第六話「何も持ってきてないです」
雲の上に家があった。
瑠倫ちゃんは写真を撮った。
ぱしゃ。
もう一枚。
ぱしゃ。
三枚目を撮ろうとして。
やめた。
屋根の上に誰かいる。
白い雲。
青い空。
その間に浮かぶ、古い木造の家。
煙突。
傾いた屋根。
そして。
憂起ちゃん。
座っていた。
「何しとるんじゃ?」
憂起ちゃんが振り返る。
「休んでます」
「そこで?」
「はい」
「どうやって来た?」
「歩いて」
瑠倫ちゃんは下を見た。
雲。
さらに下。
地上。
たぶん数千メートル。
もう一度、憂起ちゃんを見る。
「どこを?」
「途中から覚えてないです」
「ほっほ」
ぱしゃ。
「撮りました?」
「撮った」
「消してください」
「嫌じゃ」
「そうですか」
諦めるのが早かった。
瑠倫ちゃんが屋根へ降りる。
背中には大きなリュック。
腰には袋。
カメラ。
双眼鏡。
空中歩行用の靴。
高度計。
風除け。
対して憂起ちゃんは。
何も持っていない。
本当に。
何も。
「手ぶらか?」
「はい」
「遠出するつもりじゃなかった?」
「散歩だったので」
「ここまで?」
「はい」
瑠倫ちゃんは笑った。
「よい散歩じゃな」
「途中から道が変だったので」
憂起ちゃんは家を見る。
「入ろうと思ったんですけど」
「うむ」
「入口がないです」
瑠倫ちゃんも見る。
屋根。
壁。
煙突。
窓すらない。
「困ったか?」
「いえ」
憂起ちゃんは立ち上がった。
壁へ歩く。
そのまま。
すう。
消えた。
壁の向こうから声。
「入れました」
瑠倫ちゃんは少し黙った。
リュックへ入れかけていた手を抜く。
「何を出そうとしたんですか?」
「壁を扉にする棒」
「便利ですね」
「いらんかったのう」
「はい」
瑠倫ちゃんは嬉しそうだった。
「これは楽になりそうじゃ」
*
家の中は暗かった。
外から見たより広い。
かなり。
古い木の床。
壁。
天井。
埃の匂い。
中央に。
白い階段。
上へ伸びている。
十段。
二十段。
天井を抜け。
まだ続いている。
「面白いのう」
瑠倫ちゃんがカメラを構える。
ぱしゃ。
階段。
ぱしゃ。
憂起ちゃん。
「撮りました?」
「撮った」
「消してください」
「嫌じゃ」
二人で上がる。
五分。
十分。
階段は終わらない。
瑠倫ちゃんが速度を上げる。
憂起ちゃんも来る。
さらに上げる。
来る。
瑠倫ちゃんが振り返った。
「疲れんのか?」
「疲れないです」
「便利じゃな」
「瑠倫ちゃんに言われたくないです」
「腹は?」
「減らないです」
「ああ」
瑠倫ちゃんはリュックへ伸ばしかけた手を止めた。
「そうじゃった」
「食べられないです」
「残念じゃな」
「ちょっとだけ」
瑠倫ちゃんが止まった。
憂起ちゃんも止まる。
「ちょっと?」
「美味しそうなのは分かるので」
「味は?」
「たぶん覚えてます」
短い沈黙。
瑠倫ちゃんはリュックを閉めた。
「では昼は後じゃな」
「食べていいですよ」
「わしだけ?」
「はい」
「それはつまらん」
「お腹減るんじゃないですか?」
「減ったら食う」
また歩き出す。
憂起ちゃんも続いた。
*
三十分。
壁に初めて扉が現れた。
「やっと扉じゃ」
開ける。
光。
風。
外。
ただし。
地上ではない。
青空の中に星があった。
無数。
昼なのに。
そして横には。
海。
空中に巨大な海が浮いている。
岸がない。
水だけが、空へ横たわっている。
波がある。
魚もいる。
瑠倫ちゃんの目が輝いた。
「行くか」
「はい」
