第17話「アテンド」
本日の作業伝票、番号3327。第12層、排水路。第38層、照明。第99層、非常灯。定期点検、3件。
同行者の欄に、名前がふたつ。ひとつは、第12層までの同行だ。
もうひとつの名前は、人類最高戦力と呼ばれている。
◇
8時30分、通用口。
客は、10分前に来ていた。公社の貸し出しのヘルメットをかぶり、真新しい長靴を履いて、壁ぎわに立っていた。あれだけの装備を全部外すと、ただの背の高い男だった。
「今日は、よろしくお願いします」
頭が、深く下がった。地上でいちばん強い男の礼は、静かだった。
カンテラも来ている。第12層の区間だけ同行して、その先は地上から実況するそうだ。電波は来ない。電波の来ない実況が何なのかは、今日も聞かないでおく。仕事に理由は聞かない。
入坑の前に、おれは行程表を配って、それから条文をひとつ読んだ。
「規程第2章第6条。同行者は作業員の指示に従うこと。入坑時の安全確認は、同行者もこれを行うこと」
読んだのは、それだけだ。指を差す。
「装備よし。——声、出してください。同行者も、です」
剣崎迅の第一声は、聞き取れないくらい小さかった。
「もう一度」
「……装備よし」
二度目は、坑に通る声だった。いい声だ。もったいない。
「装備よしっ!」
カンテラの声は、最初から出ていた。場数だけなら、こっちが先輩だ。
行程表を胸ポケットに入れて、入坑した。
◇
第12層、排水路。
おれが先頭。剣崎、カンテラの順で歩く。入口で、おれは指を差した。
「——経路よし」
後ろのふたりは、黙ってそれを見ていた。ひとりは頭で録画し、ひとりは、ただ、見ていた。
入口から排水路まで、おれの歩幅で640歩。客の歩幅は広い。だが、今日は狭かった。最初の10歩で、おれの歩幅に合わせてきた。合わせられる人間は、多くない。
後ろで、カンテラが小さく数をかぞえていた。入口から排水路まで、640。
「……ぴったり! 行程表のとおりだ」
伝票の歩数は、飾りではない。
排水路は、水位、流れ、詰まりの有無。異常なし。
区間の終わりで、カンテラが立ち止まった。ここまでだ。
「じゃあ、おれ、地上から応援してます! 電波来ないですけど!」
「来ないなら、届かないだろう」
「気持ちは届きます」
カンテラはエレベーターに乗って、上へ帰っていった。箱の扉が閉まる寸前まで、手をふっていた。
◇
第38層、照明区画の入口で、剣崎が言った。
「入口のあれは、俺もやっていいのか」
「規程は、同行者もこれを行うこと、です」
ふたりで、指を差した。
「——経路よし」
声は、そろわなかった。半拍、向こうが遅れた。聞いて合わせている遅れだ。初日の南野と、同じ遅れだった。
通路灯、36本。おれが脚立の上、剣崎が下。押さえと、工具の受け渡し。新人の位置だ。工具の受け渡しは、新人の位置からしか教えられない。人類最高戦力でも、そこは同じだ。
「工具は、名前を言って渡す。受け取ったら、復唱。お願いします」
「ドライバー、渡す」
「ドライバー、です」
復唱は、一度も消えなかった。当たり前のことを当たり前にやる声が、下から正確に上がってくる。仕事は、楽だった。
11本目が切れていた。手順どおりに外して、古い球を下の手へ、柄のほうから下ろす。
「……いまの、狙って下ろしているのか」
「受け取る手の形に、下ろすだけです」
「俺は、上を見ていなかった」
「見なくても受け取れる高さまで、下ろしています」
剣崎は、手の中の古い球を、しばらく見ていた。
「……うちの隊で、武器の受け渡しをいちばん仕込まれているのは俺だ。戦闘中は、見ないで受け取る。落とせば、誰かが死ぬからだ」
それから、低く言った。
「あんたのは、俺のより正確だ。……落としても、誰も死なない場所で、なんでそこまでやる」
「落ちてから決めるのでは、遅いので」
剣崎は、しばらく手の中の球を見てから、両手を出した。
「……もう一度、下ろしてくれないか。今度は、見ないで受ける」
新人がそう言うなら、断る理由はない。次の球を、同じ高さへ、同じ速さで下ろした。見ないままの手のひらに、柄が収まった。
剣崎は、それきり黙った。それ以上は、おれにではなく、自分に言うことにしたらしい。
作業のあいだ、脚立は今日がいちばん揺れなかった。力を入れる場所を、入れる前から知っている手だ。落とせば誰かが死ぬ場所で、育った手だった。
「——いい押さえです」
「……そうか」
それだけだった。
36本、交換1本。無線を入れる。
「詰所、こちら灰田。第38層、終了。第99層へ移動する」
「詰所、南野。了解です。……あの、お気をつけて」
「南野。カンテラは」
「通用口で、まだ実況してます。電波、来てないのに」
「そうか」
留守番の返事も、仕事の声になってきた。
◇
第99層、13時10分、着。行程表どおり。
通路の床が、ぬれて光っている。きれいで、危ない床だ。
「足元。ここから、滑ります」
「長靴は、自分のを買いました」
「知っています。いい買い物です」
歩き出すと、剣崎が足の裏で床をたしかめているのが分かった。
「……なんで、ここだけ滑る」
「排水の関係です。地図には、載っていません」
「載せないのか」
「載せるほどのことでも、ないので」
「そういうのを、俺たちは知らないまま、14時間歩いたわけだ」
剣崎は自分の長靴の先を見て、それきり何も言わなかった。
非常灯、9本。今日は、ふたりで見る。おれが指を差し、剣崎が読み上げる。
「1番、点灯」
「よし」
声は、すぐに揃った。地上でいちばん強い男に、蛍光灯を9本数えさせている。うちの点検は、誰が来ても、この点検だ。
「——9番、点灯。……9本、よし」
今月は、9本とも、ついている。最後のひと声は、朝より通っていた。
「二週間前に、ここの1本を替えました」
「知っている。……あんたの、最初の動画だ」
剣崎はそっけなく言って、それから、通路の奥で足を止めた。
最初に会った日の、あの場所だった。
男は何も言わずにヘルメットを取って、頭を下げた。誰に、とは言わなかった。おれにでは、ないと思う。
おれは、ひとつだけ言うことにした。
「長靴なら、平気です。……あの日の人にも、現場でそう言えばよかった」
「……伝える。あいつ、たぶん泣くぞ」
泣かせる気はない。だが、伝わるなら、それでいい。
帰りぎわ、剣崎はもう一度だけ通路をふり返って、何かを覚えるように、ゆっくりまばたきをした。
◇
16時20分、退坑。行程表どおり、定時の中で、公社史上初のアテンドがひとつ終わった。
通用口で、カンテラが待っていた。
「おかえりなさいっ! 実況、完走しました! 主に想像で!」
剣崎は、借り物のヘルメットを両手で返して、長靴だけの姿になった。それでも、立ち姿は変わらなかった。
「今日は、世話になった」
男は、右手を出した。おれは手のひらを作業ズボンでぬぐってから、握った。硬い手だった。今日、脚立を押さえていた側の手だ。
それから、剣崎は言い直した。
「——お疲れさまでした」
最初に会った日、おれが言った言葉だった。
「お疲れさまです」
おれも、返した。
剣崎は帰りかけて、一度だけふり返った。
「あんたの仕事を、見た。……次は、うちの若手にも見せたい」
見せる、か。
見せられるものなら、いいのだが。
おれの仕事は、明日も球替えだ。




