第24話「教え」
退坑、16時40分。詰所へ戻る途中の、夕方の通用口の脇に、大きい影が立っていた。
守衛が、二度見していた。二度見される側は、気にするふうもなく、壁ぎわで直立していた。
先鋒の剣崎迅。今日は、アポも、書類もなしだ。
「面会ですか」と守衛が聞いた。
「いや。……知り合いだ」
守衛がおれを見た。おれがうなずくまでの数秒、通用口の時間が止まっていた。
知り合い。まちがってはいない。
◇
「5分、いいか」
「立ち話でよければ」
剣崎は、一度だけ、坑のほうを見た。
「52層の話は、聞いた」
何の音だったのか、とは聞かなかった。聞いても、おれが言えないことを、この男は知っている。
「今日は、別の用だ」
応接に上げる話なら、書類が要る。書類のない話は、通用口でする。そういう区分けが、いつのまにか、おれとこの男のあいだにできている。
剣崎は、上着の内側から、折りたたんだ紙を出した。3枚あった。
「うちの隊の、決めごとを書き出してみた。見てくれ」
広げると、手書きの字が並んでいた。武器の受け渡しは名前を言う。長靴は自分で買う。床がぬれていたら走らない。置いた得物の向きは、そろえる。7つとも、短かった。7つとも、しくじった日の顔をしていた。
読める字だった。書いた人間が、書き慣れていないのに、ていねいに書いたことの分かる字だ。紙の折り目は、白くなるまで開かれた跡があった。
「まだ、7つしかない」
「7つ、あるんですね」
剣崎は、少し黙って、3枚の紙を見直した。
「あんたらの規程を、写させてもらえたら早いんだが」
「渡せません。公社の文書なので」
「だろうな」
剣崎は、あっさり引いた。引いてから、紙の端をそろえた。
「会議室を、協会で押さえてもよかった。あんたが来てくれるなら」
「勤務中は、動けません」
「だから、ここに来た」
言ってから、剣崎は、通行のじゃまにならないほうへ、半歩だけ壁に寄った。
5分の立ち話のために、この男は、こちらの都合の側へ歩いてくる。
「うちの若手がな。勝手に、あんたらの真似を始めてる。声を出したり、指を差したり。……中途半端な真似は、事故のもとだ。俺が教えるなら、ちゃんと教えたい。それで、来た」
「何人ですか」
「隊で3人。よそも入れたら——分からん。配信で、広がってる」
数えられない広がりかたを、この男は、数えられるうちに手を打ちに来た。
若手が、勝手に。
アテンドの帰りぎわの言葉が、そういう形で続いていたらしい。
「写しは渡せませんが」
おれは、3枚の紙を返した。
「続きは、書けます。自分の職場の規程を、自分たちで書き始めることです。うちのも、最初は誰かの一枚目だった」
剣崎は、紙を見て、それからおれを見た。
「……あんたらのも、か」
「最初から30年ぶんあったわけでは、ないので」
それ以上は、言わなかった。言えるほど、おれも知らない。
◇
「ひとつだけ、教えてもらえないか。あの、声の出しかたの型を」
それなら、渡せる。型は、文書ではない。
「目で見る。指を差す。声に出す。指の先を、もう一度見る。順番は、これだけです」
「目、指、声、目」
言いながら、剣崎の指が、順番どおりに小さく動いていた。
「差した指の先に、たしかめたいものを置く。指が先で、声はあとです。声が先になると、口だけになる」
「……指が、先か」
「指の高さは、目の高さまで上げる。低い指は、差しているうちに入らない」
剣崎は、通用口の脇の、なんでもない消火器に向かって指を差した。
「——経路よし」
声は、低く、通った。アテンドの日の第一声とは、別ものだった。あの日、坑の入口でやり直しをさせた声が、ひと月で、ここまで来る。
「今のは、経路ではなく消火器ですが」
「……型の練習だ」
「型は、合っています」
剣崎は、もう一度だけ、消火器に指を差した。二度目は、指の高さが、目の高さに来ていた。直りの早い新人は、ひさしぶりだ。
通用口を出ていく事務方がひとり、消火器に指を差すS級を二度見して、何も見なかった顔で行った。
道の向こうで、カンテラが立ち止まって、こちらを見ていた。
端末は、ポケットから出てこなかった。撮らないことを、自分で選ぶ顔だった。会釈だけして、行った。
「あれは、あんたのところの?」
「見習いの、見本役です」
「……いい目をしてた」
剣崎は、それだけ言った。
◇
「礼はする」
「要りません」
「即答だな」
「決まりなので」
「……なら、うちの決めごとの8つ目にする。教わった型は、教わったとおりに使う。それでいいか」
「いい8つ目です」
剣崎は、3枚の紙を内側にしまって、それから、しまい忘れたもののように、もうひとつ聞いた。
「教えてくれ。あんたの言う『経路』ってのは、何だ」
道の順路のことなら、地図で足りる。この男が聞いているのが、そういうことでないのは、分かった。
分かったが、短く答えられる言葉を、おれは持っていなかった。
28年、毎朝口にしてきた言葉の中身を、正面から聞かれたのは、はじめてだった。
「……長くなりますが、定時までなら」




