第11話 黄の課題――守る心で金庫を閉じよ
白に黄金の装飾が続く地下回廊は、しんとした静けさをたたえていた。
光の国の金庫区画は、地上の白い議場よりもさらに整然としている。磨かれた石床、寸分の狂いもなく並ぶ扉、魔法で刻まれた封印線。硬い空気に、外の国境を守るものとはまた別の結界が幾重にも張られているのを感じた。
受付の奥に立つ、淡い金髪を背に流したハイエルフが、薄い金の瞳で私たちを見た。
白金の礼装には、鍵と印章を模した飾りが整然と留められている。指先まで乱れがない。
「黄の領を預かるヘリオヴェンです」
その声は平板で落ち着いている。だがそれとともに、何事にも動じない強さを感じた。
「ここは黄の領分。光の国の金庫の受付です」
ヘリオヴェンは、壁際に並んだ小型の金庫を示した。
「我々は、物を預かります。持ち主が安心して託せるように。そして、必要な時に、再び手元へ戻るように」
セレフィナが、金庫の並ぶ回廊を見渡した。
「きっちりしているのね……」
「今日の課題は単純です」
ヘリオヴェンが淡々と告げる。
「新人の金庫補助として、金庫の封印をしてもらいます」
「金庫の封印?」
セレフィナが聞き返すと、ヘリオヴェンはうなずいた。
「こちらの事務所で日常的に扱う金庫を封印してもらいます」
そう言って、小ぶりの金庫二つの前へ案内された。
どちらも二人の腰の高さくらいの大きさで、表面に金の紋が刻まれている。脇には、光る鍵穴が一つ。
「守りたい気持ちが曖昧なら、封印は甘くなる。守りたい気持ちが定まっていれば、金庫はきちんと閉じる」
私は目の前の金庫を見つめた。
小さいとは言っても、失敗して中の物が盗まれたらと思うと、少し緊張する。
「鍵を閉める時、何を守りたいのかを思い浮かべて、閉じてみなさい。内容により、封印の質も強さも変わります」
最初に鍵を受け取ったのは私だった。
金庫の扉をそっと閉じ、鍵を差し込む。
何を守りたいのか――そう問われて、胸に村の景色が浮かんだ。おばあちゃん、フルール、マックス、ビュートゥ、ココット。森に棲む魔獣たち。
さらに、その先に象の森が浮かぶ。泣いていた象の妻たち。
(守りたい)
そう思った瞬間、鍵穴の周りの金の線が、静かに光った。
私はゆっくりと鍵を回す。
かちり、と澄んだ音がして、金庫はぴたりと閉じた。隙間もなく、封印線が一筋きれいに走る。
「……閉まりました」
「悪くありません」
ヘリオヴェンの評価は短く、ほんのわずかにうなずいた。
次にセレフィナが前へ出る。
鍵に触れた瞬間、彼女の胸に浮かんだのはフィシエーラだった。城、姉妹たち、父と母の顔。亡命の途中で出会った人々。
(あの人たちを、守りたい)
そんな気持ちが、彼女の表情ににじんで見えた。
セレフィナが蓋を閉じて鍵を回すと、こちらも静かに光が走る。
金庫はやわらかい金の封印線をまとって閉じた。
「……こちらも、できましたね」
ヘリオヴェンが淡々と言う。
セレフィナは少しだけ頬を緩めた。
「ええ、閉まりました」
ヘリオヴェンが透明な結晶で触れ、二人の閉じた金庫から封印の力を取り込む。金の光が吸い込まれていくが、まだ満ちきらない。
「まずはそれで十分です。続けて、もう一つずつ閉じましょう」
「プロメシア様。申し訳ございませんが、鍵以外にもう一つ、必要なようです」
その時、隣の区画から声がした。見ると、新人らしい若いエルフが金色の鍵を手にして申し訳なさそうな顔で立ち、彼の前には一人の老婦人が立ちつくしていた。深い灰色の外套をまとい、手に小箱を持っている。足元には、小型の犬型魔獣がぴったりと寄り添っていた。大きな耳が蝶の羽のようにふわりと広がる、年を取った上品な蝶耳犬だった。
老婦人は、金庫の前に立ったまま何も言わない。
新人エルフも、決まりを破って余計なことを聞くわけにもいかず迷っているのか、困ったように黙っている。
「どうしたのかしら」
セレフィナが小さく呟く。
ヘリオヴェンはただ、見ている。
その時、私は足元の蝶耳犬が小さく鼻を鳴らすのに気づいた。
『ご主人、聞いてない』
私は思わず蝶耳犬を見た。
「何を聞いてないの?」
蝶耳犬が私をちらりと見て言った。
『あれ? あなた、話せるのだね』
私はそっとうなずく。
『ご主人、鍵と、ぼくが必要なのを、聞いてない』
「あなたが?」
『前に旦那さまと一緒に登録したから』
私は小さく息を呑んだ。
「どうかしましたか」
ヘリオヴェンの声に、私は顔を上げる。
「……鍵以外にこの子の認証が必要みたいです」
新人エルフが目を見開く。
客の女性も、わずかに顔を上げた。
ヘリオヴェンは静かに老婦人を見る。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
老婦人は少し迷ってから、小さく答えた。
