第四章 「星、堕(お)つる」 六話
満開となった桜の老木に、炎が燃え移る。激しい熱風に煽られて、薄紅色の花弁が一斉に舞い散った。
非現実的なまでに美しいその光景を、星川は館内に立ち尽くして見つめていた。
(桜が……燃える。庭も。蔵も。人も。……何もかもが、炎に取り巻かれていく)
足もとまで届こうとする焔の渦の中に立って、星川は一人、逃げようともしなかった。
星川達の挙兵が成功したのは、大王を殺害し、この大蔵を占拠したところまでだった。
報告を聞いて大和へ急ぎ戻った磐城はすぐに指揮をとり、大伴や東漢束直に命じて、大蔵を包囲させた。
外門を固く閉ざしかため、中に立てこもる星川達に対し、磐城軍は一斉に火矢を放った。炎はあっというまに大蔵の内外に燃え広がり、星川達を窮地に追いつめた。
--もともと、星川と磐城では、その背後に持つ勢力が違いすぎるのである。星川についた僅かな手勢では、大和軍そのものをも動かす磐城に、太刀打ちできるはずもなかった。
援軍として頼みにしていた加夜軍は、星川の救出に間に合わなかった。起死回生をかけて海上をやってきた加夜の船団は、和泉で大王軍の足止めを食らい、激しく交戦中である。
「……ここまでだな」
星川は、諦めたように呟いた。
大蔵の内にも外にも、もはや彼を助けるものは誰もない。僅かな味方は、皆星川を守ろうとして戦い、そして死んでいった。
「--母上」
星川は、己の足下を見た。板床の上には、火矢を受けて命を落とした稚媛が、うつ伏せに転がっている。
「兄上。あなたという人は、己の母や弟を、こんなにも冷酷に討ち滅ぼせるのですね」
言って、星川は激しくむせた。--煙が充満している。息が出来ない。
視界に入るのは、もはや荒れ狂う炎ばかり。
あちこちで柱や屋根が燃えていた。ほどなく、この館自体も崩れ落ちるだろう。
--父は死んだ。母も死んだ。そして今、兄は自分を殺そうとしている。
もう、誰もいない。自分には最早何も……。
(斐比伎姫……あなたは、どうなるのだろう)
涙でかすむ星川の眼に、炎の中を舞い狂う桜の花弁が映った。
--こんな凄惨な、人々の終焉の場にあって。桜はただ、その哀しいまでに美しい最期の姿を無言でさらしている。
花妙し 桜の愛で
こと愛でば 早くは愛でず
我が愛づる子ら
星川は、古の大王が謡った歌を思い出した。
……花の美しい、桜の愛しきこと。
同じ愛するなら、早くから愛すればよかったのに、そうはしなかった。
我が愛しき姫も、また。
古の大王は、愛しい衣通姫をただ一夜しか愛する事ができなかった。それを惜しみ、なお姫の美しさを愛でてこの歌を詠んだという。
(一夜どころか……ただ一度、言葉を交わすことしか出来なかった。もっと早くあなたに逢いたかった。もっと早く出逢って、あなたを愛すことができていたならば……)
星川は、桜を見つめながらそう願う。……もう、叶わぬ夢でしかないけれども。
後の世の人々は、星川を、大王位を狙って謀反を起こした、心悪しく愚かな皇子と語るだろう。
誰も知るまい--星川の、本当の願いを。
……全ては、ただ一度出会った姫のためだけだったなど。
「僕は……何も守れなかったし、誰も救えなかったんだ」
炎の中で、星川は閉じた瞳から涙を落とす。
--この日、謀反人・星川皇子は大王軍の手によって焼死させられた。




