第12話 青の課題――悲しみで汲み上げよ
翌朝、客室を出ると、回廊の先でエセルが待っていた。
その視線が、私たちの持つ金の札に止まる。
「……黄の顧客証。認められたのですね」
静かな声だったが、ほんの少しだけ感心したようにも聞こえた。
「貴重なものです。どうか大切に」
セレフィナが少しだけ口元をゆるめる。
「私たち、将来の良い顧客になりそうだと思われたのかしら」
エセルはわずかに微笑んだ。
「黄の領は、軽く札を渡す場所ではありません」
その言い方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。ただの好意ではなく、認められた証なのだと分かる。
「では、青の領へご案内します」
◇
青の領分は、高い山々に囲まれていた。
白い峰のあいだから、冷たい風が吹き下ろしてくる。そのふもとには、鏡のように澄んだ湖がいくつも点在していて、空の青を深く映していた。遠くには、水を汲み上げるための塔や車輪のような機械も見える。湖畔の道には、青銀の髪をした湖水エルフたちが行き交い、ガラスのように澄んだ水の入った瓶が整然と並べられていた。
「私はアズレイン。青の領を預かる者です」
静かな声がして、私は顔を上げた。
青の長アズレインが、湖畔に立っていた。
青銀の髪を背に流し、水面のような淡い瞳で私たちを見ている。白金の衣には青い透明布が重なり、動くたびに波紋のように光が揺れた。その横には、水霊鳥が一羽、羽をたたんで立っている。翼は薄い青で、陽の光を受けると水面のようにきらめいていた。
「ここが、青の領分の、聖湖の採水場です」
私は並んだ瓶を見て目を瞬いた。
「これ、全部……湖の水ですか?」
「ええ。湖ごとに水の性質が違います」
アズレインの声は低く、落ち着いていた。
「この国では、水を汲み、濾し、保ち、必要な者へ渡すこともまた、大切な役目です」
少し離れた山の斜面を指す。
「山ではドワーフたちが岩塩を採っています。水と塩は、この領分の二つの恵みです」
セレフィナが、並んだ瓶を見つめる。
透明なのに、それぞれに少しずつ色の違いがあるようにも見えた。
アズレインは私たちを、ひとつの湖へ案内した。
山の裾に穏やかに広がる湖で、岸辺には白い石造りの採水装置が据えられている。湖水を引き込み、濾し、瓶へ詰めるための機械らしい。歯車は静かに回り、細い水路を水が流れていた。
「今日の課題は、これです」
アズレインが機械の前に立つ。
「悲しかった時の気持ちを、この装置へ込めながら、水を汲み上げなさい。悲しみを込めるほど、装置が回ります」
私は目を瞬いた。
「悲しみを……?」
「自分の悲しみを見つめた者は、他者の悲しみも受け止められる」
アズレインは湖面へ目を向ける。
「そして、悲しみを外へ出せば、心は少し軽くなる。外へ流すほど、澄んだ水になる」
セレフィナが、小さく息をついた。
「……これも、やってみないと分からないわね」
採水装置の横には、二人が手を置けるくらいの透明な受け台がついていた。
そこへ、気持ちを込めるらしい。
「一つの機械を、二人で使ってください」
アズレインが言う。
「悲しみを分かち合う者の方が、澄んだ水を得やすい」
私はセレフィナと顔を見合わせ、うなずくと、先に受け台へ手を置く。
ひやりとした感触が指先から伝わってきた。
最初に浮かんだのは、象たちの妻の顔だった。
夫を返してほしいと泣いていた。怒りもあったけれど、それ以上に、毎晩身をよじって泣かずにはいられないほど、大きな悲しみを抱えていた彼女たち。
「最近……悲しかったのは」
私は小さく言う。
「象たちの妻の話を聞いた時。私まで、苦しくなった」
受け台の下で、水の流れる音が少し変わる。
採水機の中に、淡い青い光がひと筋落ちた。
私は続ける。
「あと、お母さんに会って。
嬉しかったんだけど……昔のことを少し思い出したの」
風が、湖の上を静かに渡る。
「小さい時、お母さんもお父さんもいなくて……おばあちゃんが大事に育ててくれたから、平気だと思ってたけど、たぶん少し寂しかったんだなって」
その言葉が落ちた瞬間、採水機の中の水がやわらかく光った。
機械が少し深く湖水を取り込む。
次にセレフィナが手を置く。
彼女が口を開くまで、少し時間がかかった。
「私が一番悲しかったのは……お父さんが亡くなったって言われた時」
その声は静かだった。
静かだからこそ、重かった。
「戦に出るなら、そういう覚悟も必要だって、頭では分かっていた。
でも、信じたくなかった。
そして、亡命しなさいと言われて、母も残して、姉や妹たちと城を出た」
採水機の中で、水がまた青くきらめく。
今度は私の時より少し深い色だった。
セレフィナは目を伏せる。
「城を出る時は泣く余裕も無かった。でも、お城を出て……母の作ってくれたお菓子を食べていたら、泣いてしまったわ」
私は、思わず横顔を見る。
泣くことも、必要だったのだろうと思った。
「姉妹で沢山泣いて、それから目的地へ向かえた」
その瞬間、採水機が少し大きな音を立てて回転した。
瓶へ流れ込む水が、より澄んだ青みを帯び始める。
「うまくいってる……?」
