第44話「何年目から」
「28年、って、何年目から数えてるんですか」
◇
朝の詰所。本日の作業伝票、番号3400。第12層、非常灯、再点検。午後、1件。午前は、紙だ。明日の行程表。
南野は、湯のみを持ったまま、立っていた。
「きのう、箱を見て、思ったんです。箱は30。灰田さんの伝票は、28年分だって、課長が。……灰田さん、何年目から、いるんですか」
「29年だ」
南野は、湯のみを、置いた。
「28年、じゃなくて」
「この坑に入って、29年だ。無事故が、28だ」
「1年、違います」
「違う。おれが入った年は、無事故じゃなかった。だから、無事故の1年目は、次の年だ。……伝票の28も、この課のぶんだ。最初の1年は、別の課の箱にある」
南野は、聞かなかった。聞かないで、湯のみを、もう一度、持った。持った手が、口へ行かなかった。
「……次の年から、数えてるんですか」
「次の年から、数えている。おれの数だ。課の数ではない」
行程表を、書く。明日の分だ。二日目。仮詰所跡の、先。方眼紙だ。ない層へ行く紙の様式は、まだ、うちにない。
行程(案)、二日目、と、表題に書いた。一日目の紙は、本部で、判待ちだ。入ったあとで、判が回る。判が出てから次を書くのが、いつもの順番だ。今日は、先に書く。
箱、10時10分。業者口、10時20分。仮詰所跡、10時40分。その先、六十歩で、二つ目の、鉄の箱。線の図に、箱が、もう一つ、ある。協会の技術員が、きのう、線の図を、持ってきた。歩数は、図の長さから、おれが、出した。箱の先、行程の終点。11時。折り返し、12時10分。
六十歩の先に、何があるかは、欄がない。欄がないところは、あけておく。
◇
堀が、来た。長靴ではなかった。革靴だ。本部の紙を、持っている。
「決裁です。一日目の行程(案)。本部長の判が、入っています」
「はい」
紙を、受けた。判は、朱色だった。四角い。
堀は、すぐには、帰らなかった。帳面を、持っていた。開かなかった。
「灰田さん」
「はい」
「三枚、まだ、引き出しにあります。灰田さんの報告書、三枚とも」
「見たんですね」
「見ました。入っているところを、もう一度」
「そうですか」
堀は、頭を下げた。下げて、出ていった。革靴の音が、廊下で、遠くなった。
南野が、言った。
「三枚、って」
「本部にある紙だ。うちの欄ではない」
一日目の紙を、課長の机に、置いた。判は、課長が出てきてからだ。二日目の紙は、まだ、おれの鉛筆だけだ。
二日目。業者口。仮詰所跡。その先、六十歩。
その先に、何があるかは、書いていない。書けない。行って、書く。
◇
課長が、出てきた。湯のみを持って。
「灰田ぁ……明日のだろう。判は、来たか」
「一日目のは、来ました。机の上です」
課長は、判を押した。朱色が、二つ、並んだ。
「深いの、二日目か」
「二日目です」
課長は、おれの行程表を、のぞいた。のぞいて、戻った。戻るとき、南野に言った。
「南野。こいつが、うちに来たとき、おれは、まだ現場だった。こいつは、別の課から来た。2年目で」
「別の課から」
「来たときから、歩幅が、変わらなかった」
課長は、自分の席に、座った。それ以上は、言わなかった。
南野が、おれを見た。
「歩幅で、って、灰田さんの言葉じゃないんですか」
手が、止まった。
行程表の、二日目の欄。鉛筆の先が、紙に、ついたままだった。
「……先輩のだ」
「先輩」
「歩幅で行け。灯りは、数で見ろ。それだけ、言う人だった」
言った。言ってから、壁を見た。
方眼紙。五、のところ。走らない、歩幅で、と、おれの字で書いてある。
おれの字だ。
鉛筆の先を、紙から、離した。
「その人、いまも、いるんですか」
「いない。入った年だ」
南野は、何も言わなかった。言わないで、方眼紙の、五、を見た。おれが見ているところを、見た。
湯のみを、置いた。置いて、自分の手帳を開いた。開いて、何も書かなかった。閉じた。
「……書かないのか」
「書くと、おれの字になるので」
そうか、と言った。
鉛筆を、持ち直す。二日目の欄に、時刻を書く。9時30分。
字は、いつもの字だった。
◇
午後。第12層。非常灯、再点検。
入口で、南野が指を差す。
「——経路よし」
8本。曲がりごとに、1本。1本ずつ、見る。南野が、先に見ていた。おれより、半歩、先に。見てから、おれを見た。おれが見てから、言った。
「1番、点灯」
「よし」
8本、よし。
手順の、一。音を数える。
鳴っていない。音は、第12層の日から、十三で止まっている。
鳴っていない日に、灯りの下に、二人で立つ。南野が、言った。
「灰田さん。じゃあ、おれも、今年から数えます」
「何を」
「無事故を。おれの、1年目。灰田さんが、ここに来た年と、同じ数えかたで」
「……数えなくても、紙は、残る」
「じゃあ、残します。おれの字で」
南野は、点検表に、丸をつけた。8個。そろっていた。
退坑、16時20分。定時の、40分前。
明日、深いところへ下りる。二日目。
数は、まだ、十三だ。




