第19話 皇子は動き出す
再びアグラールへ行きセレフィナと会ったその夜。レオは帝国へ戻ると、まっすぐに宰相ルシアンデルの執務室へ向かった。皇宮の黒石の廊下は夜になるといっそう静かで、月影に急ぐレオと肩の上のウィンの姿だけが浮かんでいる。
それまで、皇帝に詰められるままに、竜になる方法を探り、戦う術を磨き、それでもこの帝国の中心に生まれ育った自分は、特別な存在だと自負していた。
だが、彼女はそんな自分に向かって言い放った。
――皇子なら、どうにかしなさいよ。
――できないなら、一緒に来いなんて言わないで。
まっすぐで容赦のない言葉に、胸の奥を射抜かれた。会うたびに、足りないものを気づかされる。
「……皇子なら、どうにかしないと、な」
思わず独り言が漏れた。セレフィナの声は、まだ耳の奥に残っている。
執務室は、皇宮の中でも東側の比較的レオの自室に近い場所にある。朝日が入りやすく、西日があたりにくい。壁一面の棚に整然と並ぶ書籍や書類に目を通すには適している。レオが義務としてルシアンデルの授業を受けていた頃、何度か入ったこともある部屋。だが、一通りの事は学び終えたとされてから、暫らく足が遠のいていた。
執務室から光が漏れている。やはりまだ、いた。レオはそう思いながら、扉を叩いた。
「これは珍しい。第一皇子殿下が、自分から私の部屋へ来られるとは」
机に向かっていた男が顔を上げる。白髪の多い長い髪を後ろでゆるく結わいた、痩せて背の高い中年の男。
「嫌味か」
「事実でしょう」
ルシアンデルは立ち上がらなかった。ただ書類から手を離し、紫色の鋭い瞳でレオをまっすぐ見た。
「それで、ご用件は」
レオは少しだけ黙った。勢いよく部屋へ入ったものの、いざ口にするとなると妙に言いにくい。
「……仕事を回してほしい」
沈黙が落ちた。
ルシアンデルはまばたき一つせず、やがて静かに言う。
「急に、どうされましたか」
「学ばないといけない」
「それは皇帝の、命でしょうか」
レオは眉を寄せた。
「皇帝から言われてはいないが……皇子なのに、この国や、その周辺国との関係を、何も知らないと気づいた」
ルシアンデルの目が、ほんの少しだけ変わる。
「ご自分の意思で、私から学びたいと、ここに来られたという意味でしょうか」
「そうだ」
「そうですか。ですが、私も、それほど暇ではございません。以前のように丁寧にお教えする時間は正直ございません」
「分かっている。だが、お前しかいないと思った。だから……仕事を手伝いたい」
ルシアンデルはようやく立ち上がり、机の上から一束の書類を抜き出した。
「国境付近の小競り合いと、交易路の乱れ、それに伴う物資不足の報告等の資料です。皇帝の指示で軍は軍の理屈で動きますが、それがどう民に影響しているか」
書類をレオへ差し出す。
「読み、要点をまとめ、何を優先すべきか考えてきてください。――明日の夕刻までに」
「それだけか」
「まだ目を通すことができていない。それだけでも、助かります」
ルシアンデルが目を細めた。
レオは書類を受け取る。思っていたより分厚く重い。
「昔から殿下は、理解は早かった。ただ、出されたものを受け取るだけで、心はありませんでした」
痛いところを突かれて、レオは顔をしかめる。
「心も伴うならば、私などすぐに相手にならなくなるでしょう」
「何もする前から、褒めるな。昔からお前は、褒めれば俺が動くと思っている」
レオは書類の束を抱え直す。
「明日の夕までだな」
「はい。それで十分前進です」
レオが踵を返しかけた時、ルシアンデルが静かに付け足した。
「殿下」
「何だ」
「皇帝は、良い顔をされないかも知れませんが。……殿下が本気なら、私もできるだけのことをさせていただきます」
レオは振り返らなかった。
「……ああ」
短く返した。だが、胸の奥の熱い火は、より一層強さを増していた。
◇
それから約一週間が経った。
帝国の朝は静かで、雲りがちな日が多く、朝でもそれほど明るくはない。
黒い廊下の窓から射す薄い光を浴びながら、肩にはウィンを乗せ、レオは今朝も宰相ルシアンデルの執務室へ向かう。毎日とはいかないが、レオはその後も時間を見つけて執務室へ通っている。書類を読み、まとめ、自分なりの考えを伝え、鋭い問いを重ねられ、自分の足りなさを痛感し、辛さも覚える。しかし、その分成長していると前向きに捉える。
レオは扉の前で一度だけ息をつき、軽くドアをノックすると、中へ入った。
「失礼する」
細い銀縁の眼鏡の奥の感情を抑えた紫色の目が、レオを見てわずかに細くなった。机の上にはまだ封の切られていない報告書がいくつも積まれている。朝から晩まで仕事をしているルシアンデルだが、それ以上に仕事が溢れているのだろう。
「朝食はもう取ったか?」
レオは手に持った袋を見せる。
「いえ、まだです。お気遣い、ありがたく」
ルシアンデルの顔が僅かにほころんだ。
レオと二人、黒く固めのパンに野菜や薄い加工肉を挟んだ無骨な朝食を噛み終えると、ルシアンデルは話し出す。
「殿下もご存じの通り、この国では私も含む皇帝直下の重臣四名が皇帝を支えています。私は宰相として、財や内政を扱う。近衛軍司令長官ヴァルツェンが率いる近衛軍司令は軍を握り、神殿長ミカエディスは信仰と儀礼を司る。技術院長カラドヴァルは、闇魔法を用いた特殊兵装を担い研究に勤しむ」
「話には聞いているが、俺が面識があるのは、お前と、剣を学んだヴァルツェンぐらいだな。彼とも最近はずっと会っていないが」
