第三話「先に行っていた」
写真の中の顔は、笑っていた。
渾沌ちゃんは写真を机へ置いた。
裏返す。
表に戻す。
もう一度、裏返す。
何も書いていない。
表に戻す。
やっぱりいる。
夕暮れの湖。
湖畔を逃げる小さな瑠倫ちゃん。
それを追いかける自分。
その遥か後ろ。
水面から、顔だけ出している誰か。
「……瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「これ」
「うむ」
「誰?」
「知らん」
瑠倫ちゃんはサンドイッチを食べていた。
「知らない人が写ってるんだけど」
「写っとるのう」
「怖くない?」
「なぜじゃ?」
「知らない人が!」
「知らない人は、だいたい知らない人じゃぞ」
「そうだけど!」
パンデモニウムの休憩室。
窓の外は朝だった。
冷蔵庫。
換気扇。
遠くのフライヤー。
誰かが食器を重ねる音。
机の上の写真だけが、昨日の夕暮れを閉じ込めている。
渾沌ちゃんは顔を近づけた。
長い髪。
顔の半分は水中。
こちらを見ている。
「これ、私たち見てない?」
「カメラかもしれん」
「どっちでも怖いよ」
「では聞いてみるか」
「誰に?」
瑠倫ちゃんはもう立っていた。
「本人に」
「待って」
肩を掴まれた。
「待って待って待って!」
景色が消えた。
*
朝の湖は霧の中だった。
「せめて準備してから来ようよ!」
「したぞ」
瑠倫ちゃんが白い腕輪を二つ見せた。
昨日、最後の最後になって袋から発掘された水中呼吸装備。
「今日は覚えてたんだ」
「失敬な」
一つを渾沌ちゃんへ投げる。
腕につけると、白い線が淡く光った。
「どれくらい使えるの?」
「海を一つ渡った時は切れんかった」
「最初からこれ使えばよかったじゃん!」
「昨日は忘れとったから仕方ない」
「仕方なくない!」
瑠倫ちゃんは写真と湖岸を見比べた。
数歩右。
一歩後ろ。
しゃがむ。
「ここじゃな」
写真が撮られた場所。
そこから湖を見る。
霧。
水面。
鳥。
誰もいない。
一分。
二分。
瑠倫ちゃんは待った。
珍しく何もしない。
三分。
渾沌ちゃんが耐えきれなくなった。
「いないね」
「条件が違うからのう」
「条件?」
瑠倫ちゃんが写真を示す。
夕暮れ。
そして今の空を見る。
朝。
「夕方まで待つ?」
「それでもよいが」
袋を漁る。
赤い液体の入った瓶。
「夕方を持ってきた方が早い」
「何それ」
「夕焼け」
「夕焼けって持ち歩けるの!?」
「持っとるから持ち歩けるんじゃろ」
栓を抜く。
ぽん。
赤い煙が空へ昇った。
湖の上だけが橙色へ変わる。
霧が赤く染まる。
朝日とは反対側から、長い影が伸びた。
「世界、怒らない?」
「怒ったら謝る」
「それでいいの?」
「たぶん」
水面が揺れた。
二人とも黙った。
波紋。
一つ。
二つ。
写真と同じ場所から。
髪。
額。
目。
顔。
誰かが水面からこちらを見ていた。
「いる」
「おるな」
瑠倫ちゃんが手を振った。
「おーい」
「普通に話しかけるんだ……」
相手は答えない。
瑠倫ちゃんが右へ動く。
相手も右。
左。
左。
しゃがむ。
沈む。
立つ。
出る。
瑠倫ちゃんが両手を上げた。
相手も上げた。
片足立ち。
相手の身体が傾いた。
一回転。
向こうも水面で回る。
「遊ばないで!」
「返してくれるからのう」
瑠倫ちゃんがカメラを構えた。
相手も。
何かを構えた。
黒い箱。
レンズ。
「……カメラ?」
「ほっほ」
ぱしゃ。
向こうでも光った。
ぱしゃ。
瑠倫ちゃんが笑った。
「写真好きじゃな」
その瞬間。
相手が沈んだ。
「行った!」
「うむ」
瑠倫ちゃんも湖へ飛び込む。
渾沌ちゃんが続く。
*
速かった。
知らない誰かは水中を滑るように進む。
瑠倫ちゃんが追う。
追いつく。
相手が加速する。
瑠倫ちゃんも加速する。
