第28話「開かずの業者口」
本日の作業伝票、番号3367。種別、現況確認。第55層方面、再点検待ち区画の奥、業者口。1件。
現況確認、という種別の伝票は、はじめて見た。
種別の新顔は、これで4つ目になる。応接、行程作成、予備、現況確認。指を、4本、折った。
◇
朝の詰所に、本部から記録係が来ていた。
若い背広だった。革靴ではなかった。長靴だった。
「またぼくです」
「そうですか」
背広は、自分の長靴を見て、それからおれの長靴を見た。同じ型だった。
「買いました。自分のを」
「そうですか」
名前は、聞かなかった。名乗られなかったからだ。三度目の立ち会いで、まだ名前を知らない。向こうも、聞かれない名前は、言わないことにしているのかもしれない。
南野が、工具袋の脇に、もうひとつ袋を持ってきた。
「札、10枚。テープ、2巻。持ちました」
「持ってこい、と言ったか」
「言ってません。……こないだの、足場のときの話を、土屋さんから聞いたので」
足場の札の話だ。だれかが、話したらしい。
「持て」
「はい」
札とテープは、今日から南野の袋だ。
「行ってくる」
課長は、湯のみを持って、置いた。
「灰田」
「はい」
「入口までだぞ。紙に、そう書いてある」
「紙のとおりにします」
点呼板の札を、表に返す。2枚。記録係のぶんの札は、ない。
南野が、袋の口を、しばった。
◇
入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
第55層方面、連絡通路。
群れが、いる。
甲三型、22体。壁ぎわの定住群。先月、通路側へ2メートル、ずれていた群れだ。
今日は、そこから、さらに1メートル。
数える。22。頭の向きは、そろっている。向いている先は、書かない。書くのは、位置と数だ。
立ち止まらない。歩幅を変えない。経路を、壁側へ4メートル寄せる。先月は、3メートルだった。群れが1メートル来たぶん、こちらも1メートル寄る。補正は、癖にしない。毎回、測る。
後ろで、記録係の足音が、一度止まった。
「止まらないでください。数えます」
「……はい」
足音が、戻った。
南野は、止まらなかった。半歩後ろで、指だけ差した。
群れの脇を、抜けた。
連絡通路の先が、再点検待ちの区画だ。様式第31号を出した層。返事が来ないまま、47日を過ぎた層。
ここから先は、アテンドの行程から外した。今日は、外した先へ行く。
区画の奥に、扉がある。
30年、そこにある。
おれは、28年、この通路を歩いて、その扉を、一度も開けたことがない。開ける伝票が、来なかったからだ。伝票の来ない扉は、扉ではない。壁だ。
今日は、伝票が来た。壁が、扉に戻った日だ。
◇
扉の前に立つ。指を差す。
「——経路よし」
ここまでが、経路だ。
鉄の扉。灰色。取っ手は、うちの規格だ。錠も、うちの規格だ。
封がしてある。
紙の封だ。扉と枠のあいだに、紙を1枚渡して、糊で留めてある。30年の糊は、茶色く固まっていた。
封の紙に、字がある。
——立入禁止。第三課。
日付。30年前の、年と月。
手書きだった。
字は、小さいのに、高さがそろっている。
おれは、封の字を、読んだ。日付を、読んだ。読んだだけだ。判の欄は、紙の折れたところにあって、読めなかった。読めないものは、読まない。
「写真、いいですか」
記録係が言った。
「どうぞ。記録は、そちらの仕事です」
写真を、2枚。封と、扉の全体。
札を1枚、南野が立てた。
「立入禁止・点検中」。裏に、日付と、伝票番号。
「誰が置いたか、分かるようにしておくのが、札の礼儀だと」
「そうだ。誰に聞いた」
「……灰田さんは、言わないので」
南野は、テープを2本、通路の幅に渡した。ここまでで、4分。おれと同じ時間だった。教えていないのに、同じ時間だった。
命令の紙を、鞄から出した。
——確認の範囲。開扉、および入口の現況。
開扉。
字を、指で押さえた。開扉、の字がある。ある字の仕事は、する。
規程第3章第7条。作業は予定範囲のみ行う。範囲外の異常は記録し、手を触れず退出すること。
範囲は、開扉と、入口。入口の先は、範囲外だ。
封の紙に、手をかけた。
