第34話「順番」
本日の作業伝票、番号3381。第9層、通路灯の定期点検、1件。
作業員、2名。
同行者の欄は、空だ。書き忘れたのではない。今日から、要らない。
◇
朝の詰所。おれは、伝票を、南野の机に置いた。
南野は、伝票を見て、作業員、のところで、目を止めた。止めて、何も言わなかった。言わないことを、覚えた顔だ。
「今日から、入口はおまえだ」
「……順番が、来たんですか」
「来た」
理由は、言わなかった。順番に、理由はない。順番があるだけだ。
南野は、うなずいた。うなずいてから、工具袋を、いつもより早く、持った。
本部からは、今日は、何も来ていない。
課長が、湯のみを持ったまま、点呼板を見た。南野が、札を表に返した。2枚。
「……2枚、そろってるな」
「そろってます」
「そろってりゃ、いい」
課長は、それ以上、言わなかった。湯のみの茶を、飲んだ。今日は、飲んだ。
◇
入坑。通路の入口。
おれは、南野の、半歩後ろに立った。28年、入口で後ろに立ったことは、ない。前しか、知らない。
後ろから見る背中は、思ったより、小さかった。工具袋のぶんだけ、大きかった。
通路の風が、先に南野に当たって、それから、おれに来た。
南野が、指を差した。
指が、先だった。
指の高さは、目の高さ。声は、あとだ。
「——経路よし」
声が、通路に入って、奥へ行って、返ってきた。
返ってくるまで、一拍あった。その一拍を、おれは、数えなかった。数えないで、聞いた。
喉が、いつもの形になりかけて、止まった。毎朝、この一拍で、声を出していた。
おれは、指を差さなかった。声も、重ねなかった。
重ねれば、二人ぶんになる。二人ぶんは、要らない。今日の入口は、一人ぶんで足りる。足りることを、後ろで、確かめるだけだ。
南野が、歩き出した。
おれは、半歩後ろを、歩いた。
南野は、ふり返らなかった。ふり返らないのは、分かっているからだ。分かっていることは、教えなくていい。
◇
第9層、通路灯。36本。
「1番、点灯」
「よし」
「2番、点灯」
「よし」
ひとつも、省かなかった。
14本目で、おれは、南野の顔を見た。何も言わない顔だった。効率の話をする顔ではなかった。
意味の話は、この春、二度、のみ込まれた。三度目は、なかった。効率の話は、一度も、口に出ていない。今は、のみ込む顔もしない。言わないのではなく、思いつかない顔だ。
「14番、点灯」
「よし」
おれの復唱を、南野が、待っていた。待ってから、次へ行く。
「21番、点灯。……ゆるみ、あり」
「増し締め」
「増し締め、します」
南野が、脚立に上がった。おれは、脚立を押さえた。押さえるのは、後ろの仕事だ。28年、上にいたので、押さえるのも、はじめてだった。脚立は、思ったより、揺れた。上にいるときは、揺れていることを、知らなかった。
「増し締め、完了。……揺すって、動きません」
「よし」
36本。切れているのは、ゼロ。ゆるみ、1本。締めた。
「異常なし」
「異常なし」
伝票に、丸をつけた。丸をつけたのは、南野だ。おれは、見ていた。
「灰田さん、丸、おれでいいんですか」
「作業員だ」
「……はい」
丸は、少し、大きかった。大きい丸は、そのうち、ちょうどよくなる。
◇
昼。第9層の、通路の脇。
壁に背をつけて、座る。南野は、おれの隣ではなく、おれの向かいに座った。
パンを、食った。
南野が、食い終わってから、言った。
「灰田さん」
「なんだ」
「おれ、前のバイト先で、順番のない仕事をしてたんです」
おれは、パンを、飲み込んだ。
「順番がないと、人が、けがをする。……ここは、順番があるって、求人票に書いてあった」
南野は、パンの袋を、小さくたたんだ。たたんでから、袋を、工具袋の外のポケットに入れた。
それだけだった。誰が、どこで、どうけがをしたのかは、言わなかった。おれも、聞かなかった。聞かなくていいことは、聞かない。
「求人票は、うそを書かない」
「書かないんですか」
「書いたことを、やらなければ、うそになる。うちは、書いたとおりにやる。書いたものが、そのまま、仕事になる」
南野は、うなずいた。
順番がある、と求人票に書いた人を、おれは知らない。総務の誰かだ。誰かが、正しいことを、書いた。
「明日も、入口はおまえだ」
「……はい」
返事は、少し、遅かった。遅い返事は、いい返事だ。
立った。南野が、先に立った。おれは、あとから立った。
◇
退坑。通路の出口で、南野が、指を差した。
「——退出、よし」
おれは、半歩後ろだった。半歩後ろは、28年、おれが誰にも使わせなかった場所だ。
今日、使った。
詰所。点呼板の札を、裏に返す。南野が、2枚とも返した。おれの札も、南野が、返した。
「灰田さん」
「なんだ」
「おれ、今日はどこまで見えてましたか」
答えは、持っている。朝から、持っていた。
「入口から、おれの背中までだ。……明日は、もう半歩先だ」
定時に、詰所を出た。
半歩後ろに、誰もいない。誰もいないところを、おれは、今日はじめて、歩いて帰った。
明日、そこに立つのは、おれだ。