リュックを開ける。
白い腕輪。
水中呼吸。
ゴーグル。
水中特化装備。
瑠倫ちゃんが顔を上げる。
憂起ちゃんはもう海へ入っていた。
すう。
水面を抜ける。
そのまま。
中を歩いている。
沈まない。
泳がない。
「……憂起よ」
「はい?」
「息」
「してないです」
「水中だから?」
憂起ちゃんが考える。
「普段も、必要ないです」
「そうじゃった」
瑠倫ちゃんは白い腕輪を自分につけた。
「わしは要る」
「大変ですね」
「便利な道具があるからよい」
瑠倫ちゃんが飛び込む。
水中で身体が変わる。
マグロ。
憂起ちゃんの横を通過。
一周。
二周。
三周。
「瑠倫ちゃん」
四周。
「速いです」
五周。
「瑠倫ちゃん」
マグロが止まった。
人間へ戻る。
「すまん」
「遊んでました?」
「うむ」
憂起ちゃんは水中を歩く。
瑠倫ちゃんは泳ぐ。
同じ方向へ。
同じ場所を。
全然違う方法で。
「変じゃな」
「何がです?」
「わしは水じゃから泳いどる」
自分を指す。
憂起ちゃんを指す。
「憂起ちゃんは?」
「歩いてます」
「なぜ?」
「歩けるので」
「ほっほ」
瑠倫ちゃんが笑う。
ぱしゃ。
「水中でカメラ使えるんですか?」
「水中用じゃ」
「何個持ってるんです?」
「カメラ?」
「はい」
瑠倫ちゃんは考えた。
「いっぱい」
「そうですか」
「憂起ちゃんは?」
「持てないです」
瑠倫ちゃんが止まった。
憂起ちゃんは自分の手を見る。
薄い。
水越しだからではない。
輪郭そのものが少し遠い。
「カメラ、使ったことないのか?」
「生きてた時はあります」
「今は?」
「たぶん落とします」
瑠倫ちゃんはカメラを見る。
憂起ちゃんを見る。
「では」
カメラを構える。
「わしが撮ればよいな」
ぱしゃ。
「だから消してください」
「嫌じゃ」
*
海を抜ける。
その先には森。
逆さま。
木の根が空を向き。
枝葉が下へ垂れている。
雲が葉の間を流れていた。
瑠倫ちゃんは空中歩行靴を履く。
一歩。
何もない空へ。
靴底の下に淡い光。
憂起ちゃんは。
そのまま歩いた。
何もない空を。
靴も。
光も。
足場もない。
「憂起よ」
「はい」
「そこ、地面ある?」
「ないと思います」
「落ちん?」
「今のところ」
「便利じゃなあ」
「瑠倫ちゃんの靴も便利ですよ」
「これは拾った」
「どこで?」
「忘れた」
「そうですか」
ぱしゃ。
「撮りました?」
「撮った」
「消してください」
「嫌じゃ」
*
石門。
その向こう。
また階段。
今度は下へ。
途中で一段だけ欠けていた。
瑠倫ちゃんは跳ぶ。
憂起ちゃんは普通に進む。
ない段へ足を出す。
少し。
身体が落ちる。
そのまま向こう側へ抜けるように進み、次の段へ立った。
瑠倫ちゃんが戻ってくる。
「今のどうやった?」
「分かりません」
「落ちなかった?」
「少し落ちました」
「それで?」
「次の段があったので」
瑠倫ちゃんは穴を見る。
憂起ちゃんを見る。
「雑じゃな」
「瑠倫ちゃんに言われたくないです」
「今日はよく言われるのう」
*
さらに先。
細い橋があった。
その先に。
透明な球体。
中に小さな町。
家。
道。
広場。
人もいる。
「お」
瑠倫ちゃんが双眼鏡を出した。
「町じゃ」
憂起ちゃんも目を細める。
「ありますね」
橋を渡る。
球体の前。
扉がある。
瑠倫ちゃんが触れる。
開かない。
横に文字。
『来訪者は所持品を一つ預けてください』
「ほう」
瑠倫ちゃんはリュックを見る。
「何にするかのう」
瓶。
