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第四話「まだ名前のない場所」


「できたぞ」


渾沌ちゃんは嫌な予感で目を覚ました。


休憩室。


朝。


机。


頬の下に、畳んだエプロン。


窓の外では配送車がバックしている。


ぴー、ぴー、ぴー。


正常。


平和。


そして。


机の向こうに瑠倫ちゃんがいた。


背負っている。


大きなリュックを。


本人より大きい。


「何が?」


「行き先」


「決まったの?」


「うむ」


渾沌ちゃんは起き上がった。


昨日。


湖。


階段。


逆さまの水。


自分たちより先回りして写真を撮る、知らない誰か。


最後に残された、


『次はそっちが先に来て』


という言葉。


それに対して瑠倫ちゃんは言った。


まだ決まっていない場所へ、先に行く。


「どこ?」


「まだない」


「決まってないじゃん」


「場所は決まった」


「まだないんでしょ?」


「そうじゃ」


「……朝から難しいこと言わないで」


瑠倫ちゃんはリュックを床へ下ろした。


どん。


机が揺れた。


渾沌ちゃんの頬についていたレシートが一枚、床へ落ちる。


「ここじゃ」


地図を広げた。


海だった。


青い。


以上。


島もない。


航路もない。


地名もない。


ただ海。


瑠倫ちゃんの指は、その真ん中を押さえていた。


「何もないよ」


「今はの」


「今は?」


「昨日の夜、海底で火山が動き始めた」


渾沌ちゃんは地図を見る。


瑠倫ちゃんを見る。


リュックを見る。


「もしかして」


「島ができる」


「そこへ行くの?」


「うむ」


「できてから?」


「いや」


瑠倫ちゃんが笑った。


「できる前に」


     *


海は黒かった。


空も黒かった。


昼なのに。


雲ではない。


噴煙だった。


海面から何百メートルも向こうで、灰色の柱が空へ立ち上がっている。


その根元で海が膨らむ。


落ちる。


また膨らむ。


ごう、と腹に響く音。


少し遅れて、水面が足元まで持ち上がった。


「これ!」


渾沌ちゃんは叫んだ。


「観光する場所じゃないよ!」


「まだ観光地じゃないからのう」


瑠倫ちゃんは小舟の先端に立っていた。


「これからじゃ」


「そういう意味じゃない!」


また海が持ち上がる。


船底が水を叩く。


渾沌ちゃんは縁へしがみついた。


瑠倫ちゃんは双眼鏡を覗いている。


「お」


「何!?」


「出た」


海の向こう。


黒いものが見えた。


最初は波かと思った。


違う。


波に沈まない。


岩。


黒い岩が、海面から頭を出している。


その周囲で水蒸気が爆発した。


白。


灰色。


黒。


熱で景色が歪む。


「島?」


「まだ岩じゃな」


「じゃあ近づかないよね?」


瑠倫ちゃんが双眼鏡を下ろした。


「なぜ?」


渾沌ちゃんは無言で噴火を指した。


どん。


ちょうど爆発した。


赤い塊が空へ飛んだ。


海へ落ちる。


じゅう、と白煙が広がる。


瑠倫ちゃんは少し考えた。


「熱いから?」


「全部だよ!」


「では熱くなければよいな」


リュックを開けた。


「そういう問題じゃ」


瑠倫ちゃんが銀色の外套を取り出した。


「あるんだ……」


「火口を見に行く時のじゃ」


「火口を見に行く時があるんだ……」


もう一枚。


渾沌ちゃん用。


「着る?」


「着ない」


「そうか」


「行かないからね」


「そうか」


瑠倫ちゃんは外套を着た。


船の縁へ片足を掛ける。


「待って」


「なんじゃ?」


「一人で行くの?」


「渾沌ちゃんは行かんのじゃろ?」


正しい。


ものすごく正しい。


瑠倫ちゃんは海を見る。


渾沌ちゃんも見る。


また黒い岩が増えていた。


今、生まれている。


誰も踏んでいない。


地図にもない。


名前もない。


写真にもない。


たぶん。


「……写真」


「うむ?」


「撮るんでしょ?」


「もちろん」


瑠倫ちゃんがカメラを叩く。


「最初の一枚じゃ」


それは。


ちょっと。


見たい。


渾沌ちゃんは銀色の外套を奪った。


「絶対助けてね」


「任せろ」


「昨日みたいに『せっかくじゃろ』は禁止」


「善処する」


「禁止!」


「分かった分かった」


瑠倫ちゃんが笑った。


     *


上陸はできなかった。


正確には。


