第17話 フィシエーラ国王の帰還と、囚われた王の噂
帝国との国境近くの丘に立ち、アルブレヒトは馬上から戦場を見渡した。焦げた草と、血と、土の匂いが風に混じって届く。焼けた畑と残った杭、倒れた馬車、武器の残骸。戦は勝っても負けても、必ず何かを奪っていく。
フィシエーラ国王――アルブレヒト・フィシエーラは、手袋のまま指を握り込んだ。胸の奥が、静かに凍る。小競り合いの中、また自国の兵士が命を落とした。遺品を彼の家族に届けるよう命じる。
「陛下」
背後から声をかけてきたのは、古参の近衛長だ。目の下に影が深い。皆、同じだ。
「そろそろ日が暮れます。お戻りください」
近衛長と共に天幕の中へ戻ったあと、アルブレヒトは地図を広げた。ランプの光が、羊皮紙の上に揺れる。今回は帝国から仕掛けられ、帝国との国境線を越えた。だが、押された分は押し返して、戻る。それだけで、深入りはしないと決めていた。
そこに、密偵の頭が、音もなく入ってきた。
「陛下、よろしいでしょうか」
「ああ、話せ」
密偵の頭は跪くと、言葉を選びながら、話し出した。
「噂が、ございました。竜国の……王が、まだ生きていると」
アルブレヒトは、地図から目を上げた。視線が空中で固定されたまま、動かない。
竜国は滅びた。帝国に、滅ぼされた。そしてその時から、竜国の王の姿も消えている。――殺された可能性が高いと言われていた。
だが"生きている"という言葉にも、信ぴょう性がある。誰よりも強いあの男が、死ぬとは思えなかった。
「……誰が言った」
密偵の頭は一瞬だけ息を呑み、さらに言葉を継いだ。
「帝国のある傭兵が、帝国の内側で、奇妙な動きがあると。"竜の王を運んだ"と……酔って喋りました。念のため、他の密偵にも探らせたところ、別のルートからも、似たような話が上がっております」
酒の席の噂。相手が重要な情報を持つような者かも分からない。それでも――
アルブレヒトは、青みがかった銀色の口髭に左手で触れる。
竜国王――スタルクリクは、友だった。
◇
かつて。まだ帝国が今ほど大きくなる前、各国が互いの境界を測り合いながらも、フィシエーラの北に隣接する竜国とは良い関係を続けており、祝い事の際にはお互い行き来した。
初めて会った夜、二人はまだ青年だった。スタルクリクは挨拶もそこそこに、持ってきた酒を差し出してきた。『堅苦しいのは苦手だ』と言って。アルブレヒトも笑って受け取った。それが始まりだった。
酒場のような城の客間で、スタルクリクは豪快に笑った。大柄で、黒い髪に赤い目、黒い指輪に細い鎖を通したネックレスを首にかけ、炎のように喉を焦がす強い酒を飲んだ。スタルクリクが指先で灯した小さな火を、アルブレヒトが水で包んで消し、二人は子供みたいに笑った。家族の話もした。火と水。真逆ともいえる魔力だが、平和を好み、家族を愛する真の部分は似ていて、心から打ち解けた。
最後に会ったのは、スタルクリクに娘が生まれ、祝いに駆け付けた時だった。『俺と同じ、赤い目をしている。赤き竜を継がせる』と、嬉しそうに言った。
ちょうど同じ年に、アルブレヒトにも三女セレフィナが生まれていた。
『娘たちももう少し大きくなったら一度連れてこい。娘に会わせたい。竜も見せてやる』
その言葉を、アルブレヒトは忘れたことがない。心から楽しみにしていた。――だが、その約束が叶えられることは無かった。
十数年前、竜国は滅んだ。
あの夜の空を、アルブレヒトは今も覚えている。遠く東の空が、黒く染まった。雷のような音が、風に乗ってきた。翌朝、早馬が来た。竜国が、帝国に敗れた、と。
(生きているなら――)
帝国に抗うために。戦を終わらせるために。そして何より、友を闇の中に置き去りにしないために。
「再度、調査を進めろ。救えたならば、フィシエーラの力にもなる」
アルブレヒトは、即座に命じた。
傍に立つ近衛長も頷く。言葉は無いが、目が熱を帯びた。彼もまた、竜になったスタルクリクの強さを知っている。
◇
数日後。数週間後。戦の合間に挟まる報告は、細切れにしか集まらなかった。
――帝国領内で、他国の王だったという噂の囚人の輸送を手伝った。
――厚く黒い布で覆われた檻を運んだ。重要な人物だから大事に運べと言われた。
――闇の魔力で厳重に封じられていて、詳細は伺えない。
具体的な場所の名は出ず、道筋も曖昧で、証言した者にその後会うことは無かった。それがかえって、アルブレヒトの胸に確信を生んだ。――帝国は隠している。生きた、大事な誰かを。
ただ、一つ、共通して出てくるものがあった――「塔」。スタルクリクは、どこかの「塔」にいて、その周辺で定期的に輸送され続けているのだろうか。
アルブレヒトは、夜毎、天幕で地図を広げた。口髭を指先で何度もなぞった。塔のある場所は、どこか?
