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第二話「下へ行く階段」


水中装備は、服ではなかった。


渾沌ちゃんは倉庫の床に置かれたそれを見下ろした。


「……これ?」


「これじゃ」


「これを着るの?」


「着るというか、被る」


透明な球体だった。


頭が一つ入るくらいの大きさで、底に金色の輪がついている。


瑠倫ちゃんが持ち上げる。


ころん。


中から飴玉が一つ落ちた。


「なんで飴入ってるの」


「昔の私じゃろ」


「知らないよ」


瑠倫ちゃんは球体を渾沌ちゃんの頭へ被せた。


首元で輪が閉じる。


息を吸う。


普通に吸えた。


「お」


「便利じゃろ」


「これなら湖の底まで」


「三十分」


「え?」


「空気」


瑠倫ちゃんが指を三本立てた。


「三十分でなくなる」


渾沌ちゃんは球体を外した。


「もっといいのないの!?」


「あるぞ」


「あるんだ!?」


「でも、どこじゃったかのう」


倉庫を見る。


棚。


棚。


棚。


奥の見えない棚。


渾沌ちゃんは球体を被り直した。


「三十分で行こう」


「うむ」


瑠倫ちゃんは満足そうに頷いた。


     *


湖へ戻ると、夕方になっていた。


さっきまで真上にあった太陽が山の向こうへ傾き、水面を橙色に染めている。


「時間経ってない?」


「倉庫で三時間くらい探したからの」


「そんなに!?」


渾沌ちゃんの感覚では二十分ほどだった。


「倉庫、時計を置くと全部ずれるんじゃ」


「何それ」


「面白いじゃろ」


「怖いよ」


瑠倫ちゃんは答えず、湖へ飛び込んだ。


水飛沫。


次に顔を出した時には、もうマグロだった。


渾沌ちゃんは黙る。


マグロがこちらを見る。


「私どうやってついていくの」


瑠倫ちゃんが人間へ戻った。


「忘れとった」


「忘れないで!」


「ではこれじゃな」


倉庫から持ってきた袋を探る。


縄。


瓶。


小さな旗。


柄だけの剣。


銀色の靴。


「あ、それまた持ってきたの?」


「何かに使えるかもしれん」


「壁を走る靴でしょ?」


「そうとも限らん」


「自分で言ってたじゃん!」


瑠倫ちゃんが一本の棒を取り出した。


先端に輪。


反対側に革紐。


「これにつかまれ」


「何?」


「マグロ用」


「そんな道具ある!?」


「作った」


嫌だった。


非常に嫌だった。


しかし湖底の階段は見たい。


かなり見たい。


渾沌ちゃんは棒を握った。


瑠倫ちゃんがマグロになる。


革紐を尾に巻く。


渾沌ちゃんは湖を見た。


「ゆっくりね」


マグロが頷いた。


「本当にゆっくりね」


もう一度頷いた。


「瑠倫ちゃん基準じゃなくて、私基準で」


三度目。


頷いた。


三秒後。


湖が爆発した。


     *


速い。


水が痛い。


景色が全部後ろへ飛んでいく。


渾沌ちゃんは棒へ両腕でしがみついていた。


球体の中で叫ぶ。


「速い速い速い速い!」


マグロが振り返る。


速度が落ちる。


ほんの少し。


「もっと!」


また落ちる。


ようやく湖底が見えた。


白い砂。


水草。


沈んだ木。


魚の群れ。


その下を二人の影が走っていく。


渾沌ちゃんは息を呑んだ。


綺麗だった。


水面から差し込む夕日が、何本もの橙色の柱になって湖底へ刺さっている。


魚がその間を横切るたび、鱗が一瞬だけ金色になる。


瑠倫ちゃんが速度を落とした。


渾沌ちゃんの横を泳ぐ。


今度は人間の姿だった。


「綺麗じゃろ」


声は聞こえない。


口の動きだけで分かった。


渾沌ちゃんは頷いた。


瑠倫ちゃんは満足そうに笑う。


それから、下を指した。


階段があった。


湖底から。


真下へ。


石造りの階段だった。


砂の中に四角い穴が開いている。


手すりもない。


扉もない。


ただ、階段だけが暗い穴の中へ続いている。


水も入っている。


瑠倫ちゃんが降りる。


渾沌ちゃんも続いた。


一段。


二段。


十段。


二十段。


水面の光が遠ざかる。


暗くなる。


瑠倫ちゃんが小さなランタンを取り出した。


水中で点いた。


「それ何!?」


思わず言った。


ごぼごぼ。


瑠倫ちゃんが振り返る。


笑う。


さらに降りる。


五十段。


百段。


まだ続く。


渾沌ちゃんは球体の横についた小さな計器を見た。


空気。


残り二十二分。


「瑠倫ちゃん」


聞こえない。


肩を叩こうとして追いつく。


瑠倫ちゃんが止まった。


渾沌ちゃんは計器を指した。


二十二。


瑠倫ちゃんは頷く。


そして階段の下を見る。


まだ暗い。


袋を探る。


小瓶。


縄。


銀色の靴。


柄だけの剣。


飴。


渾沌ちゃんは嫌な予感がした。


瑠倫ちゃんが銀色の靴を履いた。


「なんで!?」


瑠倫ちゃんは階段の横の壁へ足を置いた。


そのまま。


走った。


下へ。


壁を。


「本当に壁走るやつだった!」


姿が暗闇へ消える。


三秒。