上陸できる場所が、まだなかった。


黒い岩へ近づく。


波が被る。


消える。


別の場所が盛り上がる。


割れる。


赤い光。


固まる。


崩れる。


島そのものが、まだ島になる途中だった。


瑠倫ちゃんは空を飛んでいる。


渾沌ちゃんはその背中へしがみついていた。


「下ろさないでよ!」


「まだ地面がないからのう」


熱い。


外套の内側は涼しい。


なのに顔へ当たる空気だけで、そこにある熱量が分かる。


硫黄の匂い。


海水。


灰。


喉の奥がざらつく。


瑠倫ちゃんが高度を上げた。


「ほれ」


下。


海の中に赤い線が走っている。


黒い海底が割れ、その奥で光っている。


そこから新しい岩が押し上がる。


海がそれを冷やす。


砕く。


それでも、また出てくる。


渾沌ちゃんは言葉を忘れた。


島がある。


ではない。


島になる。


その瞬間が、眼下で続いている。


瑠倫ちゃんがカメラを構えた。


ぱしゃ。


ぱしゃ。


「渾沌ちゃん」


「なに?」


「そこ、指差してみ」


「なんで?」


「記念じゃ」


「今!?」


「今しかないぞ」


それはずるい。


渾沌ちゃんは下を指差した。


ぱしゃ。


その直後。


指差していた場所が爆発した。


「わあああっ!」


瑠倫ちゃんが横へ飛ぶ。


赤い岩が、さっきまで二人のいた場所を通過する。


海へ落ちる。


「危なっ!」


「ほっほ!」


「笑うところ!?」


「よい写真になった」


「見せて!」


飛びながら確認する。


画面。


渾沌ちゃんが得意げに海を指差している。


その真下。


噴火。


「すごい!」


「じゃろ?」


「でもこれ私が噴火させたみたい!」


「そういうことにしとくか」


「しないで!」


瑠倫ちゃんが笑う。


その時だった。


音が変わった。


低い。


長い。


海の下から。


瑠倫ちゃんの笑顔が消えた。


「掴まっとれ」


「え?」


一瞬。


世界が後ろへ吹き飛んだ。


さっきまでいた場所。


海が盛り上がる。


黒い壁になる。


その中央から、赤い岩盤が突き出した。


一つ。


二つ。


三つ。


水蒸気が視界を覆う。


瑠倫ちゃんはさらに離れた。


渾沌ちゃんは腕に力を入れる。


白煙が風に裂けた。


そこに。


あった。


さっきまでなかったもの。


海の上へ残った、黒い地面。


波が来る。


沈まない。


次の波。


残る。


瑠倫ちゃんがじっと見ている。


「……できた?」


「たぶんの」


「島?」


「まだ小さいが」


瑠倫ちゃんは高度を下げた。


「待って待って」


「なんじゃ?」


「熱くない?」


「熱いぞ」


「じゃあ駄目じゃん!」


「靴がある」


「何の!?」


瑠倫ちゃんが袋から靴を出した。


黄色い。


長靴。


「耐熱」


「本当に?」


「たしか」


「『たしか』!?」


瑠倫ちゃんが片方を岩へ投げた。


落ちる。


黄色い長靴。


じゅっ。


煙。


二人で見る。


十秒。


二十秒。


燃えない。


「ほれ」


「確認方法が雑!」


「確認できたじゃろ」


反論できない。


     *


最初に降りたのは、長靴だった。


次に瑠倫ちゃん。


最後に渾沌ちゃん。


黒い地面。


まだ湯気が立っている。


波打ち際という言葉すら似合わない。


海と岩の境目が、数秒ごとに形を変えている。


渾沌ちゃんは瑠倫ちゃんの腕を掴んだまま、一歩だけ進んだ。


足裏へ熱が来る。


長靴越しでも分かる。


「……すご」


瑠倫ちゃんは返事をしなかった。


カメラを構えている。


ぱしゃ。


海。


ぱしゃ。


岩。


ぱしゃ。


湯気。


ぱしゃ。


渾沌ちゃん。


「また撮った!」


「今しか撮れん」


「そればっかり!」


「本当じゃからの」


瑠倫ちゃんがしゃがんだ。


黒い地面へ手を近づける。


触らない。


熱だけ確かめる。


「名前、何になるんだろ」


「知らん」


「国とかが決めるのかな」


「そのうち誰か決めるじゃろ」


「瑠倫ちゃんが最初に来たなら、つけてもいいんじゃない?」


瑠倫ちゃんは立ち上がった。


「いらん」


「なんで?」


「名前をつけに来たんじゃないからの」


カメラを肩へ掛ける。


「来たかっただけじゃ」


波。


白い泡が黒い岩を撫でて戻る。


それだけだった。


渾沌ちゃんは少し笑った。


「じゃあ、勝ち?」


