第29話「存在しない層」
規程の別表、層の一覧。第1層から、第99層まで。
いちばん下に、もう1行あった。
——第五十五層の二。存在しない層。立入不要。
◇
朝の詰所。本日の作業伝票、番号3368。種別、現況確認。業者口の先、入口から50メートル。1件。
命令の紙は、今日も来た。二日つづけてだ。
「来たな」
「来ました」
課長は、それ以上、言わなかった。
場所の欄に、名前を書く前に、別表を引いた。きのうは、通路の一覧を引いた。今日は、層の一覧だ。
第1層。第2層。番号は、順に並んでいる。第99層で、終わる。
終わったあとに、1行、あった。
番号が、飛んでいる。第五十五層の、二。
注記が、ついている。
——存在しない層。立入不要。
二度、読む。三度、読んだ。
存在しない層、と、規程が書いている。
立入不要、と、規程が書いている。
存在しないなら、立入は、不要ではない。不可能だ。不要と書くのは、あるところに書く字だ。
「課長」
「なんだ」
「別表に、ありました」
課長が、来た。指で、行をなぞった。なぞる指が、途中で止まった。
「……存在しない層に、立ち入り不要って、書いてあるのか」
「書いてあります」
「存在しないなら、書かなくていいだろう」
「書いてあるので、あります」
課長は、指を、行から離した。
「……存在しないものの現況を、確認しに行くのか」
「紙が、そう言っています」
規程の別表に、行がある。行があるものは、ある。あるものの現況を、確認しに行く。命令の紙は、そう言っている。
きのう、名前のなかった場所に、今日、名前がついた。存在しない、という名前だ。
南野が、横で、手帳に書いていた。書く手が、一度、止まって、また動いた。
◇
入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
記録係は、今日も長靴だった。
第55層方面、連絡通路。群れ。22。きのうと同じ位置。頭の向きも、同じ。経路を、壁側へ4メートル。
群れの脇を、抜けた。
扉の前。南野の札が、きのうのまま、立っている。裏の日付は、きのうだ。今日の札を、南野が、もう1枚、その手前に立てた。裏に、日付と、伝票番号。
「2枚、要りますか」
「日付がちがう。札は、日付ごとだ」
「場所は……第五十五層の二、って書きます? 読みかた、これで合ってます?」
「合ってる。読みかたは、書いてないから、そう読むしかない」
錠を、開ける。きのう一度回した錠は、今日は、一度で回った。錠は、覚える。
扉を、引く。
通路。灯り。乾いた風。きのうと同じだった。
入口の床に、立つ。きのう、一歩だけ入った床だ。
今日の紙は、50メートル、と言っている。
「記録係。歩数で測ります。おれの歩幅で、50メートルは、70歩です」
「……70歩」
「70で、止まります。止まったところが、50メートルです。それより先は、今日の紙にない」
「はい」
「南野。おれの後ろ。記録係は、南野の後ろ。止まるときは、おれが止まる」
「はい」
歩く。
数える。
非常灯が、等間隔で、頭の上を通っていく。1本、2本、3本。灯りの間隔は、うちの通路と同じ。5メートルに1本。灯りの数を数えれば、距離が出る。歩数と、灯りと、両方で数える。数えかたは、二つあったほうがいい。
壁に、札があった。
古い札だ。うちの札と、形が違う。字は、印刷だった。
——第三課。
それだけだった。日付は、ない。番号も、ない。30歩だった。
点検票では、ない。点検票なら、日付がある。これは、ただの、課の札だ。この通路は、うちの課の通路だった。いつかは、知らない。
50歩。床に、排水の跡があった。乾いている。水は、流れていた。いつかは、知らない。
通路は、灯りの先で、右へ曲がっている。曲がりの手前で、70になった。
止まる。
「70」
南野が、止まった。記録係が、止まった。
「50メートル」
灯りを、数え直す。10本。切れているのは、ゼロ。部品の出ない型が、10本とも、ついている。
南野が、書いた。