相手が岩陰へ消える。
瑠倫ちゃんも消える。
次の瞬間。
瑠倫ちゃんだけ戻ってきた。
「階段じゃ」
湖底。
四角い穴。
昨日の階段。
二人で降りる。
十段。
五十段。
百段。
『ここから先、近道なし』
昨日と同じ文字がある。
その下。
昨日はなかった。
細い傷。
『それでも来る?』
渾沌ちゃんは足を止めた。
「これ……」
「増えとるな」
瑠倫ちゃんはしゃがんだ。
指先で傷をなぞる。
新しい。
石の粉がまだ残っている。
「さっきの人?」
「じゃろうな」
「どうする?」
瑠倫ちゃんは立ち上がった。
下を見る。
暗い。
長い。
昨日はここで引き返した。
「もちろん行く」
一段降りる。
「近道なしって書いてあるよ」
「そうじゃな」
二段。
三段。
「瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「歩くの?」
「今日はの」
*
二十分後。
「長い!」
渾沌ちゃんが叫んだ。
「長いのう」
「瑠倫ちゃん、昨日十二分って言ってなかった!?」
「壁を走ればな」
「走ってよ!」
「近道なしじゃぞ」
「急に律儀!」
瑠倫ちゃんは楽しそうだった。
さらに下。
壁が変わった。
石ではなくなる。
透明。
向こうに水がある。
巨大な魚が泳いでいる。
そのさらに向こう。
逆さまの階段。
天井へ向かって降りている。
「何あれ」
「階段じゃな」
「向きがおかしいよ」
「こちらから見ればの」
その階段に。
誰かが立っていた。
湖にいた人物。
透明な壁一枚を挟んで、こちらを見る。
カメラを持っている。
瑠倫ちゃんもカメラを構えた。
ぱしゃ。
向こうも。
ぱしゃ。
相手が写真を取り出す。
裏へ何か書く。
壁へ押しつけた。
『初対面』
瑠倫ちゃんも写真へ書く。
『どこから来た?』
向こうが読む。
書く。
『そっち』
「そっち?」
渾沌ちゃんが呟いた。
相手はもう一枚の写真を出した。
古い。
色褪せている。
そこに写っていたのは。
湖。
そして瑠倫ちゃんだった。
一人。
写真の裏。
『また来たね』
渾沌ちゃんが隣を見る。
「来たことある?」
「覚えがないのう」
瑠倫ちゃんは写真をじっと見た。
相手が離れる。
逆さまの階段へ向かう。
「待って!」
渾沌ちゃんが透明な壁を叩いた。
相手は振り返らない。
瑠倫ちゃんが袋へ手を入れた。
渾沌ちゃんが身構える。
「爆破は駄目だよ」
「せんぞ」
「本当に?」
「写真が燃えるかもしれん」
「そこ?」
瑠倫ちゃんが消えた。
「え」
透明な壁の向こう。
相手の隣に。
瑠倫ちゃんが立っていた。
「…………」
渾沌ちゃんは壁を見る。
向こうを見る。
もう一度壁を見る。
「行けるの!?」
瑠倫ちゃんが壁の向こうから手を振った。
「行けるぞー」
「じゃあ今までの何だったの!?」
「階段」
「そうじゃなくて!」
相手も驚いていた。
初めて表情が崩れた。
瑠倫ちゃんがその顔を撮った。
ぱしゃ。
相手が逃げる。
逆さまの階段を駆け上がる。
いや。
こちらから見ると上。
向こうでは下なのかもしれない。
瑠倫ちゃんが追う。
相手が角を曲がる。
瑠倫ちゃんも。
消える。
三秒後。
渾沌ちゃんの横から声がした。
「おったぞ」
「わあっ!?」
瑠倫ちゃんが戻っている。
「なんで戻ってくるの!」
「渾沌ちゃん置いてきたからの」
「……あ」
瑠倫ちゃんは透明な壁の向こうを見る。
相手はもういない。
「追わなくていいの?」
「場所は分かった」
「場所?」
瑠倫ちゃんがこめかみを指で叩く。
「お気に入りに入れた」
「じゃあいつでも行けるの?」
「うむ」
渾沌ちゃんは透明な壁を見た。
「私も?」
「連れていけるぞ」
「じゃあ行こうよ!」
「よし」
肩を掴まれた。
景色が裏返った。
*
足元に水があった。
ただし落ちない。
水面の上に立っている。
