第5話 手当の桁と、新しい音
給料日だった。
明細は紙でもらう。おれが希望して、紙にしてもらっている。数字は、紙で見るほうが信用できる。
通用口の外で、カンテラが待っていた。最近は毎日いる。同行確認の背広と、ならんで立っていた。仲良くなったらしい。
「灰田さん! それ、給料明細ですか!?」
「そうです」
「点検員って、ぶっちゃけ、おいくら……いや、聞きません! 聞きませんけど、深層の手当とかあるんですよね!?」
あるかないかで言えば、ある。
明細の一行を、見せるだけ見せた。
——深層加算(第90層以深)、日額3,800円。
「…………え?」
「深層加算です」
「99層ですよ!? 人類未到の!? 一日、3,800円!?」
安いか、安くないかで言えば、安い。言われなくても、知っている。知っていることと、言うことは、べつの話だ。
「組合は増額を求めています」
「安っっっす!! 命の値段ですよ!? 増額の署名、おれもします!」
「組合員ではないでしょう」
となりで、同行確認の背広も明細をのぞきこんで、なぜか目もとを押さえていた。ふたりとも、ひとの給料でよく泣ける。
これは報告しなくていいんですか、と聞いてみた。背広は目もとを押さえたまま、首を横に振った。「明細は、業務じゃないので」。そういう線引きは、きらいではない。
ついでに言えば、明細には時間外の欄もある。おれのその欄は、まっしろだ。28年、白いままだ。自慢ではない。予定の立てかたの話だ。
「命は規程が守る。手当は、生活を守る」
「言っときますけど、いま同接900人が、灰田さんの明細を見ましたからね!?」
同接というのは、同時に見ている人数のことらしい。見せたのは一行だけだ。900人に見せる話でもないが、隠す話でもない。
カンテラは金額の行ではなく、時間外の欄の白いほうを、ずっと見ていた。「おれ、そっちのほうがすごいと思います」。変わった趣味だと思う。
ちなみに、同行確認の背広は今日が最終日らしい。「あしたからは、書面での報告に切り替わるので」と言っていた。人は帰って、紙が残る。どこも同じだ。
◇
本日の作業伝票、番号3311。第55層、換気設備の点検、1件。
指差し、確認。
「——経路よし」
第55層までは、エレベーターと徒歩で小一時間。連絡通路の甲三型は、今日も規程どおりの位置にいた。こちらの群れは、数、22。98層のより小柄で、いつも壁ぎわから動かない。
今日は、いちばん大きいのが一度だけ、位置を変えた。気のせいなら、それでいい。
変わりのないことを、たしかめるのが仕事だ。変わりは、いつも、たしかめていない場所から来る。
第55層の換気ダクトは、機嫌がよかった。
羽根の音、よし。振動、よし。フィルターの目づまり、2割——交換基準の5割には遠い。記録して、次へ。
換気の音は、ダンジョンの呼吸の音だ。この耳は、聞かなくても聞こえるようにできている。
換気の音には、層ごとのくせもある。55層は、すこし鼻づまりぎみの音がする。今日も、いつもの鼻づまりだった。
——はずだった。
音が、ひとつ多い。
手を止めて、耳だけにする。
換気の羽根。配管の水。おれの呼吸。知っている音を、ひとつずつ引いていく。
最後に、ひとつ、残った。
低くて、長い音だった。床の下か、壁の向こうか。配管の音ではない。羽根の音でもない。坑内生物の声でも、ない。
おれの知っている音の、どれでもなかった。
しいて言えば、大きな建物が、寝がえりを打つような音だった。
たとえがうまくないのは、知っている。うまく言えない音だった。
床に手のひらをつけると、指の腹に、細かいふるえが残っていた。
音は、10秒つづいて、やんだ。ふるえも、消えた。
数えていたつもりはない。手が、勝手に数えていた。
設備の音なら、覚えがある。一度鳴ったものは、かならず、また鳴る。
保守規程第5章第2条。規程に定めのない事象に遭遇した場合、直ちに作業を中止し退出、報告書を提出すること。
工具を、しまう。ふたを閉める。とめ具、よし。
来た道を、戻る。
歩幅は変えない。変えないが——一度だけ、ふり返った。
28年で、はじめてのことだった。
◇
16時20分、退坑。
定時より早く地上に戻った。うれしくなかった。伝票の「中止」の欄に丸をつけたのは、これが1枚目だ。
報告書を書く。日時。場所。事象。
様式第31号。はじめて書く様式だった。28年やって、はじめて書く紙が、まだあったのか。
事象の欄で、ペンが止まった。
音の種類を選ぶ欄がある。「設備音」「生物音」「流水音」「落石音」「その他」。
その他、に丸をつけた。丸をつけながら、思った。
この様式を作った人間は、坑内で起こることを、ほとんど全部知っていた。設備も、生物も、水も、石も。
その人間が「その他」しか用意できなかった音を、おれは今日、聞いたことになる。
課長に報告書を出した。課長は一度読んで、顔を上げた。
「音? どんな音だ」
「規程にない音です」
「……規程にない、か」
「はい」
「おまえが中止するくらいだ。よっぽどだな」
「規程どおりです」
「規程どおりのおまえが、中止したんだ。それが、よっぽどなんだよ」
課長の言うことは、ときどき、むずかしい。
課長は報告書をもう一度読んで、それから、本部行きの封筒に入れた。
通用口を出ると、カンテラが何か言いかけて、やめた。めずらしいこともある。
帰り道、上着の内ポケットで、けさの明細が折り目を鳴らした。
銭湯の湯船で目をつぶった。耳の奥で、まだあの音がしている気がした。
規程に、この音の欄がない。




