第百三十九話 ちゃんとした、さよなら
ふわりと羽が舞うように倒れかけたアークエンデの体を、俺は慌てて抱き支えた。
「アークエンデ、アークエンデしっかりしろ!」
必死の呼び声に、彼女の閉じていたまぶたはあっさりと開き、
「あら……わたくしったら何を……? お父様、オーメルン? 何だか記憶が……」
「覚えてねえのか!? お嬢様、超凄かったんだぜ!」
興奮したオーメルンが横からそう呼びかけても、アークエンデはまだ半分眠ったような声で、「何だか声が聞こえて……。それからとても爽快な夢を見たような……」
さっきのは半分無意識の状態だったのか? 確かに彼女の態度はどこか神秘的なものが感じられたが……。
「アイオーンは……? スノーカインはどうなりましたの……?」
「アイオーンは君がはるか彼方までぶっ飛ばした。もう戻っては来られない。スノーカインも――」
「無事」
横からにゅっと顔を出したスノーカインを見て、アークエンデは疲れた顔に安堵の笑みを浮かべた。
その態度に俺たちも笑顔を交わし合う。
勝った。俺たちはアイオーンに、そして天の計に勝ったんだ。
もう何も心配はいらない……。
「雪……?」
不意に、俺の腕の中でアークエンデが腕を伸ばした。
彼女の指先についた白いものは確かに雪のようだった。
こんな地下で?
俺は天井を仰ぎ、そして言葉を失った。
確かに雪が舞っている。
似たような景色を俺は見たことがあった。
煉界に舞う、死者たちの灰。
それは地下の天井付近を回遊する人間族の霊魂たちからこぼれていた。
「これ……愚者の砂……?」
ベルゼヴィータが呆然とそれを見つめながらつぶやいた。
愚者の砂。魔導錬金の窮極で、あらゆる物質からエネルギーを抜き去った後の廃棄物。
それが霊魂から降ってきている、ということは――。
「ダメ、みんな、待って……!」
積もり始めた灰の雪の中で、必死に呼びかける少女がいた。
そんなスノーカインの頭上から声が降りて来る。
「成し遂げた――」
「我らの信念――」
「すべて、すべて……」
煉界適応化には魔導錬金の奥義が使われていたのだ。人間族は意志を持つ高エネルギーの存在となった。
その志は見事に果たされた。アイオーンという最強の天使を放逐することで。それが彼らの生存理由。存在理由、力の源泉、だった。つまり、それが完了したということは……。
「どうして! そこまで力は使っていないはず……」
スノーカインが悲痛に叫ぶ。
さっきのアークエンデとの合体必殺技。ちゃんと消費をセーブして使われていたのだ。だが、降り注ぐ灰は止まらない。
「誰か、何か……そうだミアズマ……」
助けを求めるように視線を巡らすスノーカインに、俺たちは何も言えなくなっていた。
「ここにはないわ。それに多分、あったとしても……」
ベルゼヴィータがそう言葉を濁し、目を伏せる。
人間たちはすべてを使い果たした。力も、意志も。
降り注ぐ満ち足りた言葉たちがそれを物語っている。もうここにいる理由はない――。
「そんな……。待って! 置いていかないで!」
唯一、スノーカインだけは体から灰を落としていなかった。純粋なエネルギーの塊である霊魂に対し、巫女はより実体に近い存在だった。
「お願い、一人にしないで……! みんな…………お姉ちゃん……!」
彼女が泣きながら懇願するのを、俺たちはただ黙って見ていることしかできなかった。
霊魂たちは満たされた思いを吐露するばかりで、彼女に別れの言葉すらかけてはくれない。
灰は雪のように絶え間なく降り続けている。彼らが薄れゆくのを感じた。
ちくしょう。本当に何もできないのか。人間を助けるためにここに来たのに、何一つとして。
何か。何かないのか。このままでは何も残されない。俺たちに、何よりスノーカインに。孤独な哀しい巫女が一人残されるだけ――。
“…………”
その時だった。俺の体をすり抜ける細く小さな魂があった。かすかな囁きが内側に響く。それは単なる息遣いのようでもあったが、意味のあるもののようにも思えた。今のは一体……いや、もしかして……!
「待ってくれ!」
俺はスノーカインの隣に立ち、人間たちに向けて叫んだ。
「俺のところに来い! きっと……繋げられる……!」
俺の言葉が届いたのか、それとも彼らの最後の本能によるものだったのか。
無数の気流となった霊魂たちが俺のまわりを取り囲む。体を通り抜けていく霊魂たち。重みも、痛みもない。だが、確かに流れ込んでくる。そうか……そうだったのか……。
繋げられるか。繋げられるさ。
俺はイヨルであり。人間だ。
「スノーカイン」
俺は、呆然としていたスノーカインを抱き締めた。
「パパ……?」
「聞こえるか? 聞こえてくれ……頼む……」
そう願った。誰よりも強く。届けたかった。どうしても。
「……!!」
腕の中でスノーカインがぶるりと身を震わせるのが伝わった。
「これは……みんなの……声……? 聞こえる……聞こえるパパ!」
「ああ、そうだ。よかった。伝わった……!」
“巫女様。ありがとう”
“嬉しい。本当に嬉しい。ありがとう姫巫女様……”
それは、信念だけの存在になってしまった人間たちが、ほんの一欠片、ほんの小さな思いとして、それぞれの魂のどこかにしまっておいた感情だった。
どれだけ怒りを滾らそうとも、どれだけ復讐心を燃やそうとも、忘れず最後まで守り通した。
一つ一つは、一人分の言葉には程遠い。一音にすら届かない声の欠片。俺はそんな思いの断片を結んで形にした。形にできた。奇跡としか言いようがない。イヨル、天使、竜、そして人間。雑然と重なった様々な要素が偶然引き当てた、本物の奇跡。
「ああ、ああ、みんな……。やっと話せた。やっと返事してくれた……」
痛いほど俺にしがみつきながら、スノーカインが歓喜の涙を流す。
“今までぼくらを守ってくれて本当にありがとう”
“一緒にいられて本当に嬉しかった、ありがとう”
“ありがとう、ありがとう……”
「うん、うん……」
尽きることのない感謝の言葉のどれもに、スノーカインはうなずいて答える。
いつしか俺の目からも涙がこぼれていた。
これは人間たちの遺言だ。ずっと昔から誰もがスノーカインに持ち続けてきたメッセージだ。
忘れなかった。ずっとずっと忘れなかった。これが人間だ。人間という種族だ。
“姫巫女様は、生きて”
不意に、魂がそう語りかける。
「えっ……」
“我らの分も”
“生きて幸せになって”
“最後に望むのはそれだけ”
周囲を取り巻いていた霊魂たちが、スノーカインへと集まり出した。
彼女のどこか不確かだった部分が鮮明さを帯びていく。これは……霊魂たちがスノーカインの肉体を作っている……? まさか、元の人間の形へと戻そうとしているのか?
