第三章 「吉備の反乱」 十話
「ただいま、父様! 心配かけてごめんなさい」
建加夜彦の前に座り込むと、斐比伎は頬を真赤に上気させて言った。
「斐比伎、本当にお前か? よく無事で……大丈夫なのか?」
建加夜彦は驚きながら、突然戻った娘をまじまじと見つめた。
久々に父に会えた喜びで目を輝かす斐比伎は、どこにも弱った様子などなく、むしろ以前の彼女よりも逞しくなったように見える。
「ええ、大丈夫よ、父様」
斐比伎は元気に言った。
「そうか、それならいいが……。お前は一体いままで何処にいたんだ?」
「えっと、それは……話すと少し長くなるんだけど……そうだ、それより父様の方はお元気だった? 里の皆も変わりない?」
斐比伎は一瞬ためらったが、すぐに明るい顔で話題を変えた。
「--いや、俺は、大丈夫だがな……」
建加夜彦は言葉を濁す。その刹那、父の瞳に落ちた陰を、斐比伎は敏感に感じ取った。
「なに? 何かあったの?」
「うむ……」
「--姫」
父娘の会話に、突然留玉が割って入った。
「実は、今、吉備は大変な事になっております」
老いた留玉の真剣な表情に、斐比伎はただならぬ気配を感じ取った。
「どうしたの。一体何がおこったの」
「--留玉」
「いえ、王、わしに言わせてくだされ。姫、実は……」
建加夜彦の制止を振り切り、留玉が一同を代表して斐比伎に事の次第を説明した。
「……と、いうわけですじゃ」
留玉は手短に話を終えた。その間、斐比伎は真剣な面持ちで老人の話に聞き入っていた。
「……そう。そんな事になってたなんて……」
先刻までの明るい表情とは一変し、斐比伎は沈鬱な様子で溜め息をついた。
自分が呑気に山で修業している間に、吉備がそんな危機を迎えていたとは。--しかも、この局面の行く末は、自分の肩にかけられているのである。
(……どうしよう。私は、どうすればいいんだろう)
吉備の姫として、加夜王の娘として。
一体自分は、どのように選択すればよいのか?
「……斐比伎」
考え込む娘に、建加夜彦が声をかけた。
「……父様。父様の、ご意見は?」
「お前の望むようにしなさい。どんな答えであろうと、俺は全力をもってお前を支える」
「--王!」
「黙れ」
非難の声をあげかけた長老は、建加夜彦の鋭い一瞥を受け、すぐに黙り込んだ。
「……私。私は……」
斐比伎は目を閉じ、僅かな時間でいろいろなことを考えた。
吉備の事。加夜の事。……優しかった父。「姫」である自分。--そして、大和の皇子。
(磐城の、皇子さま)
斐比伎の眼裏に、一度だけ出会った皇子の桜花のような姿が浮かんだ。
--あの、儚くも、麗しい人。
印象的で、忘れられない大和の皇子。あの皇子の、妃となる。この自分が……。
(あの方が、私を望まれたのかな……)
考えると、心の底に何か痛いような感覚が走った。吉備を去る悲しみとは、また違う。けれど、単純な喜びでもない。
形容しがたい、この気持ち。この感覚を、なんと呼べばいい?
「--父様。使者の方へのお返事は、いつまでにしなくてはならないの?」
眼を開けて、斐比伎は言った。
「……明日だ」
「そう」
斐比伎は父を見上げて、晴れやかに笑った。
「では、このように申し上げて。--斐比伎は、大和へ参りますと」
斐比伎は迷いのない口調で告げた。
「……斐比伎」
「大丈夫よ、父様。私は望んで大和へ行くの。……これは、私の意志なの」
斐比伎は真摯に父を見つめる。その清冽な瞳に、ためらいはなかった。
「--わかった。だが、斐比伎、覚えておくがいい。何処へ行こうと、お前は俺の娘だ。俺はいつでもお前を思い、お前の力になる。……忘れないでくれ」
建加夜彦は、言いながら斐比伎の黒々とした髪を撫でた。
その力強くて、優しい手。幼い頃から、幾度こうやって慰められたろう。
大好きだった、父。もしかしたら、二度とこうして近くで甘えることは出来ないかも知れないけれど……。
「……ええ、父様。忘れない。絶対に、忘れないわ」
滲む涙をごまかすように、無理に晴れ晴れとした笑顔を作って、斐比伎は明るく呟いた。