だが、どこにも「決定打」がない。恐らく、入ることが難しい、帝国深くか――
◇
「陛下、王妃様からです」
王妃マリオラの侍女から託された密書が届いたのは、その夜だった。封は確かに、王妃の印だった。
先日、調べたいことが出て帰還が遅れる見込みだという一報を、こちらから王妃に入れたばかりだった。だが、強い精神を持つ王妃は、滅多なことでは連絡をすることがない。アルブレヒトは、紙を開く手が一瞬だけ震えるのを感じた。
そこには、王都で起きたことが短く書かれていた。内政を任せていた重臣が、帝国と内通している疑い。「王が急死した」という噂を、城内に流していること。そして――王女たちは亡命させたが、マリオラは動けない状態であること。次女だけ密かに戻ってきたこと。
(背後が、崩れる)
これ以上王の不在が続けば、フィシエーラは内側から裂ける。裂けた瞬間、国は帝国に飲まれる。王妃の命は確かでなくなり、娘たちは、戻る場を失う。
アルブレヒトは、額に手を当てた。
(スタルクリク……)
友を救いたい。だが――。
友を救うために、自分の国と家族を差し出すことは、王のやることではない。それは、ただの自己満足だ。
夜の外で、風が唸った。天幕が揺れ、灯りが一瞬だけ細る。
アルブレヒトは、地図を畳んだ。ゆっくりと。口髭に触れる手が、止まった。
「……ここまでだ」
言葉にした途端、胸が裂ける気がした。スタルクリクの笑い声が、友との約束が、脳裏に蘇る。
(お前と共に、帝国に抗いたいと……そう思った)
アルブレヒトは近衛長に命じた。
「撤退準備。国へ戻る。友の件は、引き続き水面下で探る」
近衛長は王の気持ちを察して一瞬だけ悔しそうに目を伏せ、一礼した。
「……御意」
アルブレヒトは決めた。スタルクリク救出は断念する。今はまず、自国の政権を取り戻す。足元を立て直せば、次に動ける。
◇
翌朝早く、馬上から一時だけ、帝国の中心に向かい、振り返った。
(友よ、どうか無事でいてくれ――)
そして、撤退の列は歩き出した。灰に塗れた戦地を背に、フィシエーラ城へ向かう。
帰還の途中、次女と合流する手はずが整えられていた。森の外れ。古い礼拝堂跡。そこで待っていたのは、次女リオネッタだった。
濃い青の髪を高い位置で結いあげ、日焼けした肌。兵の装いに外套を羽織っている。目は青く、その奥に、王を継ぐものとしての覚悟が宿っている。フィシエーラ王家の血を強く引く、自分と一番似ている娘だ。
「父上」
リオネッタはまっすぐに立ち、父を迎えた。
「城は、裏切り者に握られています。けれど、お母様が"王の印"を守っております」
アルブレヒトの喉が鳴った。王の印――それは王権の象徴だ。
「マリオラは……無事か」
「はい。表向きは病。ですが、それは王の印と身を守るため。自由に動くことはできませんが、元気にされています。密かに国に戻った私が代わりに動いております」
アルブレヒトは、娘の言葉の重さを噛みしめた。――間に合った。
リオネッタが短く言う。
「私は一度別れ、秘密通路から城の中心に向かい、お母様の安全を確保します」
裏切り者は帝国の支援を受けている可能性が高い。無事の帰還を演出したいが、マリオラを人質に取られてはいけない。
「王妃は任せた。では、これより王都へ戻り、王城を奪還する」
◇
それから、わずか一日で、フィシエーラは取り戻された。
アルブレヒトは王の無事の帰還を人々の目に焼き付けながら、軍の力を持って易々と進んで行った。
そして、最後の扉の前で止まる。そこにいるのは、内政を任せていた重臣――“王の急死の噂”を流した男だった。
重臣は引きつった笑みを浮かべた。人質にするつもりだった王妃マリオラも、亡命したと思っていたリオネッタと共に、アルブレヒトの後ろに立っていた。
「陛下、ご無事でしたか。もう戻らぬかと――」
アルブレヒトは、その言葉を最後まで聞かなかった。
「私の不在を使って、国を売るとは」