「……イオネ・プロメシアです」
その名に、ヘリオヴェンの目がほんのわずかに細められる。
新人エルフが手元の帳簿を確認して言う。
「カシアン様の、奥様ですね。その蝶耳犬は、以前の登録伴獣ですね」
イオネは、静かにうなずいた。
「はい。夫と一緒に、以前」
声はかすれていた。
「では開くことができます。前足を、認証板に」
イオネは犬をそっと抱き上げた。
「パピ……お願い」
蝶耳犬――パピはおとなしく抱かれ、前足を金庫脇の小さな認証板へ乗せる。
鍵が差し込まれる。次の瞬間、金庫全体にやわらかな金の光が走った。
かちり。
重い封印が、静かに解ける。
イオネの肩が大きく震えた。
中に入っていたのは、硬貨の入った袋、小さな宝石箱、書類の束。そして布に丁寧に包まれた細長い品。刀だった。
イオネはその包みを抱え、唇を強く結んだ。
「……夫の、遺品です」
その一言で、空気が変わる。
ヘリオヴェンが静かに問いかける。
「ご主人は……」
イオネはうなずき、話そうとして、また止まる。
パピが足元で小さく鳴く。
『大丈夫だよ』
イオネは視線を落としたまま、かすかに言った。
「夫、カシアン・プロメシアは……帝国の、辺境を治めていました。けれど、戦に反対して……処刑されました」
静かな言葉なのに、重かった。
「夫が亡くなる前、こちらの鍵を渡されました。私は、ここへ預けていたものを引き取るつもりで来たのです。でも、もう、あちらへは戻れません。この後どこへ行くかも、決まっていません」
その声を聞いて、私は拳を握る。
全員言葉を失った。
セレフィナが、沈黙を破った。
「……しばらくこの国で休める場所を案内するとか、そういうこともできますか?」
ヘリオヴェンはすぐに答えた。
「可能です。顧客という立場であれば、私の権限で一時滞在を許可できます。人間ゆえ、永住は認められません。ですが、他国で行き先が決まるまでなら問題ありません」
そこでセレフィナが、静かに口を開いた。
「私はフィシエーラとアグラール、両方の王家に連なる血筋です。どちらかに亡命できないか、聞いてみます」
イオネの目が、わずかに見開かれる。
「……そんなことまで」
「今すぐは難しくても、つなぐことはできるかもしれません」
セレフィナは落ち着いた声で続けた。
「ですから、それまでのあいだ、ここで守っていただければ」
ヘリオヴェンは静かにうなずいた。
「できます」
それから、イオネの手元の箱と、開かれた金庫へ視線を落とす。
「金庫は、ただ預かるだけのものではありません。長く守り、最後に無事お客様のもとへお返しするまでが、我々の役目です。
守るということは、点ではない。時間の上に成り立つものです」
その声は静かだった。
けれど、黄の領が何を誇りとしているのか、はっきり伝わってきた。
一拍置いて、イオネが話し出す。
「では、金庫の資産の一部を使って、しばらくパピと私を預かっていただけますか。
それから、家から持ってきた品も、追加で預け直せますか」
「もちろんです」
ヘリオヴェンは簡潔に答えた。
「それが、我々の役目です」
イオネの肩が、ほんの少しだけ下がった。
私は足元のパピを見る。パピは、少しだけ安心したように息を吐いた。
『ご主人、よかった』
新人エルフが静かに手続きを始めた。
ヘリオヴェンは、その一部始終を見届けてから、私たちへ視線を向けた。私とセレフィナは先ほど閉じた金庫の場所へ戻った。
私は自分の閉じた金庫を見る。さっきはただ「守りたい」と思って閉じた。けれど今は、その言葉の奥行きが少し変わって感じられる。
セレフィナも、自分の金庫の上に手を置いた。守るのは国や人、物だけでもない。そこへ戻ってこられる時間や、人の心ごと含めて守ることなのだと、少し分かった気がした。
「今度はそれぞれその隣の金庫を、もう一度、閉じなさい」
ヘリオヴェンが言う。
私たちはそれぞれまた別の金庫の前へ立つ。
私が思い浮かべたのは、村のおばあちゃん、フルール、マックス、ビュートゥ、ココット。森の魔獣たち。その先に象の森。彼らだけではなく、彼らが穏やかに過ごす、「帰ってこられる場所」そのものだった。
セレフィナが思い浮かべたのは、フィシエーラ、姉妹たち、両親、亡命中に出会った人々、そして彼らとの午後三時のお茶の時間。誰かが安心して座っていられるひととき。彼らの笑顔と心までを守りたいと思う。
鍵を差し込み、回す。
今度は金の封印線が、前よりもずっと深く、滑らかに走った。金庫は微動だにせず閉じ、表面に小さな光の紋が残る。
ヘリオヴェンは再度、透明な結晶を取り出した。二つの金庫から、封印の残光を指先でそっとすくい上げる。金の光は結晶へ吸い込まれ、今度は上まで満ちた。
内側でゆっくりと凝固する。やがて、それは深い黄金色をした小さな結晶糖になった。