縄。
靴。
方位磁針。
折り畳んだ翼。
小さな鐘。
「これでよいか」
鐘を台へ置く。
扉が開いた。
「憂起ちゃんも」
振り返る。
憂起ちゃんは立っている。
手ぶら。
「……」
「何も持ってきてないです」
「そうじゃった」
憂起ちゃんが扉へ近づく。
開かない。
文字。
『来訪者は所持品を一つ預けてください』
「どうします?」
瑠倫ちゃんはリュックを開く。
「一つ貸すか」
瓶を出す。
憂起ちゃんへ差し出す。
手を伸ばす。
瓶が。
すとん。
床へ落ちた。
「持てません」
「そうじゃった」
「はい」
瑠倫ちゃんが拾う。
少し考える。
「では」
扉の横へ回る。
「別の入口を探すか」
「私は入れますよ」
「ん?」
憂起ちゃんが透明な壁へ手を入れる。
通る。
「待て待て」
顔。
肩。
身体。
すう。
町の中へ消えた。
数秒。
戻ってくる。
「入れました」
瑠倫ちゃんは扉を見る。
預けた鐘を見る。
憂起ちゃんを見る。
「わし、鐘を預けたんじゃが」
「返してもらえばいいと思います」
「そうする」
鐘を取る。
扉が閉じた。
瑠倫ちゃんは消えた。
町の中。
憂起ちゃんの隣へ現れる。
「転移できるんですね」
「もちろん」
「じゃあ鐘いらなかったですね」
「試したかったんじゃ」
「そうですか」
「憂起ちゃんは試さんかったな」
「持ってないので」
瑠倫ちゃんは笑った。
*
町では。
誰も憂起ちゃんを見なかった。
瑠倫ちゃんには声を掛ける。
「旅の方ですか?」
「うむ」
「どちらから?」
「だいぶ下」
憂起ちゃんは隣にいる。
誰も見ない。
子供が走ってくる。
憂起ちゃんの身体を抜ける。
そのまま行く。
瑠倫ちゃんの笑顔が。
少しだけ止まった。
憂起ちゃんは普通だった。
「見えてないのう」
「そうみたいです」
「いつも?」
「場所によります」
「困らん?」
「話したい時は困ります」
「今は?」
憂起ちゃんは町を見る。
市場。
噴水。
空中へ吊られた洗濯物。
奇妙な果物。
屋根の上を歩く猫。
「見てるだけなので」
「そうか」
瑠倫ちゃんは屋台を見る。
赤い果物。
買う。
一つ。
齧る。
「甘い」
「美味しいですか?」
「うむ」
憂起ちゃんが果物を見る。
ほんの少し。
長く。
瑠倫ちゃんはもう一口食べる。
そして。
カメラを出した。
果物を撮る。
屋台を撮る。
町を撮る。
「あとで見せる」
「何をです?」
「写真」
「今見てますよ」
「あとでもじゃ」
憂起ちゃんは少し笑った。
「じゃあお願いします」
*
夕方。
二人は最初の家の屋根へ戻った。
雲が赤い。
瑠倫ちゃんは荷物を並べる。
空中歩行靴。
水中呼吸腕輪。
ゴーグル。
カメラ。
双眼鏡。
方位磁針。
使わなかった飛行具。
昼に食べ損ねたサンドイッチ。
憂起ちゃん。
何もない。
「いっぱい使いましたね」
「今日は少ない方じゃ」
「そうなんですか」
「憂起ちゃんは本当に何も使わんかったな」
「はい」
「水も」
「はい」
「空も」
「はい」
「扉も」
「はい」
瑠倫ちゃんは腕を組む。
「便利じゃなあ」
「でも」
憂起ちゃんが町のあった方向を見る。
もう見えない。
「果物は食べられなかったです」
瑠倫ちゃんの顔から笑いが少し消える。
「町の人とも話せなかった」
「うむ」
「鐘も預けられなかった」
「うむ」
「だから」
憂起ちゃんは屋根へ座る。
「瑠倫ちゃんの方が便利なところもあります」
瑠倫ちゃんも座った。
「わしは物が使えるから?」
「はい」
「憂起ちゃんは物がなくても行ける」