男の顔色が変わる。
「誤解です! 私は――」
「証拠もあります」
マリオラが言い切った。
「封印の間の水時計に、記録が残っています」
重臣の喉がひくりと鳴った。
その顔を見て、アルブレヒトは短く命じた。
「封印の間へ」
◇
一同は地下倉庫の奥、通常は王家の者しか入れぬ封印の間へ移った。
石造りの冷えた部屋の中央には、王の印を置くための台座。そして隅では、古い水時計が絶えず水を落としていた。
重臣は険しい顔でそれを見た。
「……ただの時計ではありませんか」
マリオラが、かすかに首を振る。
「ええ。あなたには、そう見えていたのでしょうね」
水時計は、何層にも重なる透明な水盤と、細い管で組まれていた。上から落ちた水が静かに溜まり、また流れ、長い時を刻み続けている。
「この水時計には今、王の印に関わることだけが記録されています」
マリオラは静かに続けた。
「設定できるのは王だけ。一度定められれば、記録は絶えません。閲覧できるのは、王と、正統な王家の者のみです」
重臣の顔から血の気が引いた。
アルブレヒトは、その表情を見て確信した。この者は、何も知らなかった。王家の中枢を奪おうとしても、代々王家のみに伝わる大切な仕組みを理解していなかった。
マリオラが水盤の縁に指を触れる。すると、水が逆らうように静かに逆流し、表面に淡い光が走った。
次の瞬間、封印の間の中央に、水の像が立ち上がる。そこに映ったのは、マリオラだった。
アルブレヒトが遠征へ出て間もなく経った頃、王が亡くなったという話を告げられた直後。一人、疲れ切った顔で、それでも真っ直ぐに台座の前へ立ち、王の印を両手で抱えた。
重臣が、息を呑む。
水の像の中で、マリオラは短く告げた。
『奪われないよう、しばし形を変えます』
そして、床に叩きつけるように落とす。青い印が光り、砕けた。
「あっ!」
重臣が、思わず息を呑んだ。
アルブレヒトもまた、目を見開く。
水の像の記録は、まだ続く。
マリオラが複数に砕けた欠片に手をかざすと、欠片が四つにまとまった。一人の侍女が後ろから武器を一つずつマリオラに渡し、マリオラはそれぞれの欠片一つずつを、武器の宝珠に埋め込んでいった。
『娘たちに託します。フィシエーラが戻る日まで』
像が揺れ、消えた。
そして、水の像は、さらにまた別の記録を映し始めた。
重臣が、くっと声を漏らす。像が次に映し出したのは、重臣と、少数の部下の姿だった。
『……何もありません。台座が、空です』
重臣は、自らも何度も確かめ、部下にも周囲をくまなく検めさせた後、ゆっくりと息を吐いた。
『図られた……王妃め』
重臣は、部下に命じた。
『王妃に気づかれないよう、わしの私兵団に命じて、王女たちを追え』
像が揺れ、消えた。
重臣は言葉を失っていた。
「これで、お分かりでしょう」
マリオラが言う。
男の唇が震える。
「王の印を……まさか、砕くとは……」
「ええ。必要でしたから」
そこで、今度はリオネッタが一歩前へ出た。青い目が、まっすぐ重臣を射抜く。
「あの後確かに、私たちはあなたの私兵に襲われました」
重臣が、はっと顔を上げた。
「何のことだ」
「亡命の道中で。私たちから、王の印を奪うつもりだったのでしょう」
リオネッタの声は冷静だった。感情ではなく、事実で責める。
「証言も取ってあります」
部屋の後方の兵が、後ろ手に縛られた、重臣の私兵を連れてきた。
「な……!」
重臣の声が崩れた。
アルブレヒトは、低く言った。
「私の不在を使って国を売り、王妃と王女たちまで始末しようとしたか」
「いえ、私は国のために――」
「牢へ」
その一言で、兵が動いた。男は引きずられ、叫び、やがて声が遠ざかる。
マリオラが、ふうっと息を吐く。アルブレヒトは振り返り、その肩を抱いた。
「よく守り抜いてくれた」
「あなたも、……よく無事に戻られました」
アルブレヒトは、短く頷いた。
