第26話「古い署名」
本日の作業伝票、番号3352。種別、資料調べ。場所、本部棟地下書庫。終日、1件。
資料調べの伝票は、ひと月ぶりだ。
前のは、ないことをたしかめる調べだった。今度のは、あることを数える調べだ。
◇
朝の詰所で、課長が紙を1枚、机に置いた。
「灰田。指名だ」
「なんの、ですか」
「協会の検証要求。対応資料に『経路の保守実績の整理』が要るんだと。本部からだ」
紙には、そう印字してあった。経路の保守実績、過去分、一式。期限、今週中。担当者の欄に、おれの名前が、もう刷ってあった。
立会人に名前の挙がった人間に、まず紙の仕事が来る。
「調整中です、の中身を作るわけですね」
「言うな」
課長は湯のみを持って、それから、置いた。
「30年ぶんだぞ。ひとりで足りるか」
行くのか、とは、まだ誰にも聞かれていない。聞かれていない質問には、返事の用意だけしておく。
「紙を数える仕事です。数える仕事は、ひとりのほうが速い」
「……まあ、おまえならな」
南野は、課長と第7層の小修繕に行くことになった。出がけに、うらやましそうな顔と、そうでもなさそうな顔を、半分ずつした。
「書庫って、あの、地下の」
「そうだ」
「30年ぶん、ですか」
「30年ぶんだ」
「……お昼、ちゃんと食べてくださいね」
新人に心配される勤続になった。悪い気は、しなかった。
命令の紙を、二度読んだ。書いてあるのは、経路の保守実績。それだけだ。
機械室の三文字は、紙のどこにも、ない。
ない字の仕事は、しない。あの三文字は、手帳の隅の番号と同じ場所に、置いたままにしておく。
◇
書庫は、本部棟の地下にある。紙のにおいも、箱の並びも、ひと月前と同じだった。
地下には、季節がない。あるのは、紙の温度だけだ。電灯を、奥まで全部つけた。終日の仕事は、明るさから作る。
30年ぶんの箱を、机の脇に、年の順で積む。
照明、排水、換気、送水。現行の種別だけを拾って、年ごとに件数を書き出していく。用紙は、方眼だ。図には目盛りがある。年表にも、目盛りがある。
めくる。数える。書く。めくる。
1年が、1箱。付箋は、30枚使う。箱をひとつ終えるたび、背の年号の肩にひとつ貼って、棚へ戻す。
おれの一日は、書類5ミリの厚みで終わる。その5ミリの30年ぶんを、今日、はじめて端から端まで手で繰っている。
厚いとも、薄いとも思わない。ただ、こういう量の、こういう仕事を、だれかが毎日していた。それが数字になって、方眼のます目に、たまっていく。
昼は、売店のパンにした。机からいちばん遠い箱の上で、立って食った。30年ぶんの紙の上に、パンくずを落とすわけにはいかない。ちゃんと食べてくださいね、の言いつけは、これで守ったことにする。
10年前の箱までは、速かった。印字がいまと同じで、目が滑らないからだ。
20年前で、すこし落ちた。ドット印字のかすれた数字は、読むのに一拍いる。
30年前の束で、手が、いちばんゆっくりになった。
手書きの複写。わら半紙のあめ色。なぞらないように読む。
拾わない紙も、めくる手の下を通っていく。通る紙は、通す。命令の紙に書いてない字は、数えない。
かわりに、というわけでもないが、めくっていると、いやでも目に入る欄がある。
検印の欄だ。だれがたしかめたかを示す、判の欄だ。
いまの伝票の検印は、判子だ。課の判と、個人の判。四角い朱色が、そろって並ぶ。
古い束は、手書きだった。検印の欄に、小さい字で、姓だけが書いてある。
——椋田。
知らない姓だった。
最初の箱から、椋田。次の箱も、椋田。照明の紙にも、排水の紙にも、同じ手の、同じ姓。字は小さいのに、高さがそろっている。現場で書いた字だ。机の字ではない。
毎日の紙に、毎日、名前を書く。おれが判を押すのと、同じことを、この人は手で書いていた。判のない時代の、毎日のぶんだけ。
おれの名前は、このごろ、他人の紙に印字されてばかりいる。自分の欄に、自分の手で書く名前のほうが、たぶん、重い。
3箱目の、とちゅうの月で、検印の姓が変わった。
前の週まで、椋田。次の週から、別の姓。字の癖が、その週を境に、すっかり入れ替わっている。
人が、変わったのだ。人は変わる。紙は残る。
それだけのことだと思い、それだけのこととして、めくる手を先へ進めた。
数える欄に、椋田の字は関係がない。関係のないものは、年表に入れない。
字のうまさだけが、頭のどこかに残った。
ああいう字を書く人の点検は、たぶん、いい点検だ。紙しか知らないおれが言えるのは、そこまでだ。
3箱目を棚へ押し込むとき、手が、すこしだけおそくなった。ひと月前、この書庫で手がおそくなったのと、同じあたりの棚だった。
◇
夕方までかかって、30年が、方眼紙1枚になった。
照明の列が、いちばん長い。排水、換気、送水が、それに続く。年ごとの数字が、桁をそろえて並ぶ。
多い年も、少ない年もある。ゼロの年は、ひとつもない。30年、毎年、だれかが数えられる仕事をしていた。それが、この1枚の言い分だ。
書類5ミリの30年ぶんが、1枚になる。厚みは、ほとんどない。持つと、軽い。
軽くなったのではなく、水が抜けたのだと思うことにした。めしを、米にもどしたようなものだ。
残りの箱を、ぜんぶ棚へ戻した。壁のひと区画が、朝と同じ顔に戻った。
詰所へ戻って、課長に年表を出した。
「できたか。……お、見やすいな」
「目盛りがあるので」
「本部のやつらに、読めるかな」
「読める作りにしました。読むかどうかは、あちらの持ち場です」
「……上の返事は、まだですか。おれの、名指しの」
「書いてない。……書けないのかもしれん」
「うちの30年、こうして見ると、働いてるなあ」
「働いてます」
「だなあ」
課長は年表を二度ながめて、受け取りの判を押した。うちの判は、今日も四角くて、朱色だ。
出せと言われた紙は、その日のうちに出た。こちらが出した紙の返事は、まだない。速さの向きは、今日も変わらない。
南野が、修繕から戻ってきた。
「第7層、手すり2件と、段の欠け1件。直りました」
「そうか」
直りました、の言いかたが、手を使った日の声だった。
南野は手を洗って、点呼板の前で止まった。
「あ」
声が出てから、口を押さえた。
点呼板の札が、5枚になっていた。
南野歩。刷られた札が、手書きの磁石と、置き換わっている。総務の「来月」が、来たのだ。
「札、来ましたね。おれの」
「来たな」
「……磁石、記念にもらっていいですか」
「総務に聞け」
磁石は、外されて、板の隅に寄せてあった。南野はそれを、しばらく手のひらに載せてから、隅へ、そっと戻した。置きかたが、ていねいだった。
1枚目から5枚目まで、同じ形の札が、同じ向きに並んでいる。
明日も、この人数で坑内に入る。札の数が、人数に追いついただけだ。
課長が、板をちらりと見て、言った。
「そろったな」
「そろいました」
28年前、この板のいちばん端に、おれの札が増えた日があった。だれかが、いまのおれの位置で、それを見ていたはずだ。
定時に、詰所を出た。
門の外で、一度だけ、足が止まった。
知らない署名だった。
28年いて、まだ知らない名前が、この坑にはある。




