第27話「期限」
様式第31号、提出から44日。おれの机の、返事待ちの綴りに、まだ挟まっている。
返事は、まだない。
今日は、よその紙の期限の日だ。
◇
朝の詰所。本日の作業伝票、番号3364。第31層、通路灯の定期点検、1件。午後から。
午前は、紙だと言われていた。
協会の要求書の回答期限は、今日だ。30日と、鷲尾は言った。文書で頂きます、とも言った。あれから30日が、今日で切れる。
出す紙の期限は、よそが切る。うちが出した紙には、期限がない。同じ建物の中で、紙の速さは、向きで変わる。それは、もう知っている。
9時に、社内便が来た。
南野が封筒を受け取って、宛名を読んで、おれの机に置く。置いてから、封筒の角を、机の縁にそろえた。それから、自分の席に戻った。
封筒の中は、1枚。回答書の写しだった。
——ご要求の件について。
一行目は、そこまで同じだった。二行目が、違った。
——業者用経路の現況確認を、公社において実施し、その結果を貴協会に提供する。
——立会人、設備点検第三課、点検員、灰田誠。
日付と、判。柿沼保全本部長の名義。
調整中です、ではなかった。
中身が、あった。
二度、読む。中身は、二度読んでも同じだ。
合同、の字はどこにもない。検証、の字もない。現況確認、と書いてある。うちが確かめて、うちが書いて、それを渡す。協会は、見る側だ。一緒には、入らない。
調整中、の三文字より、逃げるのに字を使っている。そう思った。思っただけだ。
「灰田ぁ……すまん、また上がな」
課長が、自分の席から言った。枕詞は、いつもどおりだった。
「今度は、なんですか」
「読んだろ。現況確認だ。場所は、あとで言う」
「はい」
「返事、要るぞ。おまえの」
紙を、もう一度見た。
立会人、の横に、おれの名前が刷ってある。名前の下に、欄はない。受ける、とも、受けない、とも、書く場所がない。この前の補充書と、同じ作りだ。返事は、上が書く。おれの名前で。
「返事の欄が、ありません」
「ないな」
「ないので、作ります」
ボールペンを取った。他人の紙の上で、ペン先が、一度、止まった。
名前の下の、あいたところに、線を1本引いた。定規は、使わない。線は、少し、曲がった。引いた線の上に、書いた。
——受けます。規程の範囲で。定時内で。
字は、小さくする。他人の紙に書く字は、小さいほうがいい。
課長が、机の向こうから、のぞきこんだ。
「そんな欄、ないぞ」
「ないので、作りました」
「……上に、そのまま出すのか」
「写しです。原本は、上にあります。写しに書いたものが、うちの控えです」
「……上の名前で行くなら、行って帰るだけだ。おまえの欄を作ったら、その紙は、おまえのもんになるぞ」
「なります」
課長は、しばらく黙る。それから、椅子を引いて、こちらへ来た。
「言っとくが、断る権利はある。規程第一章だ。安全を損なう業務命令は無効」
第1章第3条。安全を損なうおそれのある業務命令は、無効とする。作業員は、これを拒むことができる。
28年で、課長がその条文を口にしたのは、はじめてだった。条文は、使う日のために書いてある。使わない条文は、それだけ、いい条文だ。
「損なうかどうかは、行って、書くまで分かりません」
「そうだが」
「分からないうちは、断れません。断るのは、分かってからです」
課長は、口を開けて、閉じた。
「……おまえ、それ、条文の逆から読んでるぞ」
「逆からも、読めるように書いてあります」
南野が、向こうの席で、手帳に何か書いた。書く手が、速かった。
◇
場所は、昼前に降りてきた。
紙で来た。1枚。
——現況確認の対象。第55層方面、再点検待ち区画の奥、業者口。当該扉は、開設以来、開扉の記録なし。
——確認の範囲。開扉、および入口の現況。
開扉。
30年、開いていない扉を、開ける。
再点検待ち、の区画は、知っている。アテンドの行程から外した層だ。様式第31号の返事が来ないから、外した。その返事は、今日で44日、来ていない。
返事の来ていない区画の奥へ、返事の代わりに、おれが行く。
紙は、そういう順番になっている。
確認の日付は、3日後。同行、記録係1名、本部より。
記録係の名前は、書いてなかった。
おれは、命令の紙を、控えの綴りに入れた。返事待ちの綴りには、入れない。この紙は、返事ではない。命令だ。命令の紙は、命令の綴りだ。
それから、机の引き出しを開けた。
報告書の様式を、いつもより多く出した。31号を3枚。12号を1枚。白紙の方眼を、2枚。
30年開いていない扉の向こうに、何があるかは、知らない。
知らないものを見たとき、どこに書くかも、まだ知らない。
だから、書ける欄を、多めに持っていく。あてはまる欄が、ひとつでもあれば、そこに書く。あてはまらなければ、白紙に書く。書かないという欄は、ない。
鞄に、紙を入れた。鞄は、紙のぶんだけ重くなった。返事待ちの綴りは、6ミリのままだ。
◇
午後、入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
南野は、半拍おくれて指を差す。声は、まだ出さない。順番がある。
第31層、通路灯。36本。切れているのは、ゼロ。ゆるみが1本。増し締めして、揺すって、たしかめる。動かない。
「灰田さん」
「なんだ」
「……いえ」
言いかけて、やめた。行くんですか、と聞きたかったのだと思う。聞かなかった。聞かなかったので、答えなかった。
聞かれていない質問には、返事の用意だけしておく。用意は、朝、してある。他人の紙の余白に、小さく書いた。
36本、異常なし。伝票に丸をつける。手を使う仕事は、その場で終わる。
伝票を、鞄に入れた。
◇
夕方、詰所に戻ると、もう1枚、紙が来ていた。
協会からだった。鷲尾の名義。回答書への、返書の写し。
——公社単独の現況確認は、合同検証の代替にはなりません。
一行目は、そうだった。思ったとおりだ。
二行目が、あった。
——ただし、立会人の氏名を確認しました。協会は、その記録を待ちます。
組織は、組織に返事をする。人は、人の名前に返事をする。同じ紙の中で、行が、違う相手に向いていた。
返書を、机に置いた。置いたあと、手が、まだ紙の上にあった。
課長が、湯のみを持ったまま、言った。
「協会は、公社を信用してないな」
「そう読めます」
「おまえのことは、信用してるらしいな」
「名前を、確認しただけです」
「同じことだ」
同じかどうかは、分からない。おれが持っていくのは、名前のほうだ。名前は、紙に書ける。
返書の写しを、控えの綴りに入れる。今日、綴りに入った紙は、2枚。返事待ちの綴りは、増えなかった。
点呼板の札を、裏に返す。5枚。
課長が、上着を取りながら言った。
「灰田ぁ……すまん、また上がな。今度は、30年開いてない扉だ」
「聞きました」
「怖くないのか」
「怖いかどうかは、開けてから書きます」
定時に、詰所を出た。
30年、開いていない扉には、開いていない理由がある。
3日後に、その理由の前に立つ。




