第5話 ため息の理由と、光の国へ行く者
銀の手鏡を、私は膝の上でそっと傾けた。
丸い鏡面に映るのは、天井の梁と、少しだけ疲れた自分の顔。
映そうと思えば、別の誰かの“今”を映せるのだと母は言っていた。けれど、父を映すべきか、象たちの夫を映すべきか、それとも別の誰かを映すべきか――決められない。
でも、それよりも。
会えたのに、ちゃんと話せなかった……。
「……はあ」
思わず、ため息がこぼれた。
すると、すぐ近くから、よく似たため息が聞こえた。
「……はああ」
私は顔を上げる。
向かいの長椅子に座っていたセレフィナが、驚いたように目を瞬かせた。
私たちは同時に相手を見た。
「……」
「……」
先に吹き出したのは、フルールだった。
「ふふっ、何で二人とも、ため息ついてるの?」
明るい声と一緒に、盆の上の皿がテーブルへ置かれる。可愛らしい小花模様のお皿の上に、焼き菓子や小さなケーキ、ムース系の菓子が色とりどりに並んでいた。
「学校でセレフィナと私で練習してたら沢山できちゃったのよね。一緒に食べるついでに、どれが好きかとか感想教えて」
フルールはそう言って、自分もさっさと椅子を引いた。
出張所のテラスで、所員でもないのにお茶の支度まで済ませているあたり、妙に手慣れている。建物の中ではココットの声がするから、ココットと一緒に準備したのかなと思う。
セレフィナが少しだけ元気を取り戻す。
「前よりは、たぶん上達してると思う」
「うん、お店に出せるレベルだね。この、細い糸状の飴細工とか、プロっぽい」
私は手鏡をテーブルに置き、いくつかの菓子の中から気になるものを手元の小皿に取りながら言った。
「それね、この前学校の授業で習った技を使ってみたの」
私の横の席に座ったフルールが、私の顔と手鏡を見比べる。
「どうしたの? ビュートさんの伝手、だめだった?」
「ううん」
私は首を振る。
「紹介状はもらえたの。だから、光の国には行けることになった」
「じゃあ、良かったじゃない」
フルールが即答する。セレフィナも、少し明るい顔で驚く。
けれど、フルールはそのまま、ちらりと私の手元を見て、続ける。
「なのにため息……その、手鏡をくれた人が原因?」
私は少し迷ってから、うなずいた。
「うん」
「誰だったの?」
「……お母さん」
フルールの目が丸くなる。
セレフィナも、はっとしたようにこちらを見た。
「会えたの?」
「うん。風の国で」
そう答えた途端、胸の奥がまた少しだけざわつく。
フルールが顔をほころばせる。
「良かったじゃない」
「……そう、なんだけど」
私は手鏡の縁を親指で撫でた。
「何を言っていいか分からなくて。あんまり、ちゃんと話せなかったの」
会えた。やっと会えた。フィオラに会えたことは、嬉しかった。気付かないうちに心に蓋をしていただけで、たぶん、ずっと会いたかった。
なのに、私は聞きたいことも言いたいことも、うまく言葉にできなかった。そのことばかりが、帰ってきてからもずっと胸に引っかかっていた。
「嬉しかったことも、言えなかった」
「なかなか会えないの?」
フルールの問いに、私は首を横に振る。
「また、いつでも会えるって。風の国の商人に声をかければいいって言われた」
「じゃあ、良かったじゃない」
フルールは、さっきより少しだけゆっくり言った。
私は苦笑する。
「……良かったのかな」
フィオラは優しかった。紹介状もくれた。手鏡もくれた。またいつでも会いに来ていい、とも言ってくれた。
小さい頃から私を知っている親友のフルールに言われて、少しずつ良かったのだな、と思えてきた。
私は、向きを変える。
「じゃあ次、セレフィナは?」
「え?」
「そのため息の、理由は?」
セレフィナは黙り込んだ。
言うかどうか迷っている顔だった。
フルールが中身の少なくなったカップにお茶を注ぎながら言う。
「話したくなければ、話さなくてもいいけど。でも、リリは私に話して解決したみたいよ」
「確かに、フルールに話したら、今日は眠れそう」
