第32話「附則」
本部棟、四階の廊下。壁の札に、設備点検第一課、とある。その隣に、第二課。
本日の作業伝票、番号3378。本部棟、立会人記録の清書、1件。終日。
第一課と第二課に、おれは、会ったことがない。札には、会った。
◇
札の前を、通り過ぎた。扉は、どちらも閉まっていた。中の音は、しなかった。
廊下のさきで、本部長と、すれ違った。本部長は、紙を持っていた。3枚。持った紙を、見ていなかった。おれは、会釈をした。会釈は、返ってこなかった。見ていないものには、返事が来ない。
「こちらです」
若い背広が、扉を開けて、待っていた。今日は、革靴だ。
机が、ひとつ、用意してあった。机の上に、検証の確認書の写しと、白紙の様式と、規程が1冊。うちの詰所にあるのと、同じ版だ。背の色が、少しだけ新しい。
「灰田さん」
「はい」
「堀です。……三度目なので、名乗ります」
三度目だ。同行の確認、応接、現況確認。三度、そばにいて、名前を言わなかった人が、四度目の朝に、言った。
「灰田です」
「知ってます」
「知っていても、言います。順番なので」
堀は、少し笑って、それから、笑うのをやめた。
「清書、ここでお願いします。ぼくは、隣の机にいます」
「はい」
座った。ボールペンを、机の上に、まっすぐ置いた。
◇
立会人記録。様式は、本部のものだ。
日付。場所。項目、12。処置。立会人の所見。
所見の欄は、一行だけ書いた。
——処置は、すべて規程に基づく。
書いてから、根拠の欄を見た。根拠、と印字してある。処置の根拠となる条文、または別表。
第2章第6条。第4章第1条。第3章第7条。書ける。
別表。
12層の業者口は、通路の一覧にある。書ける。
書いてから、ボールペンの尻で、根拠、の字を一度、押さえた。
別表を根拠に書くなら、別表が、いつからその形かを、書く欄がある。根拠の版、と印字してある。
版は、附則に書いてある。
規程の、いちばん後ろ。附則。改訂の履歴。うちの規程を読んできて、附則を端から読んだことは、なかった。読む理由がなかったからだ。附則は、条文ではない。条文の、日付だ。日付を根拠に書く欄は、うちの様式には、ない。本部の様式には、ある。
今日は、理由がある。
開いた。
附則の年は、暦ではなく、規程の年で数えてある。初版を、第一年として。引き算は、いらない。
——改訂 第二版(第一年 十一月)。第5章 字句修正。
——改訂 第三版(第二年 三月)。別表(通路一覧)改正。
——改訂 第四版(第二年 八月)。第3章 字句修正。「速やかに」を「直ちに」に改める。
——改訂 第五版(第二年 十二月)。別表(通路一覧)改正。
——改訂 第六版(第三年 二月)。別表(通路一覧)改正。
通路の一覧は、三度、変わっている。通路は、変わる。
——改訂 第七版(第三年 六月)。別表(層一覧)に第五十五層の二を追加。第4章第1条に後段を追加。
——改訂 第八版(第四年 一月)。……
読む。
条文が、ひとつずつ、足されていく。足された月が、書いてある。理由は、書いていない。附則は、理由を書く紙ではない。
第七版。第三年、六月。
別表の、第五十五層の二。あの行だ。そこで、足された。
同じ版で、第4章第1条に、後段。
——生物が作業を注視する場合、作業を継続すること。
毎月、おれが、やっていることだ。群れの中で、球を換える。28年、そうしてきた。その後段は、はじめから、あったのではなかった。第三年の六月に、足された。
第三年。
規程の年で、第三年は、書庫の、3箱目だ。
1年が、1箱。3箱目の、とちゅうの月。
手が、止まっていた。ボールペンの先が、根拠の欄の、版の字の手前で、紙に触れたまま、動いていなかった。
この行を書いた人は、この行が、28年あとに、立会人記録の根拠の欄に写される日が来ると、思っていたのだろうか。
思った。思ったことは、記録に書かない。
同じ月だ。
書庫で見た、検印の姓が変わった月と、同じ月だ。
変わる月は、いろいろ変わる。附則は、日付と、条の番号しか書かない。理由は、書かない。
理由の書いていない紙を、おれは、追わない。追う欄が、ない。
版の欄に、書いた。
——第七版。
それだけだ。それが、根拠だ。
ボールペンを、置いた。置いた音が、部屋に、ひとつだけ、した。
◇
清書は、昼過ぎに終わった。
堀が、隣の机から、来た。記録を、両手で受け取った。受け取ってから、置かなかった。
「灰田さん」
「はい」
「灰田さんの報告、ぼくが清書しました。三枚とも。……引き出しに入るところまで、見ました」
おれは、堀を見た。堀は、記録を持ったまま、こちらを見ていた。
見た、と、言った。見た人が、見た、と言うのは、はじめて聞いた。
「見たなら、見たと書いておいてください。あなたの紙に」
「……ぼくの紙、ですか」
「本部にも、様式はあるでしょう。なければ、白紙でいい。日付と、見たことだけ」
「書いても、出すところが」
「出すところは、あとで探せばいい。書いていない紙は、探せない」
堀は、うなずいた。うなずいてから、記録を、机に置いた。置いてから、両手を、離した。
「書きます」
「はい」
帰りに、廊下の札の前を、また通った。第一課。第二課。閉まったままだ。
通用口で、長靴に、履き替えた。本部の人は、革靴で坑内に入らない。うちの人は、革靴で本部に入る。順番は、それでいい。
◇
詰所。点呼板の札を、裏に返す。5枚。
定時だった。
規程の、第三年の六月。書庫の、3箱目の、とちゅうの月。
変わる月は、いろいろ変わる。人も、紙も。
……同じ月に変わったものを、あの3箱目は、あと、いくつ入れているのだろう。




