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竜国の姫らしいですが、田舎で静かに暮らしたい  作者: コフク
第三章 光の国へ――闇を解くために

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第2話 母との出会い

 出張所のあるエルント村から馬車で一時間弱。国境寄りの町、グリューネマルクトの市場は、朝から賑わっていた。


 果実の甘い香り、香辛料の香り、焼いた串肉の香ばしい匂い。

 装飾品や絵皿が並び、色とりどりの布が風に揺れ、荷車の車輪が石畳にきしむ。行き交う人々の声は絶えず、どこか遠い土地の言葉まで聞こえてくる。


 そんな喧騒の中を、ビュートゥは乗り合い馬車を降りるなり、人混みをすり抜けて、どんどん奥へ進んでいった。首元には、淡い蜂蜜色の薄絹のスカーフ。軽い布地は風を受けるたびにやわらかく揺れる。

 私はただその後を、はぐれないように気を付けながらついていく。

 市場の華やかな通りを抜け、少し奥まったところまできた。香辛料や、陶器などの露店が並ぶ、その一角、敷布の上に珍しい異国の布や雑貨を並べた露店の前で、ビュートゥが足を止めた。


 商品を前に、砂色の外套を着た男が、小さな椅子に腰かけている。

 年の頃は四十ほどだろうか。日に焼けた顔に、鋭い目。けれど商売人らしい柔らかさもある。男は近づいてきた二人を見て、にっこりと声を掛けた。

「何か気になる品がございましたか?」

 ビュートゥはにこりと笑う。

「少々、見ていただきたいものがありましてな」

「品の買取はあいにく、ここでは行っておりません」

「買取ではありません」

 そこでビュートゥは、首元のスカーフの端をそっとつまんだ。

 風に揺れていた薄絹の片端の刺繍が、陽の光の下にはっきり浮かび上がる。銀糸の流れるような文様にまぎれるように刺された、耳の尖った山猫の横顔。


 男の表情が変わった。商売人のにこやかな顔が消え、目が一瞬鋭くなる。

「……奥へ」

 男は立ち上がると、露店の後ろに止まる荷馬車の前へ私たちを案内した。


 馬車の車体の脇に、スカーフと同じ山猫の印が小さく描かれている。荷台には箱がきちんと積まれていて、御者台の脇には、淡い草色の外套を羽織った小柄な男が腕を組んで立っていた。


 露店の男が耳打ちすると、荷馬車の男ははっとした顔をして、ビュートゥを見る。

 ビュートゥが、またスカーフの端を見せて、言った。

「昔、フィオラ様にいただいたものです。お会いしたい」

 ビュートゥの声も、先ほどまでより少し静かだった。

 荷馬車の男は瞳をわずかに見開いた後、私の方をちらりと見た。

 視線が合った瞬間、ふっと笑う。

「……なるほど、分かりました。馬車へお乗りください」


(え、何? 何が分かったの?)

 私がビュートゥの顔を見ると、彼は小さくうなずいた。相変わらず、何も分からないまま、私は促され、馬車へ乗り込む。

 荷台の隅に空けられた席は思っていたより広く、香草と、何か異国の匂いがした。ビュートゥも続いて腰を下ろす。荷馬車の幌布が下ろされる。

 ほどなくして馬車が動き出した。


 市場のざわめきが少しずつ遠ざかる。

 その次の瞬間、馬車の外で風が巻いた。


 御者台に座った男が声を掛ける。

「少し揺れます」

 ひゅう、と風の流れが変わった。

 馬車のまわりをぐるっと回るような、不思議な風。

「……ビュートさん」

「入ったようですな」

「入ったって……どこに?」

「風の道です」


 その答えの意味を考える間もなく、馬車が一度だけ大きく揺れた。

そして、静まる。


 再び馬車が走り出すと、外の空気そのものが変わっているのを感じた。乾いた土の匂いと、清々しい草の香りが、隙間から馬車の中へ流れ込んでくる。

 やがて馬車が止まった。

「着きました」

 男が後ろに回って、幌布を上げる。

 私は荷台から降り、思わず息を呑んだ。


 そこは、さっきまでの町外れではなかった。


 緩やかな草地を風が吹き抜け、向こうの方に、いくつもの天幕が並んでいる。

 白や砂色の布で作られた大きなテントは、どれも風を受けて静かに膨らみ、まるで呼吸しているようだった。長い旗が何本もはためき、その先には銀糸で刺された風の渦や羽根の印が揺れている。


 天幕のあいだを、人々が静かに行き交っていた。

 衣は袖も裾も長いのに軽やかで、色は白や草、砂を思わせる淡いものが多い。穏やかだが、様々な荷物を天幕から馬車に運び入れ、また積み出している。商人たちの場所なのだと、ひと目で分かった。