セレフィナは小さく笑って、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
それから、意を決したように口を開く。
「……実は、リリがいない時に、お祭りの時の黒髪の男の人が来たの。」
私は目を瞬いた。
「黒髪の人って、あの、私に似てたって人?」
「そう。帝国の第一皇子のレオグリムだって、名乗ってた」
「帝国の、皇子? そうだったんだ……」
フルールが、驚いた顔で言って、私を見た。
セレフィナは手元の茶器を見たまま、続ける。
「会ったの。私のお菓子が気に入って、家族も気に入ったって、お菓子を買って、たぶんリリに会いたかったみたいだけど、いないと伝えた。それで、もっと話したいと言われて……その、突然」
そこで言葉が止まる。
フルールが首を傾げた。
「突然、何?」
セレフィナは、少しだけ頬を赤くして、両手で顔を覆う。
「……キスされた」
私は思わず手鏡を落としかけた。あわてて両手で握り直す。
「えっ」
「ファーストキスだったのに」
セレフィナの声は小さかった。
フルールが、目をぱちぱちさせる。
「えっ、えっ、何それ。二人、そういう関係だったの?」
「ううん、全く。ひどいでしょう!」
セレフィナが即座に言い返した。
「だって突然だったのよ。しかも、そのあと“一緒に来い”みたいなことを言い出して。意味が分からないし、父のことも思い出して、腹が立って……」
また少しだけ声が弱くなる。
「……咄嗟に、怒ってしまったの」
「兄が、ごめんなさい……」
思わず私は謝った。ほぼ知らない人だけれど、血縁者が迷惑をかけているのは心苦しい。
セレフィナがこちらを見る。
「やっぱり、お兄さんだったの?」
「たぶん、私の腹違いの兄。ビュートさんには母親と帝国に戻ったって聞いたけど……皇子になっていたのは知らなかった」
「リリを探しにきていたかも知れないけど、ただ血がつながってるだけじゃない。リリが苦い顔、する必要はない」
慰められているはずのセレフィナが慰めてくれて、私はますます申し訳ない気持ちになる。
フルールが、話を戻す。
「怒って当然だと思う。突然だし。お祭りで初めて会って以来でしょう?」
「……そうよね」
そう返しながらも、セレフィナの顔にはまだもやもやが残っている。
「で、嫌だったの?」
セレフィナが、黙る。
――嫌悪感はなかった。
「――でも、ファーストキスだったのに」
また同じところへ戻ってしまうあたり、本当に整理がついていないのだろう。
「でも、嫌いではないんでしょう?」
フルールがぽつりと言った。
「相手も、来るの簡単じゃないはずだし」
セレフィナは黙った。
たぶん、図星だった。彼のことを、嫌ってはいない。
「ずっと気になってはいた。助けてあげたいって思ってたかも。彼は、助けて欲しかったのかな……」
しばらくして、セレフィナが小さく笑う。
「ありがとう。少し気持ちの整理がついた」
「なら、良かった」
フルールが皿をこちらへ寄せる。
「はい。面倒な話は甘いもので休憩。食べて」
勧められて、私はひとつ取った。
表面はさくっとしていて、中は少ししっとりしているチョコレートのお菓子。甘さの奥に、ほんの少しだけ柑橘の香りがした。
「……おいしい」
素直にそう言うと、セレフィナが顔を上げる。
「本当?」
「うん。前よりずっと」
フルールもすぐに頷く。
「上達してるよね。私の作ったのも食べて」
セレフィナは少しだけ照れたように笑った。
その顔を見て、私は少しだけほっとする。
会えたのに話せなかった私と、会ってしまって怒ったセレフィナ。
どちらもすぐには片づかない。けれど、こうして同じ卓でお菓子を食べていると、それでも前へ進める気がした。
その時、廊下の向こうからココットの声がした。
「リリさん、会議の時間です」
私は立ち上がり、それから手鏡と紹介状を抱えた。
フルールが、残りの菓子を見下ろした。
「会議にも持っていく?」