「これが、黄の素材。『守護の契約糖』です」
ヘリオヴェンはそれを私に渡した。
見た目は小さいのに、触れるとしっかりとした重みがある。落ち着いた深みのある香りがした。
「あなた方にとっての、守るということ。私にも、伝わりました」
ヘリオヴェンの声が、静かに響く。
私は契約糖を見つめ、そっと頷いた。
セレフィナも、その光をじっと見ていた。
二人で黄の結晶糖を箱の黄色の窪みに収める。
かちり、と音がして、赤と橙の隣に、黄金の光が灯った。
その時、ヘリオヴェンは、私たちに一つずつ、小さな金の札を差し出した。表面には黄の印章と、細かな封印文字が刻まれている。
「これは黄の顧客証です」
私は思わず目を瞬いた。
「顧客証……?」
「小型金庫ひとつ、無償でお預かりします。保証は数百年単位です」
セレフィナが少し驚いたように札を見る。
「そんなに長く?」
「はい。必要であれば、担当者を変えてそれ以上でも」
私は札を受け取りながら、ふと思った。
「……私たち以外でも、大丈夫ですか?」
ヘリオヴェンは静かに答えた。
「所持者本人、または所持者に同行するお一人までなら」
それから、ほんの少しだけ言葉を足す。
「ちなみに、それを持つ者は、光の国への入国も認められます」
私は思わずセレフィナと顔を見合わせた。
「次にここへ来る時は、正式な客としてお迎えしましょう」
そう言ったヘリオヴェンの淡い金の瞳は、来た時よりほんのわずかにやわらいで見えた。
私は黄の顧客証を指先でつまんだ。少し考えてから、自分の胸元の指輪を通している鎖へそっと通す。赤い石のついた指輪の隣で、薄い金の札が小さく揺れた。
セレフィナも、しばらく見つめてから、リラハープの紐へそっと結びつけた。
大事なものが、またひとつ増えた気がした。
◇
控室へ戻ると、ちょうどお茶の時間だった。
張りつめていた気持ちが少しほどけて、私は椅子へ腰を下ろす。
イオネとパピも、控室の端に案内されていた。まだ緊張は残っているものの、先ほどより表情がやわらいでいる。
セレフィナは周囲を見渡した後、持ってきた荷物の中をのぞきこみ、小さく言う。
「粉はあるのよね」
私は顔を上げた。
「粉?」
「ええ。キッチンもあるし、簡単なものなら作れるわ」
エセルに頼んでキッチンを借り、少しだけ砂糖を分けてもらって、セレフィナは慣れた手つきで生地を混ぜ始める。
「今から作るの?」
「すぐできるわ」
初めて会った時も、戦いの後すぐにお菓子作りをしていた。こういう時でもいつも通り手を動かせるところが、セレフィナらしく、心強い。
温めた平鍋に、薄く生地が流される。
じゅ、と小さな音がして、やわらかな香りが立った。
「……クレープ?」
「具は大したものがないけどね」
セレフィナが薄く焼き上がった生地を返す。
淡い焼き色がついて、端が少しだけぱりっとしている。そこへ砂糖をほんの少し振って、折りたたんで皿にのせた。
私は一皿受け取り、口に入れた。コフクにも、私の分を少し分ける。
「おいしい。温かくて、甘くて、ほっとする」
特別に豪華なものではない。けれど、こうして焼いてくれた温かいものを食べると、不思議と胃の奥から心がほどけていく。
「それなら良かった」
セレフィナも自分の分をひと口食べて、少しだけ肩の力を抜く。
それから、イオネの方を見る。
「よかったら、あなたも」
イオネは少し迷ったが、やがて受け取った。
パピにも、小さくちぎった端を渡す。
「パピも」
蝶耳犬は小さく尾を振って受け取る。
イオネはひと口食べて、目を伏せた。
「……温かいですね。帝国にはないものです」
セレフィナは静かにお茶を注いだ。
「夫は、戦を広げず、食を豊かにすることを望みました」
再び沈黙が続いた。
でも、それは重たい沈黙ではなく、温かいお茶と、薄いクレープの甘さで安心した静けさだった。
セレフィナが小さく言う。
「すぐに一緒に帰るより、きちんと許可を整えて迎えに来た方がよさそうね」
私はうなずく。
「うん。マックスさんにも相談したい」
イオネが不安そうに顔を上げる。
「……ご迷惑では」
セレフィナは静かに首を振った。
「戦を止めようとした方は、味方です。今すぐ答えは出なくても、つなぐことはできると思います。だから、少し待っていてください」
パピがイオネの足元で安心したように耳を揺らした。
セレフィナが残りのクレープを、水魔法をかけた布に包む。
「作りたての方が美味しいのだけど、作り置きして魔法で包んでおけば、時間が無い時温めればすぐ食べられるわ」
箱の中で三つの色が並んで輝くのを見て、私は胸の奥で小さく息をついた。
黄の課題を越えた。
そして、守るという言葉の意味も、少しだけ前より深くなった気がした。
一つずつ。まだ、半分だ。
でも、私たちは確かに前へ進んでいる。




