第一話「近道ではない」
最初に落ちたのは、帽子だった。
次に紙袋。
最後に渾沌ちゃん。
「わあああああああああああっ!?」
空は青かった。
雲が近い。
いや、近いどころではない。
渾沌ちゃんの身体は白い雲を突き抜け、その下へ放り出された。
山脈。
森。
川。
遥か下に、青い湖。
全部が一枚の地図みたいに広がっている。
ついさっきまで立っていたバーガーショップ・パンデモニウムの休憩室は、どこにもない。
床もない。
足場もない。
ただ、落ちている。
「瑠倫ちゃああああん!?」
「おるぞー」
上から声がした。
渾沌ちゃんは落ちながら首を反らした。
いた。
瑠倫ちゃんが、いた。
正確には瑠倫ちゃんも落ちていた。
仰向けで。
両手を頭の後ろに組んで。
ずっと下にある湖を眺めながら、たいへん機嫌よく落下している。
「綺麗じゃろ?」
「そういう問題じゃないよおおお!」
「ほっほ。まだ二分くらいあるぞ」
「何が!?」
「着水まで」
遠い。
絶望的に遠い。
湖はまだ切手くらいの大きさしかない。
瑠倫ちゃんは懐から小さな黒い箱を取り出した。
蓋を開ける。
中にはサンドイッチが入っていた。
「食うか?」
「なんで持ってるの!?」
「昼じゃからな」
「今!?」
「昼じゃからのう」
瑠倫ちゃんは落ちながら食べ始めた。
渾沌ちゃんは叫ぶのをやめた。
叫んでも落下速度は変わらない。
代わりに、自分より少し下をひらひら落ちている帽子を見た。
手を伸ばす。
届かない。
すると瑠倫ちゃんが横を通り過ぎた。
「ほい」
帽子を掴む。
そのまま、上へ飛んでいった。
「えっ」
落下中だったはずなのに。
数秒後、戻ってきた。
「ほれ」
渾沌ちゃんの頭に帽子を被せる。
「瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「飛べるの?」
「飛べるぞ」
「じゃあ助けてよ!」
「嫌じゃ」
「なんで!?」
「せっかくじゃろ」
何が。
渾沌ちゃんが聞き返すより先に、湖が急速に膨らんだ。
森が森ではなくなる。
一本一本の木が見える。
湖面を走る風まで見える。
空気が轟々と耳元を削る。
青い景色だったものが、もう地面になって迫ってくる。
「瑠倫ちゃん!」
「足を閉じるんじゃぞー」
「瑠倫ちゃん!!」
青。
衝撃。
水。
身体が深く沈む。
泡が視界いっぱいに広がった。
上下が分からない。
渾沌ちゃんは必死に水を掻いた。
その横を、何か巨大なものが通過した。
魚。
マグロ。
巨大なマグロがこちらを見ていた。
「…………」
マグロは水中で器用に一回転した。
次の瞬間、消えた。
水だけが遅れて渦を巻く。
数秒後。
戻ってきた。
口に何かを咥えている。
古びた看板だった。
『遊泳禁止』
渾沌ちゃんは水中で叫んだ。
泡しか出なかった。
マグロが笑った気がした。
*
三十分後。
二人は湖畔で服を乾かしていた。
瑠倫ちゃんはもう人の姿に戻っている。
焚き火がぱちぱち鳴る。
渾沌ちゃんはその前で膝を抱えていた。
「聞いてたのと違う」
「何がじゃ?」
「『ちょっと景色のいいところ見つけたから見に行かない?』って」
「景色よかったじゃろ」
「よかったけど!」
それが悔しい。
本当によかった。
雲を抜けた瞬間に広がった湖。
遠くの山々。
落ちながら少しずつ輪郭を取り戻していった森。
最後には水面すれすれを鳥の群れが横切った。
たぶん、一生忘れない。
だから余計に腹が立つ。
「普通に連れてきてよ」
「普通?」
瑠倫ちゃんが首を傾げた。
本気で分かっていない顔だった。
「転移とか」
「したぞ」
「そうじゃなくて!」
「では次は歩くか?」
「そうして」
「三日くらいじゃな」
「転移で」
「うむ」
即答だった。
瑠倫ちゃんは焚き火の横へ、濡れた袋の中身を並べ始めた。
小瓶。
銀色の靴。
羽根のついた腕輪。
用途不明の球体。
折り畳まれた布。
どう見ても剣なのに柄しかないもの。
小さな木箱。
木箱の中から、木箱。
さらにその中から木箱。
「それ全部持ち歩いてるの?」
「これは少ない方じゃ」
「いつもは?」
「倉庫じゃ」
「倉庫?」
「うむ。倉庫」
そこで話を終わらせる声だった。
