第38話「預かり」
本日の作業伝票、番号3391。第26層、換気設備の定期点検、1件。午前。
朝の社内便が、9時に来た。封筒が、1通。宛名は、おれだった。
きのう出した紙が、きのうのうちに、戻ってきた。速い。速い紙は、読む前に、中身が分かる。
◇
封筒の中は、2枚。
1枚目は、おれの方眼紙だった。原本だ。右上に、判がある。
——本部預かり。
四角い判だ。見たことがある。経過観察、の判の、兄弟だ。字が違うだけで、形が同じだ。押してある場所も、同じだ。右上。前の四枚と、重ねれば、ひとつに見える場所。
判は、手で押す。押した手は、紙には、写らない。
2枚目は、添え文だった。
——規程の改訂は、保全本部の権限に属する。現場作成の私案は、受理しない。対外への提供を禁ずる。
日付と、判。保全本部長の名義。
それだけだった。
添え文の隅に、付箋が、1枚、貼ってあった。小さい。字は、小さくて、まっすぐだった。
——清書しました。堀。
おれは、二度、読んだ。方眼紙を、一度。添え文を、一度。付箋は、二度、読んだ。
「課長」
「……見た」
課長は、湯のみを持っていなかった。朝から、持っていなかった。
「預かり、だそうです」
「そうか」
課長は、添え文を、指で押さえた。押さえたまま、動かなかった。
「規程ではないです。案なので」
案、と書いたのは、おれだ。規程ではない、と書いたのは、本部だ。同じことを、二人で書いた。
返事だ。
これは、返事だ。返事の来ない紙ではない。返事を待て、という返事だ。返事のある紙は、綴りに入れられる。
返事待ちの綴りを、出した。
方眼紙を、いちばん後ろに、入れた。添え文も、入れた。付箋は、はがさなかった。
厚みを、指で測った。
7ミリ。
けさまで、6ミリだった。1ミリ、増えた。増えたぶんは、おれが、自分で書いた紙だ。
28年、書いて、出した。出した紙は、どこかで、丸がついた。丸がつかなくても、返ってこなかった。持ち場の外へ出した紙が、持ち場の外で止まって、戻ってきたのは、はじめてだ。
指に、7ミリの厚みが、残った。
綴りを、引き出しに戻した。戻す手が、少し、遅かった。
引き出しを、閉めた。閉めてから、伝票を、鞄に入れた。
◇
入坑。通路の入口で、南野が指を差す。
「——経路よし」
第26層、換気設備。送風機、回転よし。風量、ふだんどおり。フィルター、少し汚れ。交換。
南野が、書いた。おれは、見ていた。
「灰田さん」
「なんだ」
「……朝の紙、なんでしたか」
「預かり、だ」
「預かり、って」
「上が、持っている、ということだ」
「……七つ、使えないんですか」
「上が、持っているのは、原本だ」
それだけ、言った。南野は、それ以上、聞かなかった。風量計の針を、もう一度、見た。
風量計の針は、正直だった。針は、上のことを、知らない。
南野が、古いフィルターの袋の口を、しばった。しばってから、袋を、二度、たたいた。
◇
詰所。昼過ぎ。
課長が、引き出しから、紙を出した。きのうの、写しだ。うすい紙。
課長は、写しを、机の真ん中に置いた。それから、判を出した。
課長の判は、四角い。朱色。字は、設備点検第三課長、とある。28年、伝票の隅で、毎日、見ている判だ。
「規程は、本部のもんだ」
課長は、判に、朱を、つけた。
「……作業手順は、課のもんだ」
写しの、いちばん上。表題の横。暫定手順(案)、の、案、の隣に、押した。
音が、した。判の音は、小さい。小さいが、聞こえる。
四角い朱色が、方眼のます目の上に、ひとつ、乗った。
「第三課作業手順、暫定。うちの課で、使う。規程じゃない。課の手順だ。課の手順を決めるのは、課長だ。本部の権限には、入っていない」
課長は、判を、しまった。しまってから、写しを、両手で持って、詰所の壁の、点呼板の隣に、貼った。
画鋲、4つ。
「明日から、うちは、これで行く」
壁に、おれの字が、ある。方眼のます目に、そろった字だ。詰所の壁で見ると、少し、他人の字に見えた。
南野が、壁の紙を見た。見てから、四のところを、指で押さえた。きのうと、同じ場所だ。
課長が、おれを見た。
「おれの持ち場だ。おまえは、持ち場の外に出るな」
「出ません。明日は、球替えです」
「そうか」
課長は、湯のみを、持った。朝から、はじめて持った。飲んだ。
本部長の名前は、口にしなかった。課長も、しなかった。
◇
15時。明日の伝票を、先に書いた。
番号3392。第12層、通路灯、復旧確認。非常灯、点検。2件。
備考欄に、書く字が、ある。
書いた。備考は、正規の欄だ。欄を作ったのではない。欄に、入れた。
南野が、横から見て、何も言わなかった。言わないことを、覚えた顔が、今日は、少し、違った。何か言いたい顔を、言わないでいる顔だった。
点呼板の札を、裏に返す。2枚。
定時だ。
明日の伝票は、もう書いてある。備考欄まで。