「現況。通路、乾燥。換気、あり。照明、非常灯、10本、点灯。壁面、課の札、1枚。床、排水の跡、乾燥。異常——」
言いかけて、止めた。
音が、した。
◇
低くて、長い音だった。
大きな建物が、寝がえりを打つような音だ。
知っている音だ。三度目だ。
数える。
1。
南野が、固まった。固まったまま、口の中で、数えている。数える癖は、うつっている。
4。
記録係が、動いた。後ろへ、一歩。
「動かないでください」
手のひらを、後ろへ向けた。
止まった。
7。
口の中が、乾いた。
天井の非常灯が、細かくふるえた。灯りは、消えなかった。
音は、下からではなかった。
先からだった。先、というのは、はじめてだ。通路の、曲がった先から、来ていた。
方向は、報告書に書ける。書けるものは、怖がる前に、数えておく。
10。
一度目は、ここで終わった。
11。
二度目は、ここで終わった。
12。
音は、終わった。
ふるえも、やんだ。灯りは、ついている。
息は、止まっていた。止まっていたことは、数に入れない。
吐いた。
「作業中止」
声より先に、体が向きを変えていた。
決めてから、条文が追いついてくる。規程第5章第2条。規程に定めのない事象に遭遇した場合、直ちに作業を中止し退出、報告書を提出すること。
「記録係、歩けますか」
「……はい」
「なら、歩いてください。数えます。おれが最後です。南野、先頭。記録係、南野の後ろ」
「はい」
南野が、歩いた。足が、速くなった。
「歩幅、変えるな」
足が、戻った。
数える。灯りを、逆から数える。10。9。8。
70歩は、帰りも70歩だった。数えかたが二つあると、帰りも同じ数になる。
扉。
出る。
人数を、数える。3。全員だ。
錠を、かける。
南野の札は、2枚とも、立っていた。倒れていなかった。
記録係が、扉にもたれて、息をした。
「……今の、なんですか」
「分かりません」
「分からない、って」
「分からないことは、分からないと書きます。書けることだけ、書きます。長さは、12です。方向は、先です。時刻は」
時計を見た。
「10時52分。書けることは、それだけです」
記録係は、それ以上、聞かなかった。聞いても、同じ答えが返ると、分かった顔だった。
群れの脇を、通る。22。位置は、行きと同じ。
頭の向きも、同じだ。
同じ、ということだけを、数えた。
◇
詰所。
様式第31号。三枚目。
規程に定めのない事象。日付。時刻、10時52分。場所。
場所の欄で、手が止まった。
きのうは、業者口の先、と書いた。今日は、名前がある。
別表の行を、そのまま写す。
——第五十五層の二(別表注記: 存在しない層)。
存在しない層、と、報告書に書いた。存在しない層で、音を聞いた、と書いた。
書きながら、手が、一度止まった。ボールペンを、置いた。取り直した。
この報告は、おれの名前で、あの建物へ行く。
音の長さ。12。前は、11。その前は、10。
1ずつ、増えている。増えていることは、書かない。数だけ、書く。並べれば、読む人が、読む。
方向。先。
下ではなく、先。それも、数と同じに、書く。意味は、書かない。意味は、おれの欄ではない。
課長が、報告書を読んだ。二度。
「……先、か」
「先です」
「先って、どこだ」
「曲がった向こうです。曲がった向こうは、今日の紙にありません」
「明日の紙には」
「来れば、行きます」
課長は、報告書を、本部行きの封筒に入れた。三枚目の31号が、一枚目と二枚目のあとを追って、同じ建物へ行く。返事は、まだ、一枚目にも来ていない。
南野が、点呼板の前で、札を裏に返した。手が、少し、遅かった。
「南野」
「はい」
「今日、何を数えた」
「……歩数と、灯りと、音と、人数です」
「全部、合ってたか」
「合ってました」
「なら、いい仕事だ」
南野は、札を返し終えて、こちらを見ずに、うなずいた。
詰所を出た。定時だった。
規程が、ないと書いた場所で、音は鳴っていた。
ないところで鳴った音の返事は、どの欄に来るのだろう。