いや。
天井が水なのか。
下にも水がある。
左右にも。
階段だけが、その間を縫って伸びている。
「ここ……」
「さっきの向こう側じゃ」
瑠倫ちゃんが歩き始める。
「ほれ」
壁の向こう。
さっきまで二人がいた場所が見える。
誰もいない。
「すご……」
渾沌ちゃんは透明な境界へ手を当てた。
反対側から見れば、そこは壁ですらなかった。
ただ水が縦に流れている。
「どうなってるの?」
「知らん」
「瑠倫ちゃんでも?」
「知らんから見に来たんじゃろ」
もっともだった。
先へ進む。
階段。
水。
階段。
途中で上下が入れ替わる。
渾沌ちゃんは転びそうになる。
瑠倫ちゃんは普通に歩く。
「なんで平気なの?」
「慣れじゃ」
「何に!?」
「こういうの」
答えになっている気がするのが嫌だった。
やがて。
階段の途中に写真が落ちていた。
一枚。
瑠倫ちゃんが拾う。
二人で見る。
写真には。
今の二人が写っていた。
階段を歩いている。
後ろから。
渾沌ちゃんが振り返る。
誰もいない。
「さっきの人?」
「じゃろうな」
次の踊り場。
また一枚。
今度は少し先から。
その次。
一枚。
横から。
さらに。
一枚。
上から。
写真が道標のように落ちている。
「誘導されてない?」
「されとるな」
「行くの?」
「もちろん」
「罠だったら?」
「罠も見たい」
「それは分かってた」
写真を辿る。
最後の一枚は、扉の前にあった。
小さな木の扉。
瑠倫ちゃんが写真を拾う。
写っている。
扉の前に立つ二人。
まだ二人は扉の前へ立っていない。
「……これ」
渾沌ちゃんが言う。
「今から撮られる写真?」
瑠倫ちゃんは扉を見る。
上を見る。
左右を見る。
誰もいない。
「そうかもしれん」
「やめる?」
「なぜ?」
瑠倫ちゃんは写真と同じ場所へ立った。
渾沌ちゃんを見る。
「ほれ」
「私も!?」
「せっかくじゃろ」
渾沌ちゃんは嫌々隣へ立つ。
その瞬間。
ぱしゃ。
背後。
二人が振り返る。
誰もいない。
足元を見る。
新しい写真が落ちていた。
今撮られた二人。
瑠倫ちゃんが拾う。
裏返す。
文字。
『遅かったね』
渾沌ちゃんの顔が引きつった。
瑠倫ちゃんは。
笑った。
「先に行かれとる」
「何が嬉しいの!?」
「わしより先に行く奴は久しぶりじゃ」
扉を開けた。
*
そこは湖畔だった。
「え?」
渾沌ちゃんが止まる。
最初の湖。
朝。
霧。
二人が出発した場所。
「戻ってきた?」
「そう見えるのう」
瑠倫ちゃんは周囲を見る。
誰もいない。
机もない。
パンデモニウムもない。
ただ湖。
そして岸辺に。
写真が一枚。
瑠倫ちゃんが拾った。
昨日の写真だった。
夕暮れ。
走る渾沌ちゃん。
逃げる瑠倫ちゃん。
湖面から顔を出す誰か。
同じ写真。
ただし。
裏に文字が増えている。
『次はそっちが先に来て』
渾沌ちゃんが読む。
「どういう意味?」
瑠倫ちゃんは湖を見る。
霧の向こう。
水面。
階段はその下。
けれど今度は潜らない。
写真をカメラへ挟む。
「簡単じゃ」
「何が?」
「待っておるんじゃろ」
「どこで?」
瑠倫ちゃんは笑った。
「まだ決めてない場所で」
渾沌ちゃんは黙った。
「そんな場所に行けるの?」
「行ってから決めればよい」
「そんなのあり!?」
瑠倫ちゃんはカメラを肩へ掛けた。
「場所は行くものじゃ」
一歩。
湖へ向かう。
「まだないなら」
二歩。
「最初に行った者が見つければよい」
渾沌ちゃんは嫌な予感がした。
今日いちばん大きいやつだった。
「瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「今、どこ行こうとしてる?」
瑠倫ちゃんは少し考えた。
「知らん」
そして。
とても楽しそうに笑った。
「じゃから、先に行ってくる」




