第18話 竜になれない者たち――塔へ
コルドミリティ帝国の玉座の間は、相変わらず空気が冷えていた。黒曜石の床は冷たく、高い天井に灯りはあるが、闇がその光さえも吸い込むように支配している。
玉座にあるのは、紫の、皇帝の瞳。玉座の上方、鎖のかかった梁には、一羽の巨大な烏、皇帝の人工烏、ディキオが静かに止まっていた。さきほどレオグリムを部屋から呼び出したあと、何事もなかったように戻っている。
皇帝の足元に、第一皇子レオグリム――レオは膝をつく。肩には、相棒の烏、ウィンクルム――ウィンが静かに乗っている。
背筋を伸ばし、呼吸を整えようとする。その胸の奥には、まだ熱が残っていた。
焼きりんごの甘い香り。
指先の触れた瞬間の温度。
笑顔の温かさ。
――そんなものを持ち込む場所ではない。ここにあるのは、冷えた空気だけだと、レオは小さく首を振った。
「報告を」
低い声が頭上から落ちる。
レオは跪いたまま、答えた。
「竜化の方法は、まだ掴めておりません。竜の血を持つと思われる少女を見ましたが……逃しました」
「少女」
皇帝が、遮った。
「竜になれる少女か」
「……詳細は不明です。引き続き、探ります」
頭を下げたまま、拳を握る。
「探る? お前に求めるのは、結果だ」
玉座の上で、皇帝は指先を組み、わずかに首を傾げた。
「竜国王の血を引くからと竜国から連れ帰ったのを受け入れ、息子にしたというのに――いつ期待に応えるつもりだ?」
レオは拳を握り直した。
闇の圧力に、掌に爪が食い込む感覚だけが、辛うじて意識を繋ぎ止めた。
「……申し訳ありません」
沈黙が落ちた。
ディキオが、わずかに首を傾けた。目だけが動く。記録しているのか、あるいは計算か。感情が感じられない気味の悪さがあった。
皇帝は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。背を向け、窓の方へ歩く。
「……一つ、教えてやろう」
その声の温度が、少し変わった。
餌を与える前の、静けさ。
「ずっと、隠していた。出来れば、会わせたくなかったが……帝国の塔に、竜国王がいる」
レオは思わず、顔を上げる。
「十五年以上、生きている。スヴァルト――黒竜になれると言われた、竜国王だ。会うか」
レオの視界が、ほんの僅かに揺れた。
――竜国は滅んだ。王も死んだ。そう教えられてきた。
だが、皇帝は今、確かに “生きている”と言った。
その言葉が、深く刺さる。
ならば、なぜ自分は今まで探り続け、苦しんできたのか――。
皇帝は問いを許さない。
「どうすれば竜になれるのか。知りたいのだろう?」
「……はい」
「ならば、口を割らせろ。それで竜になれぬなら、別の価値を示せ。それだけだ」
皇帝の言葉に、温度は無い。ただの宣告だった。
皇帝は背もたれに深く寄りかかり、命令を下した。
「影よ――塔へレオグリムを連れて行き、『黒竜』に会わせろ」
皇帝は軽く顎を動かした。
玉座の脇に控えていた、影の男が一歩前へ出る。
その背後で、ディキオが羽をわずかに動かした。羽音が重い。
謁見は終わった。
そして――鳴かぬ烏の羽音に追い立てられるように、レオは塔へ向かう。
◇
廊下を歩きながら、レオは自分の手を見た。掌に、まだ爪痕が残っている。
(竜国王が生きている)
レオは物心ついたころから、母に、また養父である皇帝に、お前は竜国王の血を引く者、竜になる力を持つ者、と言って育てられてきた。
だが、どれほど努力をしようとも、竜になれる気配はない。
祭りの日にすれ違った、あの少女は、赤い瞳を持っていた。竜国の王族と同じ色。そして、近づいた時の、あの"燃える感覚"。何かが確かにあの瞬間、胸の奥で動いた。
自分の瞳は、闇の国の母と同じ、紫。髪はあの少女と同じ、黒。竜国の色だ。だが、それでは足りないのか。それとも、他に何かがあるのか。
答えを知っている者は、「塔」にいる。
そこで、答えが得られるのか、得られないのか。
答えが得られたとして、自分は竜になれるのか、なれないのか。
そして、
(なぜ、竜国王は竜にならずに、十五年も帝国の塔の中にいる?)
