第37話「一枚目」
本日の作業伝票、番号3390。第7層、送水管の定期点検、1件。午前。
午後は、紙だ。おとといのぶんの紙が、まだ、残っている。
書ける紙は、書いた。残っているのは、書けない紙だ。
◇
午前、入坑。通路の入口で、南野が指を差す。
「——経路よし」
第7層、送水管。にじみ、なし。継ぎ目、6箇所。指で、なぞる。乾いている。
南野が、書く。おれは、見る。それだけの午前だった。それだけの午前が、いい午前だ。
12時に、上がった。
◇
詰所。机の上に、様式が、2枚ある。
様式第31号は、おととい書いた。四枚目だ。音の長さ、13。方向、ここ。書けることは、書いた。
様式第12号、ヒヤリハット。2枚。ひざと、手のひら。暗い通路で転んだ、と書いた。転んだのは、うちの作業員ではない。探索者だ。探索者の転倒を書く欄は、12号にはない。備考に、書いた。備考は、書けないものの、置き場だ。
書き終えて、机の上に、書けないものが、残った。
19人を、8本の灯りで、640歩、歩かせた。
その順番だ。
数えて、集めて、先頭を決めて、灯りごとに数えて、箱の定員で切って、最後に、もう一度数えた。
順番は、あった。おれの頭の中に。
紙には、ない。
「課長」
「なんだ」
「多人数の退避の、様式は、ありますか」
課長は、湯のみを置いた。置いてから、答えた。
「……ないぞ」
「ないので」
「ないので、なんだ」
「作ります」
課長は、おれを見た。見てから、湯のみを、もう一度、持った。飲まなかった。それから、机の引き出しを開けて、方眼紙を、1枚、出した。何も言わずに、おれの机に置いた。置いた手が、紙の上に、一拍、残った。
方眼紙は、書庫の年表と、同じ紙だ。
◇
方眼紙。
いちばん上に、表題を書く。
——暫定手順——規程に定めのない音を聞いたときの、複数人の退避。
書いてから、ペンを、止めた。
表題の、暫定手順、のあとに、あいたところがある。そこに、書く字が、ひとつある。
案。
自分の一枚目に、案、とつける。
つけないと、規程の顔になる。規程の顔は、おれの顔ではない。おれの顔は、案までだ。
ペン先を、あいたところに、置いた。置いたまま、止まった。方眼のます目が、ひとつ、空いている。
——暫定手順(案)。
書いた。かっこは、ます目に、きっちり入った。
それから、七つ、書いた。
一。音を、数える。数え終わるまで、動かない。
二。灯りの下に、集まる。灯りは、非常灯。
三。人数を、数える。全員の数を、先に決める。
四。先頭は、入口の喚呼をした者。作業員は、最後。
五。走らない。歩幅で。灯りから、灯りへ。灯りごとに、数える。
六。箱は、定員で切る。順番は、並んだ順。
七。全員が地上に出たら、もう一度、数える。数が合ってから、報告書。
七つで、終わった。
七つは、うちの数だ。球替えの手順も、七つ。剣崎の決めごとも、最初は七つだった。
条文は、写さなかった。規程第5章第2条は、作業を中止し退出、と書いてある。作業員のことだ。あれは、あれでいい。あれの外側を、おれは、おれの言葉で書いた。
うちの規程も、最初は、誰かの一枚目だった。
剣崎に、そう言った。言った人間が、自分の一枚目を書くのに、28年、かかった。かかった、というより、書く用がなかった。用は、おととい、できた。
方眼のます目に、字が、おさまっていく。ます目があると、字は、そろう。
書き終えて、時計を見た。14時20分。書く仕事は、速い。
南野が、横から、読んだ。
読み終えて、一枚目の四、のところを、指で、押さえた。
「……これ、おれが入口です」
「そうだ」
「おれが、先頭です」
「そうだ。おれは、最後だ」
南野の指が、五、へ動いた。走らない。歩幅で。
「……おととい、足が、速くなりました」
「戻った。戻ったから、五に書いてある」
南野は、指を離さなかった。離さないまま、うなずいた。
◇
課長が、来た。方眼紙を、両手で持って、読んだ。二度、読んだ。
「……七つか」
「七つです」
「案、って書いたな」
「書きました」
「なんでだ」
「一枚目なので」
課長は、方眼紙を、机に戻した。戻してから、言った。
「灰田。写しを、一枚くれ」
「はい」
「うちの控えだ。上に出すのは、原本でいい」
おれは、写しを、取った。写しは、原本より、少し、うすい。
課長は、写しを、自分の引き出しに入れた。入れてから、引き出しを、閉めなかった。閉めないまま、聞いた。
「……これ、上に出すのか」
「出します。書いて、出す。それがうちの仕事です」
書いた紙は、出す。28年、そうしてきた。出した紙が、どこで止まるかは、出す側の欄ではない。
28年、おれが出した紙は、全部、おれの持ち場の紙だった。伝票と、報告書と、ヒヤリ。
この一枚は、違う。持ち場の外に、置く紙だ。
課長は、引き出しを、閉めた。
方眼紙を、本部行きの封筒に入れた。封筒は、方眼紙一枚のぶんだけ、重くなった。
時計が、定時になった。立った。
戸に手をかけたとき、後ろから、声がした。
「出したら、どうなるか、分かって出すんだな」




