第19話「side 南野 『聞こえる』」
寝言で「ドライバー、です」と言ったらしい。実家の妹に、録音までされていた。誰にも言ってないし、一生言わない。
おれ、南野歩。ダンジョン設備管理公社、設備点検第三課。配属2週間の、いちばん下っ端だ。
札はまだ来ない。総務に一度、自分で聞きに行った。来月です、と言われた。来月がいつの来月かは、聞かなかった。聞いても、紙は早くならない。
点呼板のおれの名前は、今日も手書きの磁石だ。少し曲がっていたのを、誰かがまっすぐに直してくれていた。
◇
2週間で、変わったことを数えてみる。
ひとつ。声出しが、恥ずかしくなくなった。最初の3日は、誰もいない通路で「点灯よし」と言うたび、耳が熱くなった。今は、言わないほうが気持ち悪い。歯をみがかないで寝る夜みたいな感じがする。入口の喚呼だけは、まだやらせてもらえない。順番がある、んだそうだ。
ふたつ。手帳が、2冊目に入った。1冊目は1週間たたずに半分いったから、ペースは落ちた。書くことが減ったんじゃない。1回で書ける字が、増えた。
みっつ。人類最高戦力が、うちに球替えの見学に来た。灰田さんは、あの人に脚立の反対側を持たせたと、あとで課長が笑いながら教えてくれた。新人の位置だ。おれと、同じ位置だ。留守番の無線の前で、なんだかうれしかった。何がうれしいのかは、うまく言えない。
数えてみたら、少し元気が出た。ものを数える癖は、この課に来てからついた。
◇
変わってないことも、ある。
灰田さんが、なにものなのか、まだぜんぜん分からない。
働きはじめて分かったけど、あの人はたぶん、おれが思ってたより、ずっとおかしい。
まず、歩幅が変わらない。明るい通路でも、暗い通路でも、せまくても、広くても、同じ歩幅で歩く。おれは暗いところでは歩幅がせまくなる。ふつう、なると思う。
つぎに、工具を渡すとき、おれの手を見ない。おれが受け取るときは、手のひらのいちばん取りやすい場所に、柄のほうから降ってくる。最初は偶然だと思った。24箇所やって全部そうだったら、偶然じゃない。
それから、電気を消すときも指を差す。詰所の、ただの蛍光灯のスイッチにもだ。家でもやってるんですか、と一度だけ聞いた。「家に規程はない」と言われた。答えになっていない。
あと、あの人は、切れかけの球が分かる。ちらつく前に、分かる。先週、41層で「38番、そろそろだ」と言って、38番はほんとうに3日後に切れた。おれは占いだと思っている。占いじゃないなら、たぶん、音だ。おれには何も聞こえなかった。
今日の現場は、第63層の給水設備。行きも帰りも、第55層方面の連絡通路を通る。灰田さんの経路は、そう決まっているらしい。朝、通路の入口で、灰田さんは今日も指を差した。
「——経路よし」
声は、大きくない。でも、通る。声が通路の形をしている、と思う。手帳にそう書いたら、我ながら意味が分からなかった。でも、消さなかった。
◇
第55層方面の連絡通路に入る前で、灰田さんが言った。
「この先、群れの脇を通る。おれの後ろから、出るな」
連絡通路の先に、それはいた。
壁ぎわに、甲殻のかたまりが、ずらりと。一体ずつは、思っていたより小さかった。小さいから安心、というものではないことは、動画で知っている。
ひとつ、ふたつ……途中で数えるのをやめた。あとで聞いたら、22体だそうだ。数えきれなかった自分が、ちょっと恥ずかしい。
グレイヴクロウ。動画で見たことがある。1体で、中堅のパーティが全滅するやつだ。
正直に書く。こわかった。手帳に書く用の言葉じゃなく、ほんとうに、足の裏から冷えた。
灰田さんは、歩幅を変えなかった。ライトも、そのままだった。
今朝、手帳に書いたばかりのことだった。書いたときは、ただの発見だった。ここで見ると、意味がちがう。
おれは、灰田さんの背中だけを見て歩いた。あの人の後ろが、この坑内でいちばん安全な場所だ——初日に、課長に言われた。その言葉の意味を、背中に貼りつくようにして歩きながら、思い出していた。
甲殻の足が、かり、かり、と鳴っていた。
灰田さんは、歩きながら、群れを端から端まで見ていた。何かを数えていた。数えているのに、足は一度も止まらなかった。
第63層の給水設備は、異常なしだった。作業のあいだも、おれの耳は半分、あの通路に残っていた。
帰りも、同じ脇を通った。
かり、かり、かり。
——かり。
かり、かり、かり。
——かり。
何かが、数えていた。
そこで、気づいた。
足を止めかけて、やめた。止まるなとは言われていない。でも、灰田さんの背中が「止まるな」の形をしていた。
通路を出てから、言った。
「……聞いてました。あの甲殻の、足の音が変わるの」
灰田さんが、ふり返った。ふり返るのが、早かった。
「行きは、ばらばらだったんです。かりかりって、てんでばらばらに。帰りは——そろってました。何拍かに1回、ぜんぶの足が、同時に鳴るんです」
驚かれると思った。気のせいだと言われるとも思った。
灰田さんは、どっちでもなかった。
「いつからだ」
「帰りの、途中からです。たぶん」
「そうか」
それだけだった。それだけなのが、いちばんこわかった。
◇
詰所で、灰田さんは報告書を書いた。
いつもの伝票じゃない。別の紙だった。おれの席からは、番号までは見えなかった。
一行書き足して、判を押して、本部行きの箱に入れた。それから、いつもの顔でお茶を飲んだ。
あれ、なんの紙ですか、と聞けばよかったのかもしれない。聞かなかった。聞いたら、教えてくれた気もする。でも、書き足された一行がおれの耳の話だということだけは、席の遠さでも分かった。
灰田さんの机には、このごろ、坑内で書く紙のほかに、地上で書く紙も積まれている。そっちは、判を押しても、戻ってこないらしい。
自分の聞いたものが、判つきの紙になる。うれしいのか、こわいのか、まだ決められない。
おれは、まだ2週間だ。この坑内の何がふつうで、何がふつうじゃないのか、半分も分かっていない。
でも、これだけは分かる。ふつうじゃないものが聞こえた日に、あの人は、いつもの時間にお茶を飲んだ。
灰田さんは、報告書に書いて、判を押した。……あの音のことを、おれはまだ、何て呼べばいいのか知らない。




