第15話「ヒヤリ」
本日の作業伝票、番号3326。第26層、照明設備の定期点検、1件。同行者、1名。
南野の2日目だ。
今日は、脚立の上をやらせてみることにした。
◇
朝の通用口に、今日はカンテラの姿がなかった。
エレベーターを降りて、通路の入口で、おれは指を差す。
「——経路よし」
半拍おくれて、後ろから小さい声が重なった。
「け、経路よし……」
ふり返ると、南野が指を差したまま、うかがう顔をしていた。
「まだ、おまえの喚呼は要らん。おれのを聞いてろ」
「はい。……なんか、言いたくなったんです」
言いたくなる。それは、覚えはじめの音だ。
おれは先に立って、歩き出した。
◇
第26層、連絡通路。
通路灯、32本。おれが下、南野が上。役割を替えただけで、作業の中身は昨日と同じだ。
「工具の受け渡しは、昨日のとおり。名前を言って、渡す。受け取ったら、復唱」
「はい!」
返事の勢いは、2日目がいちばん良い。3日目から先も同じ勢いなら、それは本物だ。
10本目まで、上から降ってくる声は揃っていた。点灯よし。器具よし。
15本目だった。
南野が、次の球の箱を先に見た。
「ドライバー——」
名前の途中で、手が離れた。
細い銀色が、通路灯の光をひとつ撥ねて、落ちた。
おれの安全靴の、つま先の前。石の床で、乾いた音がひとつ。
通路が、静かになった。
南野が脚立の上で固まっている。顔から、勢いが抜けていた。目は、おれの足元から動かなかった。
おれはドライバーを拾って、埃を払った。先端、欠けなし。柄、割れなし。
足の甲から、つま先ひとつぶん。それだけの距離だった。昨日、手順は7つあると教えた。飛ばした分だけ早く終わって、いつか指が焦げる、とも。焦げなかった。今日のところは、つま先ひとつぶん、手前で止まった。
この距離を、紙に書いて残す。それがうちの仕事の続きだ。
見上げて、南野の顔色をたしかめた。青いが、白くはない。続けられる色だ。
「続けるか」
「……え」
「続けるか、と聞いた」
「や、あの、すいませんでした。おれ——」
「けがはない。工具も無事だ。なら、続きがある」
南野は脚立の上で一度だけ深く息をして、降りずに、手を差し出した。
「ドライバー、お願いします」
「ドライバー、渡す」
「ドライバー、です」
声は、少し震えていた。震えていても、揃っていた。
32本、異常なし。交換、2本。落下、1件。
最後の1本まで、南野の復唱は消えなかった。震えは、20本目のあたりで、声から抜けた。抜けた震えのぶんだけ、声は低く、仕事の声になっていた。
◇
詰所に戻ると、課長がいた。
南野が、おれより先に頭を下げた。きのうの朝に貰った言葉を、いちばん近くで裏切ったと思っている下げかただった。
「工具を、落としました。灰田さんの、足元に」
課長は、湯のみを置いた。怒鳴らなかった。怒鳴り声より、落ちる音のほうがよく効く。それを体で知っている人だ。
「けがは」
「ないです」
「そうか」
それだけ聞いて、課長は南野を椅子に座らせた。
「いいか、南野。おまえが今日落としたのは、ドライバー1本だ。で、あの人がな——」
課長は、おれのほうへ顎をしゃくった。
「あいつの伝票はな、28年分、一枚も欠けてないんだ。……欠けてないってことの意味を、今日おまえは見たんだ。落ちる音を聞いた日にしか、見えないものだぞ」
南野は、しばらく黙っていた。
それから、小さく「はい」と言った。
おれは、机の上の伝票の綴りを見ていた。綴りは、伏せてあった。厚みの話をされるのは、あまり得意ではない。
◇
ヒヤリハット報告、様式第12号。
これは、軽いほうの紙だ。けがになった失敗は、もっと番号の若い、重い紙になる。12号のうちに書けるのは、運がいい。
書きかたを教えた。起きたこと。起きた時刻。起きた場所。なぜ起きたか。次にどうするか。感想の欄は、ない。
南野の1枚目は、力が入りすぎて、文字が濃かった。
「すいませんでした、は書かなくていい。誰が悪いかを決める紙じゃない」
おれは、自分のロッカーから古いファイルを出した。いちばん下の1枚だけ、南野に見せた。読ませはしない。紙の色で、年数は伝わる。
28年前の、おれの様式だ。何を落としたかは、言わなかった。
南野が、書く手を止めて言った。
「……きのう、聞こうとして、やめたことがあって」
「言え」
「やめときます。今日、わかったんで」
「そうか」
「ヒヤリは、書けば財産だ。書かなければ、次の誰かの事故だ」
南野は、自分の1枚目を、もう一度はじめから書き直した。
2枚目は、字の濃さが、ちょうどよかった。
壁には、あしたの行程表が貼ってある。課長が、その端に赤鉛筆で何かを書き足していた。
南野は、書き終えた紙を持ったまま、もう一度だけ、自分の手のひらを見た。
見るのは今日まででいい。明日からは、手は前に使う。
紙が、両手で課長の机に置かれた。置いてから、南野は指を差した。
「……提出、よし」
おれのなぞりではない、はじめての喚呼だった。




