第14話 緑の課題――喜びと楽しみで淹れよ
緑の領分は、木々の緑と光が溢れていた。
青と藍の課題の翌朝、馬車に揺られて連れて行かれた先に広がっていたのは、森と茶畑だった。中央に高くそびえる世界樹の枝が空を覆い、その周囲の平地には南国を思わせる森がある一方で、緩やかな斜面には茶の木が整然と植えられている。葉の上には薄い朝露が残り、風が吹くたびに青いような緑のような香りが立った。
私たちは、茶畑の近くで馬車を降ろされた。
「地下の後のせいか、すごく明るく感じるね」
私は光を眩しく感じて、思わず額に手をかざす。
セレフィナも小さくうなずく。
「本当。久しぶりに植物が沢山あるところに来たわね」
茶畑のあいだでは、トレントたちが長い枝先で器用に茶葉を摘んでいた。葉を傷つけないようにそっと摘み、籠へ入れていく。その様子は手慣れていて、不思議なのにそういうものかと思ってしまう。
「ここは世界樹の聖域。森の命を育てる場所です。他の領へ命の力を分けるために、お茶の生産も行っています」
見ると、世界樹の森の方から一人の女性が静かに歩いてきていた。若葉色の髪を揺らし、白金の衣に葉脈のような緑色の刺繍をまとっている。
「緑の長、ヴェルデリアです」
その声は風に混じるようにやわらかかった。私とセレフィナは頭を下げる。
その時、茶畑の一角でざわりと葉が揺れた。
トレントたちの枝が、一斉にそちらを向く。
「何かいる?」
私が目を凝らすと、茂みの奥から小さな影が飛び出した。栗色の毛をした、小猿型魔獣――ピクシーモンキーだった。前足で茶葉を抱えこみ夢中でかじっている。トレントがわらわらと追い払おうとするが、動じない。
「……トレントたち、困ってるみたいね」
セレフィナが眉を寄せる。私は近づき、小さな魔獣へ目線を合わせた。
「こんなところで何してるの?」
ピクシーモンキーはびくっと肩を震わせたが、やがておずおずと答えた。
『飼い主といっしょに来た。けど、はぐれた。……おなか、すいた』
「飼い主とはぐれておなかが空いてるって。食べるものが無いのかも」
私が訳すと、セレフィナが持っていた袋からビスケットを取り出した。橙の救助基地でもらった、保存食だ。
「これならどう?」
ピクシーモンキーは警戒しながらも、匂いをかぐと目をまんまるにした。
『たべていい?』
「いいわよ。急がなくていいから」
受け取ると、ピクシーモンキーは夢中でかじり始める。その間にもトレントたちのざわめきは少しずつ落ち着いた。
枝の上からコフクが降りてきた。
『この子、後でエセルさんに預けようか』
私がうなずくと、ピクシーモンキーは少し不安そうに見上げてきた。
「そういえば、あなた名前は?」
ピクシーモンキーはビスケットを抱えたまま、小さく呟いた。
『モコ』
「モコか。じゃあモコ、あとでちゃんと飼い主さんのところへ帰ろうね」
『……うん』
そう言うと、モコは安心したように、ぴょんと私の肩へ飛び乗った。
ヴェルデリアは、その様子を静かに見守っていた。
「……茶葉も、森の子も、助けてもらえてよかったです。では、改めて」
ヴェルデリアが視線を向けると、トレントの一体が、摘みたての茶葉を入れた籠を差し出した。新しい緑の香りがふわりと広がる。
「緑の試練は、難しいことではありません」
ヴェルデリアは言った。
「お茶を、美味しく淹れてください」
セレフィナが目を瞬く。
「……お茶を?」
「ええ」
ヴェルデリアはうなずく。
「二人で、喜びと楽しみの気持ちをポットに込めて、お茶を注いでください」
トレントたちが、小さな卓と茶器を整えていく。透き通るポットと湯の器、発酵させた茶葉。
その脇へ、ヴェルデリアが器をひとつ置いた。そこには、木の実を蜂蜜で艶やかにまとめた茶請けが載っている。木の実は小ぶりで、くるみや榛の実に似たものがいくつも混じっていた。
「森の木の実と蜂蜜を使ったものです。トレントたちが漬けてくれました。後でお茶と一緒に、皆でいただきましょう」
セレフィナが器の香りを嗅いで、ふっと目を細めた。
「蜂蜜の甘さと木の実の香ばしさ……素敵ですね」
セレフィナは、そっと茶葉を指先で持ち上げた。
「良い茶葉ね。すごくいい香り……木の実と合いそう」
香りを確かめる。ほんのり残る青さの奥に、花と木と、少しだけ甘い気配がある。
そこで何か思いついたように、彼女が小さな水魔法の包みを取り出す。
「課題の合間に焼いておいたクレープ生地が、残っているわ」
水の薄布を開くと、重ねてたたまれた薄い生地が現れた。
私は思わず目を丸くする。
「持ってたんだ」
