第41話「断片」
仮詰所、と、札にあった。
◇
翌日の、朝。
次の行程表を書くつもりで、詰所に来た。机に行程(案)を広げると、課長が紙を1枚、持ってきた。
「灰田ぁ……本部からだ。今日のうちに、仮詰所跡まで、入れだと。昼までに、戻れ、とも」
「次の紙は、まだ出していません」
「協会が、今日のうちに、と言ったらしい。本部は、協会が言うと、速い」
紙を、読んだ。行程(案)の終点から、仮詰所跡まで。先へ、およそ40メートル。
40メートルは、おれの歩幅で、56歩だ。
「行けるのか」
「行けます。往復で、3時間。昼に、間に合います」
時計は、8時40分だった。
通用口に、きのうの10人が、そろっていた。協会が、きのうのうちに、集めていた。
鷲尾は、受付の台に、紙を置いた。おれの前で。両手ではなかった。片手だった。
「明日、本部と、協議があります。その前に、仮詰所跡の写真が、要ります」
「写真は、記録係が撮ります」
「お願いします」
急ぐ人の紙は、片手で置かれる。そう、見えた。きのうまで、知らなかった。
◇
9時。入坑。
「——経路よし」
南野が差した。8本の指が、同じ先を差した。きのうより、速かった。
40分。技術員のふたりが、天井を見ていた。きのうと、同じだ。
業者口。扉。存在しない層。
鳴らない。一からだ。
分岐。鉄の箱。閉じている。
その先へ、入る。
非常灯が、等間隔で、頭の上を通る。1本、2本。5メートルに1本。
56歩で、止まった。
通路の脇に、戸がある。戸、と言うほどのものではない。枠だけだ。枠の上に、札。印刷の字。
——第三課 仮詰所。
中は、四畳ほどだった。乾いている。風は、戸のない枠から、少しだけ、入ってくる。
机が、ひとつ。椀が、伏せてある。椀のふちに、ほこりが、1センチ、積もっている。
壁に、点呼板。札は、1枚もない。釘だけが、4本、残っていた。
うちの点呼板と、同じ型だ。釘の間が、同じだ。4本。四人の課だったのか。板は、言わない。
南野が、釘を、数えた。声に出さずに、口だけが、四、と動いた。
盾の人が、枠の外に立って、中を見ていた。盾を、枠に立てた。盾のほうが、枠より、高かった。入らない。入らないで、見ていた。
◇
壁に、紙が1枚、留めてある。
画鋲で、1つ。
手書きだ。鉛筆の字が、薄い。
剣崎が、おれの後ろで、言った。
「……読めるのか」
読める。
手が、紙に、伸びた。
伸びて、止めた。
今日の紙は、仮詰所跡の現況確認、と書いている。壁の紙は、現況だ。はがせば、現況が変わる。変えるのは、うちの伝票にない。
手を、下ろした。
「堀さん。写真を」
堀が、撮った。3枚。手は、ふるえていなかった。
「読み上げます。南野、書き取れ」
「はい」
読んだ。
「——範囲外の異常を認めたときは、速やかに作業を中止すること」
南野が、言った。
「……今は、直ちに、ですよね」
「今は、直ちに、だ。第3章第4条」
鷲尾が、手帳から、顔を上げた。
「違いは、ひとつですか」
「ひとつです。速やかに、が、直ちに、になりました」
「いつ」
「第四版です。附則にある。年と、月だけ。年は、暦ではなく、初版の年を、第一年と、数えます」
鷲尾は、それ以上、聞かなかった。
紙の下に、字がもう一行、ある。
——第3章第4条(案)。
案、の一文字に、鉛筆が、二度、重ねてあった。
書いた人の名前は、ない。
日付も、ない。
◇
「現況」
南野が、書き取った。
「仮詰所跡。机、1。椀、1。点呼板、1。札、なし。壁面、紙、1枚。鉛筆、手書き。規程第3章第4条の、旧文言。案、の字あり。異常——なし」
「なし」
古い紙が、古い壁に、とまっている。異常ではない。現況だ。
鷲尾が、おれの横に立った。
「灰田さん。この紙は、公社の、所有ですね」
「公社の、仮詰所にあります」
「協会は、写真の提供を、求めます」
「出します。出したものが、どこで止まるかは」
「協会の欄です。今度は」
鷲尾が、おれの言葉を、引き取った。
剣崎は、紙を、見ていた。長く、見ていた。
「……直ちに、になって、何が変わった」
「分かりません」
「分からないのか」
「附則には、書いていません」
剣崎は、うなずいた。うなずいて、紙から、目を離さなかった。
「俺たちの8つ目も、いつか、誰かが、ここみたいに読むのか」
答えなかった。持っていない答えは、出せない。
昼から逆算して、10時30分。
「戻ります」
「——経路よし」
◇
退坑、11時48分。
伝票の、退坑の欄に、11時48分、と書いた。先へ、40メートル。理由の欄。本部の指示による。
午後は、詰所だ。仮詰所跡の、現況の報告を、書いた。伝票は、今日、1枚だ。
詰所の壁の、方眼紙を、見た。七つ。
おれの引き出しから、附則の写しを出した。方眼紙の裏だ。
第四版。第二年、八月。第3章、字句修正。速やかに、を、直ちに、に改める。それだけだ。
第二年の八月。附則は、字句修正、としか書いていない。字句を直した理由は、どこにも、書いていない。
書いていないところを、誰かが、知っている。