「たぶん」
「でも行った先でできんことがある」
「あります」
瑠倫ちゃんはリュックを見る。
重い。
大量の道具。
今日使ったもの。
使わなかったもの。
いつ使うか分からないもの。
「わしは逆じゃな」
「逆?」
「持っていかんとできんことが多い」
靴を持ち上げる。
「じゃが」
カメラを持つ。
「持っていけば、できることも多い」
憂起ちゃんが頷く。
「はい」
瑠倫ちゃんは笑った。
「どっちも面白いのう」
「勝負だったんですか?」
「今決めようと思った」
「やめた方がいいです」
「そうじゃな」
二人で雲を見る。
しばらく。
瑠倫ちゃんがサンドイッチを取り出した。
「食べていいですよ」
「うむ」
包みを開く。
一口。
憂起ちゃんは夕日を見ている。
瑠倫ちゃんも見る。
食べる。
「美味しいですか?」
「うむ」
「何味です?」
瑠倫ちゃんが止まった。
サンドイッチを見る。
「……なんじゃろ」
「分からないんですか?」
「食べたことない味じゃ」
「ちょっと気になります」
「食えんのが惜しいのう」
「はい」
瑠倫ちゃんはもう一口食べた。
考える。
「甘くはない」
「はい」
「辛くもない」
「はい」
「魚っぽい」
「魚」
「でも肉でもある」
「どっちです?」
「分からん」
憂起ちゃんが少し笑った。
「説明、下手ですね」
「食わせた方が早いからのう」
言ってから。
瑠倫ちゃんが止まった。
憂起ちゃんも黙る。
一秒。
二秒。
瑠倫ちゃんが頭を掻いた。
「すまん」
「いいですよ」
憂起ちゃんは夕日を見る。
「想像します」
瑠倫ちゃんも見る。
それから。
少し考えて。
サンドイッチの写真を撮った。
ぱしゃ。
「それ、何のためです?」
「百年後」
「味は写らないですよ」
「知っとる」
「じゃあ」
瑠倫ちゃんは写真を確認した。
サンドイッチ。
夕焼け。
写真の端に。
憂起ちゃんの腕が薄く写っている。
「今日ここで、憂起ちゃんが食べられんかったことは写る」
憂起ちゃんが写真を見る。
「それ、残すんですか?」
「残す」
「なんで?」
瑠倫ちゃんは少し考えた。
「行った場所だけ残しても、旅にならんからのう」
憂起ちゃんは黙った。
そして。
「じゃあ」
瑠倫ちゃんを見る。
「私がいなくなっても残りますね」
風が吹いた。
瑠倫ちゃんは写真から目を上げる。
憂起ちゃんの輪郭が。
夕日の中で。
少し薄い。
いつものこと。
「残すぞ」
「そうですか」
「百年後に見せる約束じゃろ」
憂起ちゃんが少し笑った。
「いたら」
「おるおる」
「分からないですよ」
「では」
瑠倫ちゃんは写真の裏へ書いた。
『憂起ちゃんと。食べられなかったサンドイッチ』
憂起ちゃんが覗く。
「そこまで書かなくても」
「忘れるからの」
「瑠倫ちゃんが?」
「わしが」
「じゃあ仕方ないですね」
「仕方ない」
瑠倫ちゃんは写真をしまった。
雲の下。
遠くで灯りが一つ点く。
さらに一つ。
夜が来る。
憂起ちゃんは手ぶらのまま。
瑠倫ちゃんは今日も荷物だらけ。
二人とも。
同じところまで来た。
同じものを見た。
できたことは。
全然違った。
それでも。
帰る時だけは一緒だった。
「憂起よ」
「はい」
「帰るか」
「はい」
瑠倫ちゃんが立つ。
憂起ちゃんも立つ。
「掴まれんよな」
「たぶん抜けます」
「では歩くか」
「遠いですよ」
「今日はそれでよい」
二人は屋根を降りた。
瑠倫ちゃんは空中歩行靴で。
憂起ちゃんは。
何も履かずに。
雲の向こうへ歩いていった。




