第20話「予備」
本日の作業伝票は、1枚のはずだった。
番号3341。第44層、照明設備の定期点検、1件。
届いた伝票は、2枚あった。
◇
朝の詰所。伝票の束を配るのは、このごろは南野の仕事だ。配りながら、番号を小さく声に出して読む。いい癖だと思って、直させていない。
その声が、途中で止まった。
「灰田さん。これ、場所が書いてないんですけど」
差し出された1枚を見る。
番号3342。番号は正規のものだ。日付も、発行印もある。発行時刻の印字は、今朝の6時51分。うちの伝票が刷られる、いつもの時刻だ。
種別の欄に、こう印字されていた。
——機械室・予備。
場所の欄、空欄。工具の欄、空欄。作業内容の欄、空欄。枠の線だけが、印刷のまま白く並んでいた。
種別と番号だけの、伝票のかたちをした紙だった。
「予備って、なんの予備ですか」
「書いてない」
「機械室って、どこですか」
「さあな」
紙そのものは、正しい。様式も、判の位置も、印字のくせも、うちの伝票のものだ。——刷った機械まで、同じだ。正しい紙に、書いてあることがない。めずらしい組み合わせだった。
おれは、その1枚を課長の机に置いた。
「課長。本部に、聞いてもらえますか。照会です」
「ん? ……なんだこりゃ。場所がないぞ」
「ないから、照会です」
「機械室ってのは、どこの機械室だ」
「それが書いてないので、照会です」
「……だな」
課長は伝票を二度ながめて、受話器の前で少し止まった。それから、内線の一覧を先に見た。どこにかけるかから考える紙は、めったに来ない。
おれは自分の伝票を胸ポケットに入れて、朝の準備に戻った。
◇
昼前に、本部から人が来た。
見たことのない事務方だった。若くはなく、名乗りは短かった。その1枚だけを書類ばさみにはさんで、持って帰った。
代わりに、受領書が1枚残った。伝票より薄い紙に、回収した伝票の番号が書いてある。3342。
紙が消えても、番号は残る。番号というのは、消しにくくできているらしい。
電話は、そのあとで鳴った。課長が受けて、二言三言で切れた。
「発行ミスだそうだ」
「そうですか」
「システムの、何かの、あれだと」
誰のミスかは、言わなかったらしい。何のミスかも、言わなかったらしい。
あれ、で説明が終わる話には、たいてい、長い説明が別にある。
ミスの説明にしては、迎えが早かった。ミスのために、人がひとり、昼前に取りに来た。ていねいなミスだった。うちの総務は、南野の札に、ひと月かけているのだが。
課長は、内線の一覧をまだ指でおさえたまま、言った。
「気になるか」
「いえ」
「おれは、ちょっと気になるがな」
「なら、課長の持ち場です」
「おい」
おれは、返事の代わりに、自分の伝票を持ち上げてみせた。44層、通路灯。今日のおれの持ち場だ。
南野が、自分の机から首を伸ばした。
「回収って、あるんですね」
「あるらしいな」
それだけにした。
南野は、さっきまで紙のあった場所を、少しのあいだ見ていた。
◇
昼は、詰所でめしを食った。南野は、めしのあいだに三度、朝の机のほうを見た。三度目のあとで、箸の袋を細く折りはじめた。
午後、入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
第44層、通路灯28本。点灯の確認、器具のゆるみ、配線の被覆。1本ずつ、指を差して、点検表に丸をつけていく。
南野の復唱は、もう揃っている。声の高さまで、仕事の高さになってきた。
17番の通路灯の、番号札が欠けていた。灯りは、ついている。札だけが、ない。
「札、なくても分かりますよね。17番って」
「分かる。分かるが、書く」
点検表の備考欄に、一行書いた。
——第17号灯、番号札欠損。次回、補修。
「……そういうのも、書くんですね」
「書けるものには、書ける欄がある。書ける欄があるうちは、いい知らせだ」
南野は少し黙ってから、自分の点検表に、同じ一行を書き写していた。
28本、異常なし。交換、0本。備考、1件。
点検表の丸が、28個ならんだ。
帰りの通路で、南野が言った。
「灰田さん。朝のあれ、なんだったんですかね」
「発行ミス、だそうだ」
「……はあ」
はあ、の続きは、通路灯の低い音に消えた。
◇
終業。伝票を書く。番号3341、第44層、通路灯28本、異常なし。備考、番号札1件。
書き終えて、判を押す。今日の紙は、これで全部だ。
夕方の詰所は、朝と同じ形をしていた。課長は、業務日誌に電話のあった時刻を書いていた。時刻のほかに、書くことは、なかったらしい。
点呼板の前で、南野が「お先です」と頭を下げた。磁石の名前は、今日もまっすぐだった。
朝の1枚は、おれの手元には残っていない。写しも、ない。あるのは、受領書の番号だけだ。
手帳の隅に、3342、とだけ書いた。
定時の帰り道は、静かだった。
発行ミス、だそうだ。
ミスで出てくる名前に、28年で二度、会った。