私が呟いた、その時だった。
少し離れた別の湖の方から、慌ただしい声が上がる。
「だめだ、水が取れない!」
「不純物が多すぎる、このままじゃ詰まる!」
湖水エルフたちが、別の採水装置のまわりに集まっていた。
見ると、引き込み口のあたりに暗い緑の塊が絡みついている。増えすぎた藻や細かな汚れが重なり、水の流れを邪魔しているらしい。
案内役の湖水エルフが眉を寄せる。
「最近、あの湖だけ藻が増えていて……」
アズレインが少し視線を向ける。
「気にせず課題を続けてください」
そう言ってはいるが、言葉とは違い助けるかどうかをこちらに委ねているのを感じた。
私はすぐに言った。
「これ、また途中から続けられますよね。先に向こうに行きたいです」
セレフィナもうなずく。
「私も」
私たちは機械から手を離し、別の湖へ走った。
近くで見ると、藻は思ったより大きく、ぬめるように何層も絡み合っている。
このままでは採水機ごと止まりそうだった。
「水を取ろうとしても、これじゃ無理そうね」
セレフィナが湖面を見つめる。
それから、ふっと目を細めた。
「……お茶みたいに濾せばいいんだわ」
「え?」
「紅茶ポットで、茶葉を濾せ――」
セレフィナは懐から取り出したリラハープを弾きながら、手を前に出した。
その前に、透明な水の器がぱっと浮かび上がる。丸みのある形は、まるで紅茶ポットのようだった。注ぎ口の先には、細かな光の網が広がる。
「ティー・ストレイニング!」
静かな詠唱とともに、湖水がその器へ引き寄せられた。
注ぎ口から流れた水は、光の茶漉しを通って細く落ちる。すると、不純物や藻だけが上に残り、澄んだ水だけが下へ落ちていった。
湖水エルフたちが目を見張る。
「濾してる……!」
だが、不純物の量が多い。
セレフィナは額に少し汗を浮かべながら、歯を食いしばる。
「全部は……一人だと、きついかも」
「じゃあ、私は運ぶ!」
私はすぐに風を起こした。
最初は細く、次に強く。
セレフィナが漉し取った藻の塊を、風がまとめて湖の外へ運ぶ。採水機の周りの水流が整い、止まりかけていた流れを一気に通した。
ざわり、と湖面が揺れる。
だが濁りは広がらず、水が大きく循環して、少しずつ澄んでいく。
セレフィナが濾し、私が運ぶ。
二人の力が重なった瞬間、採水機が再び静かに回り始めた。
「動いた!」
「助かった……!」
周囲の湖水エルフたちが、ほっと息をつく。
詰まりが取れた採水機が、水を滑らかに吸い込み始める。
セレフィナも小さく息をついた。
「良かった……」
私は風を収めながら笑う。
「うん。綺麗になった」
その時、アズレインが静かに言った。
「助かりました。ここには、溜まったものを濾す仕組みがありません」
その言葉に、セレフィナは少しだけ目を伏せた。
私も、自分の胸の中にある悲しみを思い出す。消えたわけではない。けれど、こうして流すことはできるのだと思った。
少し休んでから、私たちは元の採水機へ戻った。
再び手を受け台に置く。
今度は、さっきよりも機械の音がやわらかく聞こえた。
私は、胸の奥に残っていた寂しさや悲しさを、さっきより少し静かな気持ちで思い返した。
セレフィナもまた、父のこと、母のこと、姉妹で泣いた時間を、今度は飲み込まれるのでなく見つめるように思い出していた。
採水機は静かに湖水を濾し、澄んだ瓶へ注いでいく。段々と、私の心も静まって、澄んでいくように感じた。
瓶が満ちた時、その中の水は、ただ透明なだけではなく、ほんのり青い光を帯びていた。
アズレインは瓶を受け取り、そこから立ち上る青い悲しみの気配を、掌の中の透明な結晶へ移していく。
やがて結晶は、露を凍らせたような小さな青い糖へと変わった。
「これが、青の素材。『静心の露糖』」
私はそれを受け取る。
見ているだけで、胸の内が少し静まるような色だった。
「悲しみは消えません」
アズレインの声が、山の空気に溶ける。
「ですが、外へ出せば、心は少し軽くなる。
そして、悲しみを知っている者ほど、他者の悲しみも受け止められる」
私は露糖を箱の青の窪みに収める。
かちり、と小さな音がして、そこに青い光が灯った。
セレフィナは小さく息をつく。
「……冷えたわね」
その言葉に、アズレインはわずかに表情をやわらげた。
「温泉に入っていくとよいでしょう」
私は顔を上げる。
「温泉?」
「この山の上にあります。岩塩の採れる斜面の近くです」
案内された先は、山の上の方にある見晴らしのいい湯場だった。
遠くに街と湖が見え、白い布を巻いて入る露天の温泉は、冷えた身体をじんわりと温めてくれる。
道すがら、山の斜面ではドワーフたちが岩塩を掘り出していた。
湖水エルフが、小さな布袋を二つ差し出す。
「試練を越えたお土産です。あなた方が汲んだ天然水と、少しだけ岩塩をどうぞ」
私は水の小瓶を見て、少し笑った。
セレフィナも布袋を揺らしてみる。
「これは嬉しいかも」
「うん。帰ったらみんなにも見せたい」
温泉の湯気の向こうで、湖が静かに光っていた。
私は箱に収められた露糖を見る。
赤、橙、黄、青。
四つの色が並び、光がさらに増したのを感じた。