「三時のお茶用に、少しだけね。魔法で味は落ちてないはず。ちょっとだけ温めてもらえれば」
セレフィナは私に目配せして、生地を数枚皿の上に広げた。私が軽い火魔法でクレープ生地を温めると、セレフィナが木の実の蜂蜜がけをそっとのせ、くるりと包む。
「こうすると、食べやすいし……たぶん、もっとお茶と一緒に楽しめるわ」
差し出された包みからは、焼いた生地のやさしい香りと、蜂蜜の甘い香りがふわりと立った。ヴェルデリアもその様子を、静かに見ている。
それからセレフィナは、茶器へ向き直った。
「一緒に淹れるのだと……ポットにお湯を注ぐ人と、ポットからお茶を淹れる人、かしら?」
道具一式を前に、セレフィナが少し考える。
「いつもやっているから、お茶を淹れるのはセレフィナが良いと思う」
「そうね。私が茶葉を入れるから、リリはお湯をお願い」
「うん」
セレフィナは私の前に空のポットと、白くて薄い陶器のカップを並べた。
「リリ、紅茶を美味しく淹れる時はね、最初にカップとポットを温めるの」
「先に?」
「ええ。冷たいままだと、せっかくのお湯が冷めて、香りが逃げるから」
それから、湯の器を見て、少しだけ真顔になる。
「大事なのは、温度と、茶葉との対話……茶葉が心を開くのを、待つ時間」
私が首を傾げると、セレフィナは少し笑った。
「それぞれ違う茶葉たちの良さを、最大限に出せるように、私が助けるの」
どこか彼女が支援魔法を使う時と似ていて、私は少しだけ納得した。
「熱すぎても香りが立ちすぎるし、ぬるいと葉が開ききらない」
セレフィナの目が少しだけきらりとした。お茶とあって、何だか本気になっている気がする。
私はたっぷりと熱いお湯の入った器を持ち上げる。手で触れるのは重いし熱いので風魔法を使って、器に軽く手を添え、まずはカップにお湯を注ぐ。白い器の中に湯気が立ち、次に透明なポットにもそっとお湯を回しかける。
私は考える。何を喜ぶか。何が楽しいか。
浮かんだのは、竜になって飛んだ時の感覚だった。
風を切って、高く上がって、身体が軽くなる。伸びやかに飛び回り、行きたいところへすぐに飛んでいける。竜になると、いつも気になっている小さなことは全部忘れて、本当に自由な感じがする。心の底からわくわくする。きっと、あれは、私の楽しいこと。
ふわりと湯気が立ち上り、ポットが淡く光る。
「温まったら、一度お湯を捨てるの」
「うん」
私はカップとポットのお湯を静かに捨てた。セレフィナがそのあと、ポットへ茶葉をそっと落とす。葉の気配を見つめながら、セレフィナがポットへ手を添える。
セレフィナはポットへ手を添えたまま、少し遠くを見るような目をした。
「……私、お茶の時間が好き」
ぽつりと呟く。
「家族で囲む卓とか、リリやフルールたちと一緒にお茶と菓子を楽しむ時間とか。誰かと座って、甘いものを食べて、ほっとする……そういう時間が、楽しい」
その言葉と一緒に、ポットの中の茶葉が少しだけ明るく見えた。
セレフィナの合図で、私はもう一度湯の器を持ち上げ、今度はポットへ新しいお湯を注いでいく。
喜びを感じることは……。
思い浮かんだのは、困っている象の妻たちの話を聞けた時。
自分の力を使って、少し誰かの役に立てたかなと嬉しかった。マックスに褒められた時のことまで思い出して、少しだけ頬が熱くなる。その流れで、手に口づけされた時のことまで、ふいに頭をよぎった。
(……いやいや)
私は小さく頭を振る。今は、そういうことじゃない。
「私は……自分らしく力を使っていると、楽しい」
そう言って、私は透明なポットの中を見つめた。
「その力で、誰かの役に立てた時、嬉しい」
その言葉と一緒に、ポットから立ち昇る湯気の中へ、若葉のような光が混じる。
「自分が自分でいられて、好きな人たちが笑ってて、その中で、ちゃんと私も役に立ててる。そういうのが、私の“喜び”なんだと思う」
透明なポットを包む緑色の光が増し、中で茶葉がふわりと持ち上がり、くるくると回り始める。
「ジャンピングだわ」
セレフィナが小さく言う。
「葉がちゃんと動くと、香りも味もむらなく開くの。ここで開いていくのを待つのが大事」
茶葉は湯の中でほどけ、沈み、また浮かぶ。まるで気持ちそのものが中で開いていくみたいだった。
「……そろそろ良いわね」
蒸らし終えたポットから、セレフィナがカップへ注いでいく。
セレフィナはカップへ茶を注ぎながら、また考える。
(私が、喜びを感じること……)
お菓子が上達して、誰かが美味しいと笑ってくれた時。
支援魔法で、皆の戦いが少し楽になった時。
「ああ……私は、お茶やお菓子が好きなだけでなくて、それで誰かが喜んでくれるのを見るのが、嬉しいんだわ」
