第18話「要求」
本日の作業伝票、番号3330。第22層、送水管の定期点検、1件。同行者、1名。
アテンドから、3日たった。坑内は、いつもどおりだ。
いつもどおりでないのは、地上のほうだった。
◇
朝、入坑。通路の入口で、指を差す。
「——経路よし」
南野は半拍おくれて、指だけ差す。入口の喚呼は、まだ先だ。順番がある。
第22層、送水管。継ぎ手のゆるみ、圧の目盛り、にじみの有無。ひとつずつ、指を差して、点検表に丸をつけていく。
にじみの見つけかたを、教えた。目で見るより先に、手の甲を近づける。ぬれていれば、冷たさが先に来る。
「見るより、さわるんですか」
「さわらない。近づけるだけだ。さわると、手の脂で次のにじみが分からなくなる」
南野は、自分の手の甲を、意味もなく自分のほおに当てていた。冷たかったらしい。
「……メモしていいですか」
「手を止めてよし。書け」
南野の手帳は、配属からまだ1週間もたたないのに、もう半分うまっている。書く癖のあるやつは、伸びる。
作業の合間に、南野が言った。
「灰田さん、ゆうべの先鋒の配信、見ました? 剣崎さん、アテンドの話してましたよ。いい仕事場だった、って」
「そうか」
「コメントが、すごかったです。おれも見学行きたい、って。探索者の人が、いっぱい」
「そうか」
行きたい、だけでは、坑内には入れない。
継ぎ手24箇所、異常なし。坑内は、今日も定時だった。
◇
夕方、本部から呼び出しが来た。会議室。おれと課長のふたりで、現場の説明員、という名目だった。
本部の会議室は、坑内より明るくて、坑内より寒い。空調の風が、書類の角を小さく揺らしていた。
長机の向こうに、協会の人間が3人。まんなかの白髪まじりの男が立ち上がって、名刺を差し出した。
「探索者協会、渉外部長の鷲尾と申します」
名刺の字は細かった。声は、細くなかった。
「本日は、要求書をお持ちしました」
鷲尾は鞄から紙ばさみを出し、1枚の紙を、両手で机に置いた。指をそろえて、音を立てずに、置いた。
「業者用経路にかかる、合同安全検証の実施要求書です。——開示は、要求です。お願いではありません」
要求書は、1枚だった。1枚で足りる紙は、強い。
おれの席からも、項目の並びは見えた。検証項目、12。日付があり、範囲があり、期限がある。読める紙だった。
読める紙を書く相手は、手ごわい。読めない紙なら、読めないと返せばいい。読める紙には、答えしか返せない。
公社側の席から、柿沼保全本部長が答えた。会見で見た顔が、会見で聞いた声のまま、机の上の要求書を見ないで言った。
「ご要望として、承ります。調整中です」
鷲尾は、座らなかった。
「要望ではなく、要求です。議事録の文言は、訂正を求めます」
「……ご要求として、承ります」
鷲尾は、うなずきもせずに続けた。
「回答期限は、要求書に記載のとおり、30日です。文書で頂きます」
「現場のスタッフの業務に、支障のない範囲で、検討いたします」
「点検員の、方々です」
鷲尾は、そこだけ、少しゆっくり言った。
呼ばれた気がして、顔を上げた。おれのことだった。自分の職名を、他人の口から正しく聞いたのは、28年で何度目だろう。数えたことはない。
「先日、うちの剣崎が一人だけ、見学を許されました。ほかの探索者に、なぜあの男だけなのかと問われて、私どもは答えられませんでした。——特例は、いちど出ると、制度になるか、不公平になるかの、どちらかです」
鷲尾は続けた。
「協会は、現場の業務を止めることを求めていません。私どもが求めているのは、探索者が命を懸けている場所の、安全に関する情報です。それを持っているのが公社なら、公社に求めます。それだけです」
課長は、会議のあいだ、一度だけ発言した。
「現場は、いつでもお見せできます」
それは、うちの課の本音だった。議事録には、載らなかったと思う。
帰りぎわ、鷲尾がこちらへ寄ってきた。
「点検員の灰田さんですね。先日は、うちの剣崎が世話になりました。彼の報告書を読みました。——規程、というのだそうですね。彼は、マニュアルと書いて、消して、規程と書き直していました」
「そうですか」
「私どもは、その規程の話を、しに来ます。正式に、何度でも」
頭を下げて、協会の3人は帰っていった。要求書だけが、机に残った。
柿沼本部長は、最後まで、その紙を見なかった。
説明員は、ひとことも説明しなかった。誰にも、何も聞かれなかったからだ。
返事の来ない紙と、期限を切ってくる紙が、同じ建物の中にある。
様式第31号の返事は、まだ来ない。出してから、14日になる。
◇
詰所に戻ると、南野が点呼板の前で待っていた。
点呼板の札は、まだ4枚と、手書きの磁石がひとつ。総務は、来月だという。
「会議、どうでした」
「会議だった」
「……そうですか」
それ以上は聞かないあたり、育ってきている。会議は、坑内とちがって、点検表に丸をつける場所がない。どこまで終わって、どこから終わっていないのか、やった本人にも分からない。
課長は、自分の机で湯のみを持ったまま、しばらく黙っていた。お茶は、たぶん、とっくに冷めている。それから、こっちを見ずに言った。
「灰田ぁ……すまん、また上がな。おまえに、検証対応の実務資料を出せとよ。今度は、書類のほうの坑内だ」
詰所の時計は、退勤の時刻を、とうに回っていた。坑内には、退坑の時刻が書いてある。書類には、書いていない。
行程表のない坑内だ。どこで滑るかも、まだ分からない。
書類に、経路よしは効くだろうか。
明日も、伝票は来る。場所も、工具も、ぜんぶ書いてある紙が来る。