戻ってきた。


今度は壁を上へ走ってくる。


渾沌ちゃんの前で止まった。


親指を立てる。


どうやら使えたらしい。


そして下を指差した。


指を五本。


もう一度五本。


さらに二本。


十二。


何が十二。


分からない。


瑠倫ちゃんは考える。


渾沌ちゃんの球体を指す。


空気計。


それから下。


十二。


「十二分?」


頷く。


行ける。


残り二十二分。


下まで十二分なら、往復二十四分。


行けない。


渾沌ちゃんは首を横へ振った。


瑠倫ちゃんも計算したらしい。


首を傾げる。


袋を探る。


またか。


出てきたのは小さな青い瓶だった。


ラベル。


『水中呼吸』


渾沌ちゃんは目を見開いた。


あるじゃん。


瑠倫ちゃんも瓶を見る。


渾沌ちゃんを見る。


瓶を見る。


気まずそうな顔をした。


「最初からそれ出してよ!」


泡が大量に出た。


瑠倫ちゃんが瓶を渡そうとする。


渾沌ちゃんが受け取る。


蓋を開ける。


空だった。


二人で瓶を見た。


瑠倫ちゃんが逆さに振る。


一滴。


終わり。


渾沌ちゃんは瑠倫ちゃんを睨んだ。


瑠倫ちゃんは瓶をしまった。


     *


戻るべきだった。


普通なら。


瑠倫ちゃんもそれは分かっていた。


渾沌ちゃんの空気は残り二十分。


下まで十二分。


往復では足りない。


瑠倫ちゃん一人なら問題ない。


水中形態になれば呼吸はいらない。


高速ならもっと早い。


だから一人で見て戻る。


それが一番合理的だった。


瑠倫ちゃんは下を見た。


それから渾沌ちゃんを見る。


指で上を示す。


帰る。


渾沌ちゃんも頷いた。


二人で階段を上がり始める。


一段。


二段。


三段。


渾沌ちゃんが止まった。


壁に何かある。


文字だった。


苔を手で払う。


古い彫り込み。


『ここから先、近道なし』


渾沌ちゃんは瑠倫ちゃんを見た。


瑠倫ちゃんも見ていた。


目が輝いていた。


まずい。


非常にまずい。


瑠倫ちゃんが文字を指す。


下を指す。


「行かないよ!」


ごぼごぼごぼ。


瑠倫ちゃんは笑った。


しかし下へは行かなかった。


代わりに写真を撮った。


一枚。


二枚。


三枚。


文字の横に渾沌ちゃんを立たせようとする。


「記念撮影しない!」


結局撮られた。


     *


湖畔へ戻った。


渾沌ちゃんが球体を外す。


空気。


残り十一分。


「余裕じゃったな」


「何が余裕なの!」


「十一分も余った」


「十一分しかだよ!」


瑠倫ちゃんは焚き火の跡へ座った。


濡れた袋を開く。


写真を取り出す。


さっき撮ったものだった。


『ここから先、近道なし』


その横で渾沌ちゃんがものすごく嫌そうな顔をしている。


「いい写真じゃ」


「消して」


「嫌じゃ」


瑠倫ちゃんは裏へ何か書いた。


渾沌ちゃんが覗く。


『近道なし 渾沌ちゃんと』


「それ写真庫に入れるの?」


「もちろん」


「嫌なんだけど」


「百年くらいしたら良い思い出になる」


「百年待たないと駄目なの!?」


瑠倫ちゃんは笑った。


それから湖を見る。


夕日はもう沈みかけていた。


山の端が赤い。


湖面には細い光だけが残っている。


「明日、また来るか」


渾沌ちゃんは答えなかった。


行きたくない。


階段。


暗い水。


残り空気。


空瓶。


全部嫌だ。


でも。


『ここから先、近道なし』


その先が気になる。


非常に。


「……ちゃんとした水中装備があるなら」


「あるぞ」


「絶対?」


「たぶん」


「確認してから来て」


「うむ」


瑠倫ちゃんは立ち上がった。


「では今から探すか」


「今から?」


「明日までには見つかるじゃろ」


倉庫へ転移しようとして。


瑠倫ちゃんが止まった。


「あ」


「何?」


「そういえば」


袋から何かを取り出した。


白い腕輪。


二つ。


「これ、二人用の水中呼吸じゃった」


沈黙。


湖の水音。


遠くで鳥が鳴いた。


渾沌ちゃんは腕輪を見た。


瑠倫ちゃんを見る。


「…………」


瑠倫ちゃんは笑った。


「明日は楽じゃな」


渾沌ちゃんが飛びかかった。


瑠倫ちゃんは笑いながら逃げた。


速い。


追いつけない。


湖畔を一周。


二周。


三周。


途中で瑠倫ちゃんが小さなヒヨコみたいな姿になった。


さらに速くなった。


「それずるい!」


「フォッフォッフォッ!」


夕暮れの湖畔を、小さな影が猛烈な速度で走っていく。


渾沌ちゃんがその後ろを追う。


誰も階段を降りていない。


何も解決していない。


目的地にも着いていない。


それでも。


瑠倫ちゃんの写真庫には、その日だけで十三枚増えた。


最後の一枚には。


夕暮れの湖。


走る渾沌ちゃん。


そのずっと後ろ。


水面から少しだけ顔を出している、


見覚えのない誰かが写っていた。

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