レオの返答に、ルシアンデルは重くうなずいた。
「そうです。それは、偶然ではない。皇帝陛下はそれぞれを、ご自分の元、別々に配されている。一人ずつ手元に呼び、他の者の情報をちらつかせる」
レオは息を呑む。
「……わざと、か」
「ええ」
「互いに競わせ、牽制させ、疑わせる。そうすれば誰も大きな力を持つことができません。最後にすべてを裁定できるのは陛下だけになる」
レオの喉の奥が、じわりと熱くなる。
「俺も……同じか」
「ええ。いずれは継がれる立場として、他の者よりは接触の機会も与えられているのでしょうが、殿下ご自身の手で動かせるものが少ないよう、後の二人との接触を制限されているのでしょう」
「……なら、どうすれば良い?」
ルシアンデルの視線が、少しだけ鋭くなる。
「それは、何のためにですか」
その問いに、レオは息を詰まらせた。
セレフィナの顔が浮かぶ。
だが、ここでそれは口にできない。
「戦を、止めたい」
口に出してから、自分でも驚く。
「少なくとも、今のままでは駄目だと思っている。奪い、支配するだけでは、奪い続けなければならなくなる。土地や資源を奪っても、民も国も、本当の意味で豊かにならない」
皇帝の意思に反する内容だ。言い過ぎたろうかと、レオは唇を噛む。だが、自分から心を見せなければ、味方にすることはできない相手でもあった。
ルシアンデルは静かにうなずいた。
「それが、殿下ご自身の言葉ですね」
否定も、肯定もしない。
「まず必要なのは、この国の今の仕組みを知ることです。兵、命令系統、物の動き、研究施設、神殿側の動き。誰が何を握っているのか、把握しなければ何も始まりません」
レオは眉を寄せる。
「技術院長も、その中にいるのか」
「むしろ中心に近い」
ルシアンデルは机の引き出しから、固く封印のされた薄い書板を一枚取り出した。
「幸いここは、財の動きで色々と知ることができます」
彼はわずかに口元を上げて続ける。
「最近、技術院管轄の移送と資材の動きが妙に増えています。アグラール側、プロメシア辺境伯の土地の一部も、研究施設になりました」
レオの背筋がぴんと伸びる。
「……辺境伯の土地が? 彼が許すとは思えないが」
ルシアンデルの顔が曇る。
「はい。プロメシア辺境伯は、アグラールとの戦いの命に反対して拘束され、先日処刑されたと噂されております」
レオは絶句した。
「……ご存じでは無かったようですな。まさに、殿下がおっしゃっていた、戦いではなく、周辺国と協力し合って民を豊かにするべきとの信念をお持ちの方でした」
「古くからの忠臣、信用に足る者と思っていたが……それを、まさか」
ルシアンデルは書板を指先で押さえたまま続ける。
「象型魔獣をその施設で扱っているという噂もあります」
レオの動揺は隠せない。
「今も、アグラールとの戦の準備が進んでいるということか……」
「殿下」
ルシアンデルの声が少しだけ低くなる。
「本当に動くおつもりなら、まず小さく、信用できるところからです。私の元で情報を得た後、本来の意図は隠して、少しずつ、動くことのできる範囲を広げられるのがよろしいかと」
「そんなもの、父上が許すのか」
「許しは求めないのです」
強い言葉に、レオは目を見開いた。
ルシアンデルは、わずかに眼鏡の位置を直した。
「陛下にとって、殿下はやはり特別な存在です。殿下が小さく動く限り、最初は見逃される」
「……先生は、俺に協力するのか」
ルシアンデルは少しだけ沈黙し、静かに答える。
「私は皇帝と対立したいわけでもありません」
「ああ。知っている」
「ですが、帝国を良くしていきたい気持ちはあります。今のままで良いとも思っていない」
「……引き続き、指導を兼ねて、仕事を手伝わせて欲しい」
「喜んで」
窓辺に留まっていたウィンが、レオに向かって低く鳴く。
『話が前に進んだな』
レオは立ち上がった。まだ何も掴んでいない。けれど、初めて何を掴むべきかは見えた。
「技術院の記録を見たいが、見たとしても、彼に近づくのはまだだな」
レオは言う。
「実の父のいる塔へは行ったが、研究施設もいずれ見ておきたい」
ルシアンデルはうなずく。
「殿下が動く名目としては……皇子による視察。いずれ、機を見て準備いたしましょう」
レオは小さく息を吸った。
まだ帝国そのものを動かすどころか、現状把握すら十分にできていない。だが、警戒されないよう気を配りながら皇子の立場を上手く使っていけば、徐々にできることも増えていくだろう。
部屋を出る前、ルシアンデルが背中に向かって言った。
「殿下」
レオは振り返る。
「私のできることも限られております」
淡い紫の瞳が、静かにこちらを見ていた。
「最初に私にお声がけいただいたことは、正解でした。ですが、他の者には本心はしばらく伝えられぬよう」
レオはわずかに目を細める。
「……分かっている」
それだけ返して、扉を押し開けた。
廊下に流れる空気は相変わらず静かだった。だが、今は自分の立つ位置が、前より少しだけ明確に見える気がした。
ウィンが肩に戻ってくる。
『で、次はどうする』
「次は、剣の師匠に会いに行ってみようかと思っている」
レオは歩き出す。
「技術院に近づくのはその先だ」
ウィンが、珍しく少しだけ楽しそうに喉を鳴らした。
『最近、顔色が良くなってきたな』
レオは答えなかった。
けれど、以前より少しだけ、自分の足で進み始めている気がしていた。




