第22話「退避」
本日の作業伝票、番号3344。第52層、換気設備の定期点検、1件。同行者、1名。
換気は、坑内の呼吸だ。呼吸の点検は、静かな仕事だ。
静かな仕事の日ほど、耳は、よく働く。
◇
朝、入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
第52層の送風機区画は、南野には初めての現場だ。エレベーターの数字を、また目で追いかけていた。追いかたが、初日より落ち着いている。物差しが、育っている。
着いてみれば、区画は風の音でいっぱいだった。声は、腹から出さないと届かない。ここでの喚呼は、だから、いい稽古になる。
送風機は、2基。羽根が欠けていないか、ベルトがゆるんでいないか、風量の目盛りが正しいか。順に見ていく。
南野には、風量計の読みかたを教えた。目盛りは、指で差して読む。読んだら、声に出す。
「1号機、風量よし」
「よし」
2号機のベルトに、細いひびがひとつあった。交換は、次回の予定に書く。ひびのうちに書くのが、点検だ。
声も、手も、揃ってきた。2基目の途中までは、いつもの日だった。
◇
音は、下から来た。
風の音の中でも、聞こえた。風の音の上をこえてではなく、下を、くぐって届いた。
床から、というより、床の下の、もっと下からだ。
大きな建物が、寝がえりを打つような音だった。低くて、長い。
南野の手が、風量計の前で止まった。止まったまま、動かなかった。
おれは、数を数えていた。
数えるのは、癖ではない。長さは、報告書に書ける。書けるものは、怖がる前に、数えておく。
10。
前は、ここで終わった。
11で、音は終わった。天井の照明が細かくふるえて、やんだ。風量計の針は、音のあいだも動かなかった。風は、正直なままだった。
南野が、唾を飲む音がした。風の音の中で、それだけ聞こえた。
前は、床に手のひらをつけて、やっと分かるふるえだった。今日は、立ったままの足の裏に来た。
「……い、今の」
「作業中止」
声より先に、体が決めていた。決めてから、条文が追いついてくる。
規程第5章第2条。規程に定めのない事象に遭遇した場合、直ちに作業を中止し退出、報告書を提出すること。
「工具、まとめろ。数えてからだ。あわてるな」
「は、はい。ドライバー、ペンチ、検電器——3点、よし」
「よし。順番は、入るときと逆だ。おまえが先に出る」
「灰田さんは」
「電源を戻して、すぐ行く。走るな。歩幅で出ろ。走ると、退避がヒヤリになる」
南野の顔は白かった。白い顔のまま、走らなかった。教えたとおりの歩幅で、教えたとおりの側を歩いた。
電源を戻す。戻したことを、指を差してたしかめる。頭が忙しい日でも、手が迷わないように、決めてある手順だ。
指を差しているあいだ、風の音しか、しなかった。しないことを、たしかめてから、出た。
通路の分岐で追いついて、人数を数えた。2。全員だ。2人でも、数える。数えない退避は、退避ではない。
通路を出るとき、一度だけ後ろをふり返った。送風機は、何ごともなく回っていた。
何ごともない顔をしているものを、疑わなければならない日が、たまにある。
エレベーターの前に、先客がいた。
探索者が、3人。中堅どころの装備で、3人とも、床のほうを見ていた。
「……公社の人すか。今の、聞こえました?」
「聞こえました」
「あれ、なんなんすか」
「分かりません」
分からないことは、分からないと言う。現場では、それがいちばん早い。
「長さは、数えました。報告書に書きます。うちは規程で、作業を中止して上がるところです」
「……数えてたんすか、あれを」
3人が、顔を見合わせた。南野が、口の中で小さく、3、と数えた。数える癖が、人にうつっている。
いちばん体の大きいのが、聞いた。
「おれらも、上がったほうがいいすか」
おれは、一度、3人の装備を見た。うちの規程の効く装備では、ない。
「それは、そちらの決めごとです。うちの規程は、うちにしか効きません」
いちばん体の大きいのが、腕の端末を見た。今日のぶんの、途中までの数字が出ているのだろう。見て、しまった。
「……上がるか」
3人は、自分たちで決めた。
探索装備の3人で、箱はいっぱいになる。
「先に行ってください。うちは二人です。次で足ります」
扉が閉まるまで、3人は、こちらを見ていた。南野は、扉が閉まるまで、まっすぐ立っていた。
エレベーターの箱の中で、南野の膝が、小さくふるえていた。
ふるえは、けっこうなことだ。体が、正しく怖がっている。
そのくせ、手帳には、退避の直前まで読んでいた風量計の数字が、ちゃんと写してあった。ふるえを膝に集めて、手は仕事をしていたらしい。
「……灰田さんは、怖くないんですか」
「怖い」
エレベーターの数字が、3つぶん上がった。
「怖いから、手順がある。怖くないやつに、手順は要らない」
「……あれ、なんの音ですか」
「分からん」
地上に着くころ、膝のふるえは、止まっていた。
◇
定時より早く、地上に戻った。
二度目だ。一度目も、うれしくなかった。二度目は、もっとうれしくない。
詰所で、課長に報告した。課長は、湯のみを置いて、最後まで黙って聞いた。
「……31号か」
「二枚目です」
「……返事、来ないなあ」
「来ないですね」
「来ないなあ」
課長は、同じことを二度言って、湯のみの茶を飲み干した。
「上には、おれから電話も入れとく。紙と、声と、両方だ」
様式第31号。規程に定めのない事象の報告。一枚目は、出してから26日たって、返事がない。
返事のない紙の下に、二枚目を重ねる。重ねるために書くのではないが、重なっていく。
音の長さ、11数えたこと。床のふるえ。照明のゆれ。聞いた場所。時刻は、10時41分。書けることを、ぜんぶ書いた。
南野にも、書かせた。見たまま、聞いたままを、南野の字で。
南野は、様式の番号を見て、少しのあいだ黙っていた。
「12号より、番号は上なんですね」
「そうだ」
「……なのに、軽い感じが、しないです」
番号の物差しが効かない紙が、あるらしい。おれも、そう思っている。言わなかったが。
書き終えて、南野が言った。
「……規程どおりに、怖かったです」
「いい報告だ。そのまま書け」
南野は、その一行を、ほんとうに書き足した。字は、ふるえていなかった。