30年の糊は、固まったまま、乾いていた。指で押すと、粉になった。紙は、音もなく、はがれた。はがれた紙を、南野が両手で受けた。
鍵。
腰の鍵束から、共通鍵を出す。うちの扉は、うちの鍵で開く。30年、鍵だけは、引き継がれてきた。誰が引き継いだのかは、知らない。おれの腰にある。それだけだ。
錠に、差す。
回る。
30年ぶりの錠は、一度、途中で止まった。
止まったところで、力を抜いた。力で回す錠は、壊れる。
息を、吸って、吐いた。
もう一度、回す。
回った。
取っ手を、引く。
扉は、重かった。重いだけで、動いた。蝶番は、鳴らなかった。誰かが、油をさしていた。いつかは、知らない。
開いた。
◇
通路だった。
乾いた空気が、出てきた。埃のにおいが、しなかった。30年、閉まっていた場所の空気ではなかった。動いている空気だった。換気が、生きている。
通路は、まっすぐだ。幅は、うちの通路と同じ。床も、同じ。
灯りが、ついていた。
非常灯。
通路の天井に、等間隔で、非常灯が並んでいる。ついている。奥まで、ついている。奥は、灯りの列の先で、暗くなっていた。灯りが切れているのではない。通路が、曲がっているのだ。
非常灯の型式を見た。古い型だ。うちが10年前に、換えるのをやめた型だ。今は、部品が出ない。
つい、ている。
おれは、非常灯を、見た。見ただけだ。
「灰田さん」
南野の声が、小さかった。
「……ついてますね」
「ついているな」
南野は、それ以上、言わなかった。手帳に、灯りの数を書いていた。
型式は、書ける。書けるものだけ、書く。
記録係が、写真を撮った。3枚。手が、少しふるえていた。ふるえていても、撮っていた。それは、仕事だった。
「入口の現況」
声に出して、確認する。
「扉、開扉、異常なし。錠、作動。封、除去、保管。通路、乾燥。換気、あり。照明、非常灯、点灯」
南野が、書いた。
「型式は」
「書いていい」
南野が、型式を書いた。
おれは、通路の中へ、一歩、入った。入口の床は、入口だ。一歩は、入口のうちだ。
床を、足で、たしかめた。固かった。ぬれていなかった。
二歩目は、出さなかった。
「今日は、ここまでだ」
「……ここまで、ですか」
「命令の紙に、入口まで、と書いてある。書いてあるところまでが、仕事だ」
記録係が、おれの顔を見た。何か聞きたい顔だった。聞かなかった。
「戻ります」
一歩、戻った。
扉を、閉めた。錠を、かけた。封は、しなかった。封をしろ、とは、紙に書いていない。
南野の札が、扉の前に立っている。裏には、今日の日付と、伝票の番号。
30年前の封の紙は、南野の袋に入っている。糊の跡が、茶色く残っている。
「これ、どうしますか」
「保管だ。うちの控えに入れる。上に出すのは、写しだ」
30年前の紙を、うちの綴りに入れる。綴りの紐を、結び直した。
◇
退坑。
群れの脇を、また通る。22。位置は、行きと同じ。頭の向きも、同じ。
詰所に戻って、報告書を書いた。
様式第31号、ではない。あれは、規程に定めのない事象の様式だ。今日、見たものは、事象ではない。通路と、扉と、灯りだ。全部、定めのあるものだ。
現況確認の報告書。本部の様式。場所の欄に、業者口、と書いた。その先の通路の名前を、書こうとした。
規程の別表を、開いた。
別表は、二つある。層の一覧と、通路の一覧だ。通路の一覧を、引く。連絡通路。業者口。昇降設備。うちの通路は、全部、この表にある。
あの通路が、ない。
第55層方面、再点検待ち区画、業者口、の先。
行が、ない。
通路の一覧を、端から、もう一度読んだ。ない。
場所の欄に、業者口の先、と書いた。名前のない場所の書きかたは、それしかない。層の一覧は、まだ引いていない。今日の紙に、層の名前は要らない。
課長が、報告書を、二度読んだ。
「……開いたか」
「開きました」
「何があった」
「通路です。灯りが、ついていました」
「誰が」
「書いてありません」
課長は、湯のみを見た。茶は、入っていた。飲まなかった。
「明日も、行くのか」
「命令の紙が、来れば」
「来るな」
「来るでしょう」
点呼板の札を、裏に返す。2枚。
扉の向こうの通路は、規程の別表にない。
ないところを、明日、歩く。