重臣の下、帝国と繋がっていた他の者たちも、次々に牢へ入れられた。マリオラが丁寧に集めていた証拠が活きた。
◇
アルブレヒトとマリオラ、リオネッタは、重臣が連れ出されたあともそのまま封印の間に残った。マリオラの顔は少しやつれている。だが目の強さはそのままだ。
マリオラの侍女が、奥から小さな箱を大事に持ってきて、テーブルの上に置いた。箱を開けると、中には四つの石の欠片が収められていた。
「これが……王の印か?」
バラバラに砕かれた欠片を前に、アルブレヒトが固まる。
「先ほどお見せした通り、娘四人それぞれの武器に埋めて持たせていました」
マリオラはそう言って、にっこり笑った。
リオネッタが続ける。
「亡命先でアグラール王の叔父様が、武器から欠片を分けたのを、戻るときに持ってきました」
「いや、そうでなくて――」
アルブレヒトは続く言葉が出ない。――これは、大丈夫なのか? 目だけが語る。
マリオラが前に出て、手を欠片の上にかざす。
温かな光があふれたかと思うと、砕かれていた欠片が震え、互いを探すように寄り、重なり、溶け合っていく。
やがてそこに残ったのは、一つの青く丸い透明な石――フィシエーラ王国の王の印だった。
「アグラール王家の力で、元に戻せるのだったか」
アルブレヒトは、ふっと一息ついた。
アルブレヒトは、胸の高さに王の印を掲げる。透明な石は、王の水魔法の力を得て、青く輝き始めた。王はそれを、空になっていた台座の上に静かに置く。
――瞬間。台座下の床に青く光る魔法陣が現れ、空気が変わる。
ほころび始めていた王城全体を包む結界が、淡く光り、元の力を戻した。フィシエーラの城が、ようやくあるべき姿に戻った。
張り詰めていた空気が、ようやく少し緩む。
マリオラは、封印の間の隅で静かに水を落とし続ける時計に目をやった。
「あら、もうこんな時間。こんな時ですが……お茶にしません?」
◇
広間へ移ると、ダイニングテーブルを前に、アルブレヒトは二人を見た。
「心配をかけて、悪かった。実は戦の最中、竜国王が生きているという噂を掴んだ。救いたいと思い、噂を追ってしまったが……この国の危機を生むとは」
リオネッタが疑問を返す。
「竜国王……?」
「ああ。十数年前に帝国に滅ぼされた、竜国の――王だ。生きている可能性があるという、噂が入った。大事な、友だった」
マリオラは目を閉じ、短く言った。
「友を……救いたかったのね」
「今は、救えなかった」
アルブレヒトは、思った。今は、だ。
その時、リオネッタが、はっとした顔をした。
「そういえば父上。アグラールへ亡命する際、赤い竜に助けられました。それと……その竜を呼んだという少女にも会いました」
アルブレヒトの手が止まった。
「……その少女は、どのような子だ」
「黒髪に、赤い目でした。今セレフィナがいる、アグラールの小さな村にいます」
王は、すぐには言葉を返さなかった。
スタルクリクと最後に会った日の言葉が胸の奥によみがえる。
『赤い目をしている。赤き竜を継がせる』
「――まさか、あの時、彼が話していた娘か……?」
「セレフィナは同い年のこともあって、仲良くしているようですよ」
リオネッタが添える。
自分勝手に友を救おうとした。そのせいで、家族も、国までも危機に瀕した。
もしかすると、竜国王生存の噂さえ、帝国が自分を誘い出すために流した餌だったのかもしれない。
愚かだったかもしれない。それでも――。
思いがけず、何かが繋がった。
「アグラールへ文を出す。アグラール王へは感謝を、エリシアとミリエルにはこちらの状況、無事取り戻したことを知らせよう。そして……セレフィナへは、状況と、竜国王の噂があることも」
開け放した窓辺に、白い影がふわりと舞い降りた。コフクだった。
三人の視線が、一斉にそこへ向く。
(友を、救うことができなかった。けれど、いつかきっと――)
アルブレヒトは、拳を硬く握りしめた。




