第14話「新人」
本日の作業伝票、番号3325。第18層、照明設備の定期点検、1件。
同行者の欄が、ひとつ埋まる日だ。南野歩。今日からうちの課に来る、新人の名前だ。
辞令は、1枚だった。
◇
朝の詰所。
課長が新人を連れて入ってきた。細い。作業服が新品で、肩の線がまだ布のままだ。
「南野歩です。よろしくお願いしますっ」
声は出る。悪くない。
「灰田だ」
「知ってます。あの、動画の——」
「作業の話なら、受ける」
南野が口を閉じた。課長が横で、笑いをかみ殺している。
辞令の回覧がすんだ。設備点検第三課勤務を命ずる、と書いてある。命じられて来るには、静かすぎる課だと思う。だが、それは本人がこれから知ればいい。
課の顔ぶれは、おれと課長。あとは非番がふたり。そこに、ひとり増えた。
課長が新人の肩をつかんで、おれのほうへ向けた。
「いいか、南野。あの人の後ろが、この坑内でいちばん安全な場所だ。よく見て歩け」
「はい」
返事は素直だった。
点呼板の前で、南野が自分の札を探した。まだない。総務に発注中で、届くまでは磁石に手書きだそうだ。
「仮、ですか」
「札はな。仕事は仮じゃないぞ」
課長はそう言って、伝票をおれに渡した。
見習いの持ち物は、規程の別表で決まっている。品目、21。南野のかばんからは22出てきた。ひとつ多い。細長い缶だった。
「目が覚めるやつです」
「休憩のときにしろ」
缶は、かばんに戻っていった。目は、仕事が覚まさせてくれる。そういうものだ。
出がけに、南野が詰所を見回して聞いた。
「あの。第三課って、なんの三なんですか」
「さあな。おれが来たときから、三だ」
「一と二は」
「本部のどこかにある。会ったことはない」
南野は、それきり黙った。答えを持っていないものは、渡せない。
伝票を胸ポケットに入れて、おれは先に詰所を出た。
◇
業務用エレベーターで、地下へ。
箱が動き出すと、南野は階数表示を見上げて、それから、もう一度見た。Bの横の数字が増えていくのを、目で追いかけている。
「今日は、浅いんですか」
「18階ぶん下りるからな。うちでは浅い」
「浅い……」
南野は、浅い、という言葉をもう一度、口の中で転がしていた。この課の物差しに、体を合わせている音だ。誰でも最初にやる。おれもやった。
降りて9分。扉が開く。
通路の入口で、おれは指を差した。
「——経路よし」
南野が、おれと通路を、順番に見くらべた。
「あの。これ、全部声に出すんですか? 誰も聞いてないのに?」
「聞いてるのは、おれだ」
歩幅が合っていない。そのうち合う。
歩き出すと、少し遅れて、足音がついてきた。
◇
第18層、連絡通路。
通路灯、24本。点灯の確認、器具のゆるみ、配線の被覆。1本ずつ、指を差して、声に出して、点検表に丸をつけていく。
南野には脚立の下を持たせた。
「工具はな、受け渡すときに名前を言ってから渡す。受け取ったら、復唱」
「復唱……はい。ドライバー、です」
「よし」
11本目で、南野の復唱がひとつ消えた。
おれは、受け取る手を止めた。手を出したまま、待つ。通路灯の低い音だけがする。
「……ドライバー、です」
「よし」
それだけにした。12本目からは、消えなかった。
切れていたのは、19本目だった。
「消えてますね!」
南野の手が、切れた球へ伸びた。
おれはその手首を、黙って掴んだ。掴んだまま、何も言わずに待つ。
南野の口が開いて、何も出ないまま、閉じた。
「順番だ」
電源を切る。切ったことを、指を差してたしかめる。冷めるのを待つあいだに、新しい球の箱を開けて、割れがないかを見る。外した球は、割らないように古い箱へ。手順はぜんぶで7つある。飛ばせば早い。飛ばした分だけ、早く終わって、いつか指が焦げる。
南野は、7つを黙って見ていた。
「……思ってたより、ちゃんとしてるんですね」
「ちゃんとしかしてない」
24本、異常なし。交換、1本。作業のあいだ、南野は2回「これ、意味あるんですか」と言いかけて、2回、やめた。教えなかった。意味は、口で教えるものではない。
帰り道、南野は誰もいない通路で、一度だけ後ろをふり返った。
「なんか……静かですね、ここ」
「いい職場だ。静かで」
◇
16時50分、退坑。
通用口で、カンテラが手をふっていた。
「おかえりなさいっ! あ、新人さんだ!」
「ど、どうも……?」
「いいなあ、初日から18層。おれ、まだ浅いとこしか入れてもらえてないのに」
南野は、どう返していいか分からない顔をしていた。その顔は正しい。おれも、あれの正しい受け取りかたを、まだ知らない。
詰所で伝票を書く。番号3325、第18層、通路灯24本、交換1本、異常なし。同行者の欄に、南野が自分で名前を書いた。ゆっくり書いた、ていねいな字だった。字は、そのうち速くなる。ていねいなままで速くなれば、それがいちばんいい。
点呼板の磁石に、手書きの「南野」。札は、まだ来ない。
帰りぎわに、課長が言った。
「南野。あさってな、客が来る。……見りゃ分かる」
南野は、はい、と返事だけした。分かっていない返事だった。それでいい。
帰りじたくをしながら、南野が言った。
「灰田さん。明日も、あの声、出すんですか」
「出す」
定時の中身が、ひとつ増えた。
28年、出してきた。
明日からは、二人ぶんだ。