胸の奥が、ふっとやわらかくなる。
その時、別の顔が浮かんだ。
家族も喜んだ、と言った時の、少し嬉しそうな顔。
口づける前の、あの甘い表情。
そのあと、胸を押し返されて驚いた顔。
「……っ」
セレフィナは顔の前で小さく片手を振った。
(違う、今はそれじゃなくて)
森の香りが立ち上り始め、モコが、私の肩の上で鼻をひくひくさせる。
『いいにおい』
ヴェルデリアが静かに微笑む。
琥珀より少し淡い、透明な緑金色。注ぐにつれ、香りはさらにやわらかく広がった。ポットもさらに、緑の光を増している。
その時だった。
世界樹の方向から、小さな気配が現れた。人の子どもほどの大きさの、緑色の妖精だった。
コフクが羽を震わせる。
『……あ、きた!』
「知ってるの?」
『ずっと会ってみたかったんだ。世界樹の精』
世界樹の精は、空いていた席にちょこんと座った。そして、湯気の立つカップのそばで香りを吸い込むように目を細める。
「……いい香り」
小さな声が、森の中にすっと響く。
「澄んだ喜びと、楽しみの香りがする」
私とセレフィナは、思わず息を呑んだ。
セレフィナが小皿の上のクレープに切れ目を入れ、少し寄せる。
「どうぞ。こちらでみんなが作った木の実を包んでみました」
世界樹の精は木の実を包んだ小さなクレープをひとつ摘まんだ。ひと口かじると、目を丸くして、それからふわりと笑う。
「うん。楽しい味」
満足そうにうなずくと、手元から一枚だけ、艶のある葉をそっと浮かび上がらせた。
「これ、あげる」
ヴェルデリアが静かに受け取り、私たちへ差し出す。
「世界樹の葉です。ふだんは、ほとんど外へ出しません」
私は目を輝かせた。
「おばあちゃん、きっと喜ぶ」
ヴェルデリアは、その言葉に少しだけ目元を和らげた。
「喜ぶ顔を思い浮かべて持ち帰るなら、それもまた緑の力になります」
人数分のカップにお茶を淹れ終え、それぞれの席に小皿に乗ったクレープを置くと、私とセレフィナも席に着いた。
それからみんなでお茶とお菓子をいただいた。穏やかで、静かな時間が流れた。無口な世界樹の精につられて言葉はほとんど無かったけれど、お茶の温かさと、お菓子の優しい甘さに、派手ではないけれど、楽しい気持ちが湧いてきた。
ヴェルデリアはお茶を飲み終えると、まだ湯気の立つポットへそっと指先を触れた。茶の香りに溶けていたやわらかな緑の光が、糸のように引き出され、彼女の掌の透明な結晶へ吸い込まれていく。やがて結晶は若葉色に透け、森の息を閉じ込めたような小さな糖へ変わった。
「これが、緑の素材。『生命の翠糖』です」
私がそれを受け取り、セレフィナも一緒に覗き込む。
「……きれい」
セレフィナが小さく言う。
さらにヴェルデリアは、茶葉をきれいに包んだものも差し出した。
「こちらも持っていきなさい。この領で作ったお茶を飲めば、心を整える助けになるでしょう」
私はうなずいて、受け取った。
「そう言えば私、いつもいただく側で、お茶とか食べ物とか作るの、全然できないな。そろそろおばあちゃんとかに教わろうかな」
セレフィナは少しだけ目を細めた。
「でも、リリはそのままでもいいんじゃない?」
「え?」
「……今後も、作ってくれる人は周りにいそうだし。あ、もちろん覚えたら、おばあさまとかビュートさんとか、とっても喜ぶと思うわよ!」
「うん……?」
私は首を傾げた。
私は『生命の翠糖』を箱の緑の窪みに収めた。かちり、と小さな音がして、そこに緑の光が灯る。
赤、橙、黄、青、藍、緑。六つの色が並んで、箱の中で静かに輝いていた。残る窪みは、あとひとつ。中央へ最も近い、紫だけだった。
それからモコは、馬車で待っていたエセルに預けることにした。
「この子、モコちゃんと言います。緑の国で迷子になってました。飼い主の名前は……」
そう言って、モコを見る。
『サフィル。商売で、お茶買いに来た』
「名前は、サフィルさん。お茶を買いにどこかの国から来た商人の方のようです」
私が頼むと、エセルはすぐにうなずいた。
「承知しました。付近の領内と、門の方にも連絡を回します」
やがて客室に着き、モコは少し名残惜しそうに私の肩から降りる。
『サフィルに会えるかな?』
「きっと大丈夫」
私はそう言って頭を撫でる。
コフクも、ひと声だけ鳴く。
『元気でね』
エセルの肩越しに手を振るモコを見送ってから、私たちはようやくソファーに腰かけた。
お昼をいただき、そしていよいよ、午後は最後の紫の領へ向かう。
「……次で、最後なんだね」
私の呟きに、セレフィナも静かにうなずいた。