「待って……だめ……!」
スノーカインはそれをやめさせようとした。彼女が実体を取り戻すたびに、霊魂たちはより早く砂になって虚空に散っていっている。まるで自分とスノーカインの肉体を交換しているかのようだ。
それでも誰一人ためらう者はいない。最初からこうすることが決まっていたみたいに。
……そうなのかもしれない。
たった一人で魂の守護者となる。その過酷な運命を背負わせてしまった彼女に、人間たちは最後にこうして報いるつもりだったのかもしれない。なんて悲しい贈り物……。
最後に。
一番か細い魂が、彼女の中を通過した。あれは……さっき、俺の中に囁きのヒントを残していったひとか……?
“スノーカイン……”
「……!!」
スノーカインは目を見開く。
俺も同じく。
この、声は……!
「あっ……その声ですわ。さっきわたくしの中に聞こえた……」
アークエンデも驚いて声を上げた。彼女をあの境地に立たせたのはこれだと? そんなまさか。だってこの声は……。
“わたしのスノーカイン……”
「お姉ちゃん……!」
見開いたスノーカインの目から涙の粒が弾ける。
バカな。どうして彼女の魂が存在する? 彼女は最初からアイオーンが化けていたはずだ。
スノーカインは本物の姉がどこかにいるとまだ信じていたようだが、アイオーンの計画にこうまで都合よく合致した姉妹が、偶然箱舟に乗り合わせているなんてことは考えにくい。
やはり最初からすべて仕組まれていたとしか……。
だが、でも、だとしたら。
「お姉ちゃん。会いたかった、ずっと……!」
細く漂う気流を優しく追うように、スノーカインは手を伸ばす。
……こんなの。妄想以外の何でもないが。何の証拠もないし、俺がただそう思いたいだけだが。
これは、アイオーンから分離した“お姉ちゃん”なのではないだろうか。
人間の煉界適応実験に際して、“お姉ちゃん”は霊魂の第一号となった。化けていたアイオーンからすれば、上手く目くらましてその場から立ち去っただけだろうが、その時、それまで演じていた“お姉ちゃん”の部分を切り離して、霊魂の形として人間たちに見せたのではないだろうか。
単なるデモンストレーション。悪趣味な芝居の締めくくり。だが演者はあのアイオーンだ。切り捨てた一部が別の意識を持つなんて不可思議な現象が起きても不思議はない。
だとしたらこれは純粋に、誰より純粋にスノーカインを愛し、見守った、彼女のお姉ちゃんそのもの。
だから彼女を助けた。この消え入りそうな体を使って。
“スノーカイン。幸せになって……”
「お姉ちゃん……」
彼女が手を伸ばした先で、細い魂は灰となって散った。
空に溶けるようだった灰は、スノーカインの指先にかすかに残る。
――彼女は、人間の体を取り戻していた。
「お姉ちゃんはここにいる。ううん、ずっとここにいた……」
自らの胸に大事そうに、本当に大事そうに手を当て、スノーカインは言う。
「……ああ。そうだな。ずっといた……」
お姉ちゃんはいた。誰にも気づかれないような小さな魂になって、きっとずっとスノーカインのそばにいた。
それでいいじゃないか。ウソでもそれでいいじゃないか。否定すんなよ。こんな小さな救いくらい。
「パパ」
スノーカインが俺に振り向く。
彼女は笑った。涙を流しながら、確かに微笑んだ。
「ありがとう。みんなと、ちゃんとお別れ、できた……」
もう、声は聞こえない。
もう、漂う魂もない。
皆、去ってしまった。
降り止んだ灰の雪原の中で、彼女は最後の、そして、新しい人間となった。
俺は言葉にもならず、ただもう一度、彼女を抱きしめる。
巫女の時とは違う、人としての感触が返ってくる。……温かい。
この子を守ろう。絶対に不幸にしてはいけない。不幸になってはいけない。
スノーカインのしゃくり上げる声が聞こえる。
嬉しい。でも悲しい。寂しい……。
また涙がこみあげて俺の視界を曇らせる。
長い長い孤独な旅路の果てに、彼女に残されたものはこれだけだ。少しも釣り合いはしない。ハッピーエンドなんかじゃない。
それでも俺はこう伝える。
「スノーカイン、本当によく頑張った……。さあ、家に帰ろう……家族みんなで。俺たちの家に……」
ハッピーバースデー、人間。