『怖いか? 震えているぞ』
肩の上のウィンが声をかける。
「黙れ。武者震いというやつだ」
影の後を追い、ディキオに追い立てられ、レオは塔へ向かう。
長い石の廊下に、コツコツと硬い足音と、冷たい羽音だけが響いていた。
◇
塔への道は、帝都の外縁を迂回していた。石畳が途切れ、土の道になり、やがて黒い塔が見えてくる。窓が少ない。高い。周囲に木がない。空だけが、塔のてっぺんで切れている。
ウィンが肩の上で、わずかに羽を震わせた。
『……嫌な匂いがするな』
「何の匂いだ」
『古い鉄と、焦げた石。汗』
レオは足を止めなかった。
塔の前に、衛兵が二人。レオを見て、片膝をついた。
「皇子殿下。ご案内します」
鉄の扉が、重く開く。
中の空気が、外と違った。湿っていて、古くて、何か別のものが混じっている。長年閉じ込められた何かの、匂いか。
衛兵に案内され、螺旋階段を下りる。地下だ。
灯りが減っていく。石の壁に、小さな灯りが等間隔に並んでいるが、光は進むほどに弱く沈んでいく。
やがて廊下の奥に、一つの扉が現れた。鉄か何かの重い金属だ。表面には細かな紋様が刻まれている。 魔力を封じる類いの術式だ。
衛兵が言った。
「こちらでございます。中には、お一人でお入りください。扉は外から閉めます」
「分かった」
レオは衛兵を下がらせた。
扉の前に、一人で立つ。
ウィンが肩の上で、息を潜めている。
扉の向こうからは、何も聞こえない。
――しかし、何かがある。圧力のような、重さのような、空気ではなく、「存在」が扉を通して伝わってくる。
ウィンが言った通り、古い鉄や、焦げた石の匂い。
ゆっくりと、扉の取っ手に手をかけた。
「開けるぞ」
自分に言い聞かせるように、呟き、引いた。
扉が、重く開いていく。
闇の奥で、何かが動いた。
音ではなく、気配、圧が、空気を変えた。
そして。
赤い目が、二つ。
闇の奥で、静かに灯った。
◇
窓も小さく暗い、硬い石壁に囲まれ、石と鉄の匂いに満ちた狭い牢。時折、闇魔法独特の、紫の匂いが混じる。
竜国王は、大きな身体に比して小さめの、硬いベッドの上に座り、壁に背を預けたまま、目を閉じていた。
ここは居心地の良い場所ではない。その中で、十五年という、長い時間が経った。
ずっと闇の中で過ごしていると、感覚が研ぎ澄まされてくる。
遠くの扉が開く音。
通路を歩く靴音。規則正しい、二人の足音。あとは――飛ぶ気配だけ。
(誰かが、来る。ディキオと……誰か)
期待はしないと決めている。期待をして外せば、心が削れる。
けれど、今日の音は、少し違った。
いつもの、定期的な輸送の時の者たちとは違う、強い足音が、近づいてくる。何年か前まで時々様子を見に来ていた皇帝の、静かで不気味な足音とも違う。
(若い、男だな)
足音が、扉の前で止まる。
鍵が回る。
重い扉が音を立てて動く。
竜国王はゆっくりと目を開けた。赤い瞳が闇の中で光る。
――その気配だけで分かる。
(竜の血)
胸の奥に、抑えていたものが静かに湧く。
ずっと遠ざけてきた感情。
(……やっと、会える時がきたか)
竜国王は闇の中で、微かに笑った。




