュジーヌの心臓を一突きにせんと突き上げる。
――ある者は弓でメリュジーヌの眉間を串刺しにするべく矢を放つ。
――ある者は巨大なバトルアックスでメリュジーヌの身体を横一文字に横凪にする。
しかし、長く伸ばした爪をメリュジーヌは数回振ると、彼女に迫っていた剣が、槍が、戦斧、矢が粉々の破片まで分解される。
「うひっ!?」
真っ赤な爪が高速で伸長し、殺意の風にのって空を高速で疾駆する。兵士達にピクリとノ反応も許さず、粉々の肉片へと変える。
翔太の既知の仲なのが明らかなヴァージルとオットーは兎も角、茶髪女やドレス女、コマンダーを殺さなかったのは翔太が以前下した実にくだらない命令を忠実に守っているから。
(まったく馬鹿な奴……今のすっからかんの僕にとってお前以上に大切な奴なんていやしない。そんなの見てわかるだろ? 空気を読めよ! 帰ったらたっぷりお仕置きしてやる。一晩中、足腰が立たなくなるまで愛してやる)
よろめきな、何度も転びながらもメリュジーヌは翔太の元まで到達する。
「主様、帰ロ」
彼女は翔太を愛しそうに抱き締めるとただそう呟いた。
「うん。帰ろう。メリュジーヌ」
メリュジーヌに抱きしめられその散々味わった温もりを感じ、冷え切った翔太の魂に灯が燃え始まる。
「ナ、ナイアー司祭!」
コマンダーが追い詰められた兎のような表情でメリュジーヌが切り裂いた扉へ叫ぶ。
「はい、は~い」
妙に間延びした、寝ぼけたような声を上げて、司祭服に聖書を持った四角顔の大男が姿を現す。
「この悪魔どもを――」
「ええ、そりゃあ処理しますとも。そこの二匹の平民はぁ~、主たるアイリス神に弓を引く悪魔憑きですから。いや~マジで!」
神父の闇色の瞳は翔太に強烈な悪寒戦慄を起させる。
この感覚――人間じゃない。マンティコアと相対したときと同じ圧迫感。しかしその身体から滲み出る覇気は悪魔のそれとは根本的に異なっていた。おそらく此奴はアイリス神の――。
ならばやることは一つだ。全力で翔太の大切なものを逃がす。
今のメリュジーヌの状態では神の使いは倒せない。そればかりか足手纏いの翔太まで逃がそうとすればこの悪魔っ子は確実滅ぼされる。それだけは今の翔太は許容できない。
メリュジーヌを抱き寄せると唇を奪う。そして彼女のおでこに額を接着させ、優しく語りかける。
「メリュジーヌ、君はテューポ達に助けを求めに走って欲しい。頼む、僕にはもう君しか頼れるものがない」
「はいデス」
メリュジーヌは翔太を抱き上げようとするが、両腕が震えて持つことも支える事もできない。
「違う。君だけで行くんだ」
顔を歪めて首を振るメリュジーヌに苦笑しつつ、その後頭部を優しく撫で、言い聞かせる。
「いい子だから聞くんだ。君がテューポ達に今、僕らが置かれている状態を伝えれば僕は助かる。けどここで君まで滅ぼされれば全てが終わる。わかるね?」
「無駄~です」
ナイアー司祭の闇色の瞳が怪しく煌めくと翔太とメリュジーヌの身体が硬直する。僅かなら動けるが、この場から逃げるだけの動きは不可能だ。
「悪魔憑きは臭いですねぇ、面倒ですねぇ、鬱陶しいですねぇ~」
ナイアー司祭は鼻を摘まみ、汚物を見るような目で翔太達に視線を向けると両手でパタパタと振り払う。
「悪魔憑き……異世界の醜悪なバケモノ。やはりそうでしたか。以前からそうじゃないかと思い、奴に近づいていたのです」
反吐が出るほど翔太は愚かだ。ヴァージルの意図も見抜けず、翔太に好意を持ってくれていると己惚れていた。そんな訳があるはずもないのに……。
「なるほど、ヴァージル様が平民と親密だという噂にはそんな訳があったんですね?」
茶髪の青年が顔を歓喜で満たしながらも、ヴァージルに尋ねる。
「ナイアー司祭、ここは私に処理させていただけないでしょうか?」
ヴァージルはナイアー司祭の元で跪く
