最終章 「絆を絶つ者」 十話
皐月半ば。
吉備の山々では、新緑が明るい日を浴びて美しく輝いていた。
大王軍に蹂躙された里も、順調に復興が続いている。やむことのない工事の音を聞きながら、斐比伎は、少彦名を肩に乗せて歩いていた。
林を抜けて、はじめて少彦名を拾った小川に出る。水面の煌めきに眼を細め、斐比伎は足を止めた。
その傍らに、若日子建が音もなく現れる。
「……あなたも、もう行っちゃうの?」
川面を眺めながら、斐比伎は尋ねた。
『……我は戦で死した後、吉備津彦の遺した布都御魂剣を護る守人となった。そして時を経て、兄の最期と同じ声に呼ばれて出雲振根と出会い、十拳剣を預かった。振根は最期に誓った。吉備津彦が蘇る時、自らも蘇り、共に戦う。故に、それまで神剣を共に封印しておいてほしい……と』
「そっか……」
『我は長き間、あなたの代わりに吉備を守護してきたのだ。……もう休ませてほしい』
「そうだね……ありがとう、若日子建」
斐比伎は、若日子建に向かって笑った。
彼女を見返す神霊の顔に、安らぎに似た表情が浮かぶ――そして、そのまま、若日子建は消えた。
「……」
若日子建を見送った斐比伎は、ほう、と息をつき、その場にしゃがみこんだ。
少彦名を肩から下ろすと、持っていた袋を開ける。
中から取り出したのは、実を半分に割ったガガイモの小舟だった。
「……どうしても、行くの?」
「わしは常世の住人じゃ。ひとつの世には、とどまれぬ」
「別に、常世になんて、かえらなくてもいいじゃない」
拗ねたように、斐比伎は言った。
「ずっと、そばにいてほしいのに」
「その言葉は、違う男に言うがよい」
「生意気ねっ」
斐比伎は、人差し指で少彦名の頭をつついた。
こんな他愛ないやりとりも、これで最後となるのだろう。
「……」
斐比伎は川に小舟を浮かべると、そうっとその中に少彦名を入れてやった。
「……そういえば、少彦名。あなたはどうして、神代の途中で常世の国になんか行っちゃったの?」
「うむ。わしは、あるとき粟島に行ってな。一本の粟茎によじ登ったところ、そのまま弾き飛ばされてしまったのじゃ」
「え、それって、すっごい間抜け!」
「うるさいわい! 生意気を言うと、言祝をやらぬぞ!」
「はいはい、ごめんなさい、神様」
笑いながら謝り、斐比伎は小人神の前で、わざとらしく畏まった。
「では、改めて……。――吉備の行く末を担う者よ。これより先は、『大吉備津姫』と名乗るがよい」
「……承りました、少彦名の御神」
神妙な面持ちで、斐比伎も答える。
しばらく見つめあった後、二人は同時にふき出した。
「……お前の担うものはの、もしかしたら、吉備一国ではすまぬかも知れぬぞ。――それでも、背負えるか?」
「背負ってみせるわ」
即答した斐比伎を見上げて、少彦名は微笑んだ。
「それでよい……元気でな。お前に会えて、楽しかった」
「私も楽しかったわ。――さよなら、少彦名!」
斐比伎は、小舟を押し出してやった。
細い小川を、小さな舟と小人が流れていく。
この川はやがて海へとつながり、舟はその彼方にある常世の国へと流れていくのだろう。
もう二度とは会うことのない小さな神を、斐比伎は川辺に立ち尽くし、いつまでもいつまでも見送った。
次回でラストです。