「うん。せっかくだし、みんなにも食べてもらおう」
私は少し考えてから、二人を振り返った。
「あと、二人も同席しない? お菓子の感想も聞けるかも」
セレフィナが「えっ」と小さく声を上げたが、私はもう皿を持ち上げていた。
◇
出張所の会議室には、すでにいつもの出張所メンバーたちが集まっていた。
ビュートゥ、アンドロメダ、マックス、ココット、コフク。
私たちは卓に菓子の皿を並べた。
「お菓子までつくとは、しゃれた会議ですな」
ビュートゥが目を細める。
「あとで感想もお願いします」
私が言うと、マックスが笑った。
「それでセレフィナさんとフルールさんも連れてきたのかな」
少しだけ場が和んだところで、マックスさんに促される。
「今日は、報告から? リリちゃん、お願い」
私は封書と手鏡を卓の上へ並べてから、私は報告を始めた。
「昨日、ビュートさんと、風の国で、紹介状をもらってきました」
空気が変わった。アンドロメダが身を乗り出す。
「伝手って、風の国へ行ったのね」
「風の国で、リリア様のお母様にお会いしてきました」
ビュートゥが嬉しそうに加えた。
「これで、光の国――アルカルキス連邦には入れるはず」
私がはっきりと言うと、マックスが満足そうにうなずいた。
「となると、次は誰が行くか、だね」
マックスの言葉に、会議の空気が引き締まる。
「リリちゃんは確定だね。紹介状もリリちゃんと同行者になってるし」
私も、覚悟している。問題は、その先だ。
「アンドロメダも適任だと思うけど」
マックスが言うと、アンドロメダは少しだけ肩をすくめた。
「向こうが、闇魔法の使い手をどう見るか次第ね。あまり好まれないかもしれない。最初に行く時は、やめておいた方がよいかも」
会議室が少し静まる。
私はその時、隣のセレフィナを見た。今朝より落ち着いてはいるけれど、まだどこか気持ちが定まっていない顔をしている。ここに残っていたら、また余計なことを考えてしまいそうだ。
それに、象の夫たちや父を助けたい私と同じように、彼女もまた、闇魔法の力を持つ兄をどうにかしたいと思っている感じがした。
私は口を開いた。
「……セレフィナも、一緒にどうかな」
みんなの視線がこちらへ向く。セレフィナ本人まで、はっとした顔をした。
「私?」
「うん」
私は少しだけ言葉を選びながら続ける。
「光の国は、たぶん帝国みたいに危険な場所じゃない。浄化のことを知るなら、私より支援系が得意なセレフィナの方が向いてるところもあると思うし、私が火と風魔法、セレフィナが水と土魔法で、色々カバーし合えそうだし」
それは表向きの理由として、そして、ちゃんと本当でもある。
でも本心は、それだけではない。ここに残って、もやもやしたまま一人で抱え込むより、一緒に外へ出た方がいい気がした。
セレフィナは戸惑ったように私を見る。
「でも、私、出張所の所員じゃないし……」
「嫌なら無理には言わない」
私はそう言って、少しだけ笑った。
「でも、一緒に来てくれたら心強い」
しばらくの沈黙のあと、フルールが小さく手を挙げた。
「わたし、その案いいと思う。セレフィナならお茶とお菓子も用意できるし」
「今、それ? まあ、いつも持ってるけど」
セレフィナが呆れたように言ったが、会議室の空気は少しやわらいだ。
それから彼女は少し迷ったあと、小さくうなずいた。
「……分かったわ」
マックスも腕を組んでうなずく。
「少人数の方が、相手も安心するかもしれないね。リリちゃんとそのお友達で」
ココットも、うなずく。
「二人なら、経費も大丈夫です」
ビュートゥが咳払いを一つする。
「では、先行して向かうのは、リリア様とセレフィナ殿で、決まりですな」
私とセレフィナで、光の国へ行くことが決まった。
その先で、闇を解く手がかりを見つける。
セレフィナはまだ少し戸惑った顔をしていたけれど、それでも席を立たず、ここにいてくれた。
私は思わず、小さく息をつく。
それはもう、ため息ではない。
次に向かうための、一息だった。