「おお、主神アイリス神の心熱き巫女よ。その神への献身さ、このナイアー、大層心が打たれました。ならばこれを使いなさい」
ナイアー司祭はヴァージルに一本の短剣を渡す。跪きながらも恭しく受け取るヴァージル。
「これは?」
「悪魔憑きはゴキブリのような生命力があります。さらに変に触れて穢れが移ってはかないません。その短剣ならその悪魔憑きを一撃の下で屠ることが可能でしょう」
解析スキルが使用不能な今、詳細は分からない。だがあの短剣から滲み出る禍々しい漆黒のオーラ。あれを受ければヤバい。
甘かった。神様が量産され、アイリス神など物の数ではないと心のどこかで高を括ってしまっていた。また翔太はしくじったんだ。
「はい。アイリス神の御心のままに」
ヴァージルが片手に近づいてくる。
最悪の結末が見えてしまった。
突如視界が遮られる。甘い匂いと優しい温もりから、メリュジーヌに覆い被らされていることを認識し、胸が炙られるような焦燥が湧き上がる。
「メリュジーヌ、離れろ、これは命令だ!」
「いやデス」
「ふざけん――」
次いで抱きしめられ唇が押しあてられる。口内に舌が入り翔太の舌に絡み合う。
唇を離し、翔太の顔を見つめるメリュジーヌ。
背後ではヴァージルが短剣を両手で大きく振りかぶる。
「やめろ……やめてくれぇ!!」
喉が千切れんばかりに叫ぶ。もう二度と大切な奴を失うわけにはいかなかったから。
「主様、愛してマス」
そしてメリュジーヌは幸せそうに微笑み、ヴァージルの短剣が突き立てられる。
それは妙にゆっくりと、メリュジーヌの心臓に吸い込まれる。苦痛に悶えるわけでも、吐血を吐くわけでもなく、まるで冗談のようにメリュジーヌの姿は消失し、『七つの迷宮』の指輪が床に転がった。
「メリュ……ジーヌ?」
「すげぇ! 流石、ヴァージル様、悪魔憑きを一撃で払ったぞ」
「ヴァージル様、あの家畜の悪魔憑きの払いは私にやらせて――」
奴らの声が何処か遠くに聞こえる。だけど、もういい。最後の砦のメリュジーヌも既に翔太の腕にはいない。もう失う者は何もない。
(憎悪よ。餌はたっぷりある。さあ思う存分食い散らかせ!)
笑いが聞こえる。
ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ
ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ
ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ
その狂った声が翔太自身の声だと気付いたとき、田宮翔太の意識は失われた。
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◆
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翔太は真紅の花が咲き乱れる大樹の下で、大樹の幹に寄りかかっている。
(すごく眠いや……)
瞼が重たい。ここは田宮翔太の全てを知る世界。だから理解している。
ここで眠れば田宮翔太という人間は生まれ変わる。それは肉体も精神も、記憶さえも以前の田宮翔太と全く変わりはいないけれど、決定的に大きな変化だ。
(メリュジーヌ、勝手についてきて勝手にいなくなりやがって……僕もお前が大好きだったよ。この世の誰より大好きだったんだよ。最後ののろけくらい言わせろよ、馬鹿……)
この異世界に来て対した期間は経っていないが、本当に色々あった。いいさ。こんな終わりもありだろう。ここで幕を引こう。
(僕の――田宮翔太の漫遊記はここで終幕――お姉ちゃん、心菜お姉ちゃん、日葵ちゃん、蒼、御爺ちゃん。フィオン、レイナ……ラシェル…………アゼル、ばいばい……)
お読みいただきありがとうございます。
翔太君は死んだわけではありません。眠っているだけです。眠った原因を取り除ければ、もしかしたら……。