「ここは……」

 私が呟くと、ビュートゥが穏やかに答える。

「国土を持たない商人たちの国家、ヴェルティア風商連盟――通称風の国です。ここは、その中継地と見えますな」

「風の国……?」

 静かに吹く風や、人々の魔力が、どこか心地良い。

 初めて来たはずなのに、私の体を流れる何かが、ここを知っている気がした。


 馬車の男が手を差し出した。

「こちらへ。お訪ねの方がおられます」

 その言葉に、心臓が、強く打つ。


 男に導かれて、天幕の列の間を進む。

 一番奥に、他より少し大きなテントがあった。

 白い布地に、薄金の縁取り。入口の左右には、風の渦とあの山猫の横顔の印。

 男は入口の前で足を止めた。

「お連れしました」


 中からすぐに返事はなかった。

 代わりに、布の向こうで何かがすっと身じろぎした気配がした。


「どうぞ」

 やがて、女の声がした。

 澄んでいて、静かで、けれど胸の奥にまっすぐ届く声だった。


 布がひとりでに持ち上がる。

 私はビュートゥに促され、一歩、中へ入った。


 テントの中は、外から見た以上に広く、静かだった。

 薄黄色の敷物の上に低い卓が置かれ、香の淡い匂いが漂う。布越しに差し込む光は柔らかく、布の壁が風で少しだけ揺れていた。


 そして、その奥に。

 一人の女性が腰掛けていた。

 少しだけ白髪の混ざった淡い金色の長い髪がやわらかい風に撫でられるように肩を流れ、淡い黄色の衣の袖が静かに膝の上へ落ちている。琥珀を思わせる瞳は穏やかだが、ぴんとした空気があった。


 その隣には、あの紋章そっくりの山猫がいた。

 中型の、しなやかな身体。毛並みは風に溶けるような淡い色で、長くとがった耳の先がぴくりと動く。女性より少し濃い琥珀色の目が、まっすぐ私を見た。

 山猫は声を出さない。けれど、その眼差しだけで、警戒していないことは分かった。

 女性もまた、私を見つめていた。

 じっと、確かめるように。


 やがてその人は、静かに立ち上がった。

 私と同じ位の、小柄な女性。

「……大きくなったのね」

 その一言で、私の胸の奥にしまっていた何かが、ふいにほどけた。

 でも、何を言えばいいのか分からなかった。不意打ち過ぎて、まだ整理できていない。

 ただ、その人の声を聞いた瞬間、ずっと昔に聞いたような気がした。輪郭も、袖からのぞく手首や手も、どこか私に似ている。


 隣で、ビュートゥが静かに頭を下げる。

「お久しぶりですな、フィオラ殿」

 女性――フィオラは、ビュートゥを見て、かすかに微笑んだ。

 そして、ビュートゥは、私を見て言った。

「姫、お母上のフィオラ様――フィオラ=エル=ヴェント様です」

 彼女はもう一度私を見た。

 今度は母として。


 山猫が立ち上がり、私の方へ一歩だけ近づく。

 鼻先が空気を探るように動き、それから低く、短く喉を鳴らした。

『うん。確かに、フィオラの娘だわ。同じ風の匂いね。別の匂いもするけど……』

「竜の匂いですね」

 私が答えると、山猫が驚いた顔をした。

『えっ……私の言葉が、分かるの?』

 元から大きな目がますます大きくなる。

「はい。隣にいるビュートさんも分かります」

 私がそう言って隣を見ると、ビュートゥもうなずいた。


「ネフェウも、何か分かったみたいね」

 フィオラがそう言い、私は改めて彼女に向き直った。

「……あなたが、」

 喉が少しかすれる。

「私の、お母さん……ですか」

 テントの中に、風がひとつ吹き抜けた。


 フィオラはすぐには答えなかった。

 代わりに、私から目を逸らさないまま、ゆっくりと頷いた。

「ええ」

 その一言は、短かった。

 でも、その一言に、胸の奥が熱くなる。目元に涙が浮かぶ。

 嬉しいのか、悲しいのか、自分でも分からない。ずっと前から、何度も会いたいと思ったことがあったはずなのに、突然過ぎて、気持ちも言葉も準備ができていない。

 ネフェウが黙ったまま、一歩、近づく。私の手元へ寄り添うように、鼻先を寄せた。その温かさに、私は反射的に指先を動かす。


「まずは座って」

 フィオラが、静かに言う。

 私は小さくうなずき、母の向かいのソファーに腰掛けた。ネフェウがするりと私の膝に乗ってくる。

 ビュートゥも隣のソファーに腰を下ろし、そっと息をつく気配がした。


 フィオラが、やわらかく言う。

「さあ、話しましょう」

 

 テントの外では、風が旗を揺らしている音がする。

 ここまで導いてくれた風の音だった。


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