第23話「経過観察」
先週まで、3台だった。
今朝は、9台、並んでいた。
カメラの数は、世間の温度計だ。目盛りが、また上がっている。
◇
朝の通用口の前の、報道のカメラの話だ。
「52層の音について、一言」
マイクが伸びてきた。
「作業がありますので」
それだけ言って、入口へ歩いた。言えることは、ない。あったとしても、言う場所がここでないことだけは、知っている。
南野いわく、ゆうべのうちに、探索者の書き込みがひとつ、ずいぶんまわったらしい。音のことが、ひと晩で、外の世界をひとまわりした。
世間の温度が上がった日に、おれの予定は、昼から紙だ。坑内は、午前の第9層、小修繕の半日だけ。
朝、入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
第9層は、通路の手すりのぐらつきがひとつ。増し締めして、揺すって、たしかめる。小さい仕事だが、手を使う仕事だ。
「なんか、ほっとしますね。手すり」
「そうか」
「紙より、手すりのほうが、直った感じがするっていうか」
言いたいことは、分かる。おれは、直した手すりを、もう一度揺すってみせた。動かなかった。
手すりは、その場で直る。直って、さわると分かる。南野は、直したところを、帰りぎわにもう一度さわっていった。
昼めしのあいだだけ、南野は実家から送られてきた米の話をした。詰所の電話は、めしどきも鳴っていたが、おれは米の話のほうを聞いていた。
◇
午後の詰所は、電話の音でできていた。
午前だけで11回、と南野が数えていた。数えるようになったのは、いい傾向だ。相手は、どこの誰とも知れない。52層の音のことを、どこかで聞いた誰かたちだ。
昼すぎに、本部から紙が1枚まわってきた。
——対外の説明は、本部広報部に一本化する。現場部署は個別の問い合わせに応じないこと。
それからの南野の電話の返事は、ひとつになった。
「本部広報部に、お問い合わせください」
言いかたが、回を追うごとにうまくなっていった。うまくなってほしい種類の仕事では、ないのだが。
社内便の封筒も、届いた。宛名は、第三課。差出人は、部署名だけだった。
出した紙が、戻ってきたのだ。
様式第31号、一枚目。様式第31号、二枚目。群れの配置ズレの報告書。南野の観察記録。
四枚、全部だった。
四枚とも、右上に判が押してあった。
——経過観察。
見たことのない判だった。28年やって、うちに来る判の種類は、だいたい見てきた。これは、だいたいの外から来た。
判の場所は、四枚とも同じだった。ミリ単位で、同じだ。四枚を重ねて窓に透かすと、判は、ひとつに見えた。
南野が、横からのぞいて言った。
「……経過観察って、誰が観察するんですか」
「書いてない」
「観察の予定とか、担当とか」
「書いてない」
判のほかに、書き足された字は、四枚のどこにもなかった。
四枚のうちの一枚は、南野が自分の字で書いた、はじめての観察記録だ。それに来た最初の返事が、これだった。
南野は、その一枚を、両手で持ったまま、しばらく見ていた。何か言うかと思ったが、言わなかった。言わないことを、覚えはじめている。
返事は、来た。返事に、中身がなかった。
この前の空欄の伝票は、半日で取りに来た。こちらの報告は、27日寝かせて、判ひとつで返ってきた。電話が11回鳴る日でも、判は、経過観察のままだった。上の足の速さは、方向によって変わるらしい。
◇
回覧板も、まわってきた。
協会あての回答書の写し。柿沼保全本部長の名義で、本文は一行だった。
——ご要求の件については、調整中です。
調整中、の3文字と、日付と、判。
鷲尾の要求書は、1枚に検証項目が12並んでいた。こちらの返事は、1枚に3文字だ。
紙の重さは、字数では決まらない。決まらないが、これは軽い。持たなくても分かるくらい、軽い。
その軽い一行への返事が、夕方の便で来た。
協会からの、補充書。前の要求書に、付け足す紙だ。正式には、合同安全検証の実施要求に係る補充書。
——検証立会人として、下記の者の参加を求める。設備点検第三課 点検員 灰田誠 氏。
おれの職名と氏名が、他人の紙の上に、並んで印字されていた。
読み上げたのは、課長だ。読み上げてから、おれを見て、紙を見て、もう一度おれを見た。
「……名指しだ。検証に、おまえが立ち会えってことだぞ」
「のようですね」
「名指しはなあ。断りにくいんだよ、名指しは。……しかし、なんで名前まで知ってるんだ」
「アテンドは、正式の行事でしたから。記録に、おれの名前が載っています」
「……ああ。あれか」
断るかどうかを決めるのは、おれではない。おれの名前なのに、この紙に、おれの返事の欄はない。
「返事は、どうなるんですか」
「上が書く。……上が、書けるといいがな」
調整中です、と書くのだろうか。おれの名前に。
氏名の字が、合っているかを、たしかめた。合っていた。
課長は、受話器を取った。相手の名前は、聞こえなかった。声は低く、短く、何度か途切れた。背中の肩が、途中で一度、上がって、下がった。
受話器を置く音だけが、大きかった。
課長は、湯のみの茶を一口飲んでから、こちらを向いた。
「灰田。悪いな、こういう日ばっかりで」
「悪いのは、課長ではないでしょう」
「まあな。……まあ、な」
課長は、湯のみの底を見た。茶は、もう入っていなかった。
「上はな、『経過観察』って言葉を発明したんだ。観察なら、してることになるからな」
発明、か。
南野は、自分の観察記録の控えを、手帳にはさみ直していた。はさむ手が、少しだけ乱暴だった。
乱暴になる気持ちは、直さなくていい。
はさみ終えた手帳を、南野は一度、膝の上でそろえた。
紙のはさみかたは、あとで直させる。
◇
夕方。電話は、まだときどき鳴った。
南野は、2号機のベルト交換の手配表を書いていた。ひびのうちに書いた紙が、ちゃんと仕事になっていく。書いた紙が働く様子は、見ていて静かに気分がいいものだ。
おれは、判の付いた四枚の控えを、自分の綴りに足した。
補充書の写しは、足さなかった。あれは、返事のない紙ではない。おれが返事を書けない紙だ。置き場所が、まだ、ない。
返事のない紙、返事に中身のない紙。そういう紙だけをまとめた綴りが、いつのまにか、おれの机にできている。
厚みを、指で測った。6ミリ。
綴りひもを、締め直した。緩んだ綴りは、紙を落とす。落とす音は、もう聞きたくない。
おれの一日は、5ミリで終わる。終わらない紙の6ミリを、おれは机の上に持っている。
机の引き出しに、報告書の様式を補充した。書く紙を、切らさないでおく。こちらの観察は、続けるからだ。
帰りじたくのとき、南野が言った。
「明日は、坑内、ですよね」
「坑内だ」
「……よかった」
「そうか」
紙と電話の日のあとの坑内を、よかった、と言うようになった。この課の人間の言うことになってきた。
定時に、詰所を出た。通用口のカメラは、まだ何台か残っていた。
出がけに、点呼板の札を見た。4枚と、手書きの磁石。明日も、この人数で坑内に入る。
観察は、おれたちが坑内でしている。
上がしているのは、経過だ。