「何が?」


「昨日の人より先に来たんでしょ?」


瑠倫ちゃんが止まった。


「ああ」


忘れていた顔だった。


「忘れてたの!?」


「景色が面白かったからのう」


「それ目的だったじゃん!」


瑠倫ちゃんは笑いながらカメラを開いた。


撮った写真を確認する。


一枚。


二枚。


三枚。


噴火。


海底。


渾沌ちゃん。


島。


「お」


手が止まった。


「何?」


瑠倫ちゃんが画面を見ている。


「いた?」


渾沌ちゃんも覗き込む。


写真。


今の島。


湯気。


海。


二人。


それだけ。


知らない顔はいない。


「……いないね」


「おらんのう」


次。


いない。


次。


いない。


全部。


二人だけ。


渾沌ちゃんは胸の奥に溜めていたものを、少し吐いた。


「勝った?」


瑠倫ちゃんは答えなかった。


代わりに。


リュックを下ろした。


「何するの?」


「昼」


「ここで!?」


「昼じゃからな」


出てきたのは、小さな箱。


開ける。


サンドイッチ。


第一話で落下しながら食べていたものとよく似ている。


「またそれ?」


「食うか?」


「食べる」


二人で座った。


地面は熱いので、耐熱シートも出した。


「それも持ってるんだ」


「座るからの」


「長靴より先に出してよ」


「座る前に出したじゃろ」


「そうだけど」


海を見る。


島はまだ小さい。


本当に小さい。


パンデモニウムの客席より狭いかもしれない。


その端で、また岩が崩れた。


波に持っていかれる。


反対側では新しい岩が盛り上がる。


食べている間にも、場所が変わっていく。


渾沌ちゃんはサンドイッチを半分食べたところで気づいた。


「瑠倫ちゃん」


「なんじゃ?」


「ここ、お気に入りに入れるの?」


「うむ」


「でも島なくなったら?」


「なくなるかもしれんのう」


「じゃあ転移したらどうなるの?」


瑠倫ちゃんの手が止まった。


サンドイッチ。


海。


カメラ。


海。


「……試してみたいのう」


「今じゃないよ」


「分かっとる」


本当に分かっているか怪しい。


食べ終わる。


瑠倫ちゃんは写真を一枚選んだ。


二人が島に立っている写真。


その裏へ書く。


『まだ名前なし』


そして。


岩の隙間へ挟んだ。


渾沌ちゃんは見た。


「置いてくの?」


「うむ」


「写真庫に入れないの?」


「同じのがもう一枚ある」


「そうじゃなくて」


渾沌ちゃんは写真を見る。


「昨日の人に?」


瑠倫ちゃんは少し考えた。


「来るならの」


「先に来られたって言うため?」


「いや」


瑠倫ちゃんは立ち上がった。


リュックを背負う。


「せっかくじゃから見せてやろうと思って」


渾沌ちゃんも立つ。


「勝負じゃなかったの?」


「昨日は勝負じゃった」


「今日は?」


瑠倫ちゃんは海を見る。


また噴煙。


また新しい岩。


その向こうには、何もない水平線。


「観光じゃ」


当然のように言った。


     *


一週間後。


瑠倫ちゃんは一人で戻った。


島は大きくなっていた。


黒い地面が広がっている。


もう耐熱長靴はいらない。


海鳥が一羽、岩の上にいた。


「ほっほ」


瑠倫ちゃんはカメラを構えた。


ぱしゃ。


それから。


以前、写真を挟んだ岩へ向かう。


写真はなかった。


代わりに。


一枚。


別の写真が挟まっていた。


瑠倫ちゃんが抜く。


写っていたのは。


何もない海だった。


島が生まれる前。


青い海。


雲。


水平線。


そして写真の隅に、小さな文字。


『先に見てた』


瑠倫ちゃんはしばらく黙っていた。


波が来る。


引く。


海鳥が鳴く。


やがて。


「負けたのう」


笑った。


写真を裏返す。


裏には、もう一行。


『でも、そっちの写真の方が楽しそう』


瑠倫ちゃんの指が止まった。


もう一度読む。


海を見る。


島を見る。


誰もいない。


「……そうじゃろ?」


誰にともなく言った。


カメラを持ち上げる。


ぱしゃ。


二枚目。


ぱしゃ。


三枚目。


海鳥が飛び立つ。


瑠倫ちゃんはそれも撮った。


勝ったかどうかは、もうどうでもよかった。


写真庫へ帰れば。


あの日の島には、


渾沌ちゃんがいる。


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