第四章 「星、堕(お)つる」 九話
……十六年前の、皐月の晦。
数人の供人を連れて狩りに出かけた建加夜彦は、夢中になって獲物を追ううち、一人で旭川の川原に迷い出た。
帰り道を探してさまよう彼の耳に、不意に赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。建加夜彦は慌てて周囲を見回す。
『あれは……っ』
建加夜彦は急いで川の中へ踏み入った。
葦で編んだ小舟に入れられた赤ん坊が、泣きながら川を流れてくる。建加夜彦は赤ん坊を救い出し、川岸へ戻った。
『よしよし、もう心配ないぞ』
建加夜彦は赤ん坊をあやす。子供は女の子で、よく見るととても愛らしかった。
『……それにしても、一体どこの親だ。子供を川へ捨てるなんて……』
赤子を抱いたまま、建加夜彦はふと思案にくれた。拾ったはいいが、一体この赤子をどうすればいいのだろう。
『……とりあえず、このままでいるわけにはいかないな』
建加夜彦はいったん御館へ戻ることにした。
どうも、天候がおかしい。
さっきまで快晴だったというのに、急に空に暗雲が垂れ込めてきた。雨もぽつぽつ降りだしている。季節外れの嵐がきそうな気配であった。
建加夜彦は、馬のもとへ急ぐ。
--その時、突如天空に稲光が走った。
『うわっ……』
建加夜彦は思わず顔を背けた。轟音と共に、激しい雷が地上へ落下する。落雷を受けた川原は焼け焦げ、煙を上げていた。
見つめる建加夜彦の前で、煙がおかしな変化を始めた。まるで意志を持っているかのように動き回り--そして、一つの人影をとる。
『……我が娘を拾いしは、そなたか』
建加夜彦の頭の中に声が響く。
『--あなたは?』
建加夜彦は、声の主と思しき煙の人影に向かって問いかけた。
『--我は、高天原に坐す天津軍神・武御雷神なり』
『武御雷神……!? 雷神の……?』
建加夜彦は驚き、恐れ戦いた。
伊邪那岐神が火之迦具土神を斬った時に飛び散った血から生まれたという武御雷神は、神代の頃国津神と戦い、豊葦原の国譲りを成功させた、高天原の猛き軍神である。
『我が娘とおっしゃったのは……この赤子でございますか?』
建加夜彦は、人影に向かって腕に抱いた赤子を掲げた。
『いかにも。これは、我が蛭子なり。--なれど、そなたらの待ち望んだ者である』
『……どういう意味でございますか?』
理解できぬまま、建加夜彦は神に問うた。
『……若き吉備の王よ』
武御雷神は、厳かな声で建加夜彦に語りかけた。
『我は昔、この吉備の地で、戦火にまかれた一人の人の娘を救い、天へ取り上げて我が妻とした。……娘の名は、阿子。その母は、阿曽女。--そして父は、吉備津彦』
『吉備津彦--大吉備津彦命!? ……では七百年前、伊佐芹彦の侵略から逃れた吉備津彦の姫が、あなたの妻に……!?』
建加夜彦は呆然と呟いた。あまりにも、想像を絶する話だった。
『我と妻の間には、一子が誕生した。しかし、それは魂を宿さぬ蛭子であった。蛭子は長き間、魂無きまま眠っておったが、ある時冥府の司が我のところを訪ねて言った。「--救われぬ魂がある」と。我は答えた。「それでは我が子に魂無き者がおるゆえ、その中に入れるがよい」と』
『では……この赤子の宿した魂とは……?』
『誰よりも強く蘇りを望んだ者--吉備津彦である』
『そんな……』
建加夜彦は、赤子を抱いたまま愕然と膝をついた。
吉備の民全てが守護神と仰ぐ、古の英雄・吉備津彦。大和の侵略軍に対して戦った、吉備の象徴。その尊き御魂が、この小さな赤子の中に? --しかも、天津雷神の血を引いて?
『魂は、自らの血の裔に生まれ変わるもの。我は、我が子をその魂の最も望む場所へ還すことにした。--若き吉備の王よ、そなたに我が子を託す』
語り終わると、煙は四散した。
直後、雲間から光が差し始める。先刻までの曇天が嘘だったように、空はまた明るく輝き始めた。