瑠倫ちゃんは銀色の靴を持ち上げて振った。
ちゃぷ。
水が出た。
「これは駄目じゃな」
「何の靴?」
「たしか壁を走るやつじゃ」
「たしか?」
「似たのが三つある」
「管理しようよ」
「しておるぞ。だいたい」
瑠倫ちゃんは靴を焚き火の横へ置いた。
渾沌ちゃんは嫌な予感がした。
こういうとき、この人は妙に静かになる。
「……瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「今日は、この湖を見るだけだよね?」
瑠倫ちゃんの手が止まった。
ほんの少しだけ。
「その予定じゃった」
「過去形?」
「水の中に妙なものがあった」
渾沌ちゃんは湖を見た。
ついさっきまであれほど綺麗だった水面が、急に底知れなく見えた。
「看板?」
「いや」
瑠倫ちゃんが立ち上がった。
まだ湿っている上着を、そのまま羽織る。
「湖底に階段があった」
「階段?」
「うむ」
「湖底から?」
「下へ続いとった」
「どこまで?」
「分からん」
「何のための階段?」
「それも分からん」
渾沌ちゃんは黙った。
瑠倫ちゃんは湖を見ていた。
目が少しだけ細くなる。
「こりゃ面白い」
その一言で嫌な予感が確定した。
「じゃから、見に行く」
「待って。私、水中装備ないよ」
「あるぞ」
「私の分も?」
「ある」
「なんで?」
「二つ拾ったからじゃ」
瑠倫ちゃんは濡れた袋へ腕を突っ込んだ。
探る。
止まる。
もう片方の腕も入れる。
底をひっくり返す。
銀色の靴がもう一足出てきた。
「お」
「水中装備?」
「壁を走る方じゃ」
「いらない!」
さらに探す。
小瓶。
縄。
さっきの柄。
何かの鍵。
硬貨。
飴。
瑠倫ちゃんの眉が寄った。
「……ないのう」
「ないじゃん!」
「倉庫じゃな」
「帰ろう!」
「取りに行けばよい」
「じゃあ取りに帰ろう!」
「そう言っとる」
瑠倫ちゃんが渾沌ちゃんの肩を掴んだ。
「あ」
景色が消えた。
*
薄暗い倉庫だった。
棚。
棚。
棚。
天井まで棚。
床にも箱。
壁にも武器。
奥行きが見えない。
見たことのない服。
機械。
瓶。
杖。
石。
仮面。
ぬいぐるみ。
何かの骨。
内側から光っている卵。
半分だけ透明な傘。
宙に浮いたまま眠っている小動物。
どこかで、ちりん、と鈴が鳴った。
渾沌ちゃんは黙った。
瑠倫ちゃんは当然のようにその横を通り過ぎた。
「たしかこの辺じゃ」
箱を開ける。
違う。
次。
違う。
三つ目。
ぼふっ。
紫色の煙が噴き出した。
瑠倫ちゃんの髪が全部逆立った。
「違った」
「瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「これ、全部なに?」
「旅の道具じゃよ」
瑠倫ちゃんは次の箱を開けた。
小さな翼が大量に飛び出した。
ぱたぱたぱたぱた。
倉庫の奥へ逃げていく。
「あっ」
瑠倫ちゃんが走った。
三歩目で消えた。
速すぎた。
「待って!」
渾沌ちゃんも追う。
棚の角を曲がる。
いない。
代わりに。
壁一面に写真が貼られていた。
知らない海。
逆さまの都市。
雲より高い場所に生えた森。
赤い砂漠を歩く巨大な影。
海底から見上げた月。
夜空を、さらに外側から撮ったような写真。
何か巨大な生き物の背中。
崩れかけたビルの屋上で食べかけのバーガーを持つ誰か。
パンデモニウムの看板を、見たことのない方向から写した一枚。
どれも説明がない。
日付と、短い文字だけ。
『風がうまい』
『朝だけ逆さ』
『二度目の方がよかった』
『ここはまた行く』
その中に一枚だけ、見覚えのある場所があった。
さっきの湖。
空から撮られている。
青い湖。
山。
森。
そして中央に、小さな人影が落ちていた。
自分だった。
渾沌ちゃんは写真を剥がした。
裏を見る。
丸い字。
『渾沌ちゃん 初落下』
「できたぞー」
奥から声がした。
瑠倫ちゃんが戻ってきた。
両手に水中装備。
髪には小さな翼が一匹刺さっている。
「行くかの」
渾沌ちゃんは写真を見る。
瑠倫ちゃんを見る。
もう一度、写真を見る。
「瑠倫ちゃん」
「なんじゃ?」
「『初』って何?」
瑠倫ちゃんは少し考えた。
「二回目も綺麗じゃぞ」




