第13話 古い伝票
朝の通用口の前に、カメラは3台になっていた。先週は9台だった。残った3台は、いつも同じ3台だ。顔を、覚えてしまった。
世間の祭りは、次の祭りへ移っていくものらしい。祭りのあとの通用口は、すこし広く感じる。
柵の外には、今朝もカンテラがいた。
「アテンドまで、あと3日ですね!」
あと3日、という数えかたを、おれはしていない。おれの数えかたは、あさっての、次の日だ。同じことなのだが、急かされない。
本日の作業伝票、番号3323。第9層、通路灯の点検、1件。午後はもう1枚、番号3324。種別、資料調べ。
応接の次は、資料調べ。おれの伝票は、このごろ、にぎやかだ。
第9層の通路灯は、36本。脚立を立てて、1本ずつ、点いていることをたしかめていく。
36本目まで、ぜんぶ点いていた。換え球、ゼロ。
換えるものがない日は、たしかめるだけの日だ。たしかめるだけの日の伝票は、書くことが少なくて、字がのびのびする。
袋の換え球を、ひとつも使わずに持って帰る。それも、いい日の形だ。
「アテンドの前例を探しておけ」と、課長が言ったのだ。
「前例、あるんですか」
「ないな」
「ないものを、探すんですか」
「ないことを、たしかめるのが仕事なんだろ。おまえがいつも言ってるやつだ」
言った覚えはないが、言いそうなことではあった。
◇
書庫は、本部棟の地下にある。
地下といっても、坑内ではない。ただの地下室だ。機械油のにおいのかわりに、紙のにおいがする。
伝票の保管期限は、永年。つまり、ずっとだ。うちの会社は、紙を捨てない。30年ぶんの作業が、年ごとの箱で、壁のひと区画に収まっている。
おれの一日は、書類5ミリの厚みで終わる。その5ミリが、この部屋には、30年ぶん積んである。
厚いとも、薄いとも思わなかった。ただ、そういう量だ。
箱の背に、年と、課の名前が書いてある。背の字は、30年のあいだに、4回変わっていた。書く人が、4回変わったということだ。だれだったのかは、箱は教えてくれない。
新しい箱から、さかのぼった。
10年前の伝票は、いまと同じ印字だった。
20年前の伝票は、ドット印字。インクがかすれて、数字の角が丸い。
30年前の伝票は、手書きだった。
カーボン紙の複写。わら半紙が、あめ色に焼けている。指でめくると、めくった指のほうが緊張した。
複写のうすい字を、なぞらないように読む。なぞると、消える気がする。消えないのだが。
いちばん古い伝票の日付は、ダンジョンが出た年の、その月だった。
世間が、あの穴の呼びかたを決めるより先に、だれかが、点検を始めていたことになる。
字が、うまかった。
うまい、というより、迷いがない。数字の高さがそろっていて、書き直しがひとつもない。現場で書いた字だ。机の字ではない。
30年前にも、点検員がいた。あたりまえのことを、あたりまえに書いた紙が、30年、ここで待っていた。
アテンドの前例は、なかった。見学の記録は、ゼロ。
「視察」の綴りを繰ってみると、1枚だけ出てきた。12年前。本部の視察、第1層、所要20分。
20分。うちの30年は、上の人に、20分だけ見られたことがあるらしい。
つまり30年間、この経路をまともに歩いたのは、書く側の人間だけだった。
ないことは、たしかめた。仕事としては、ここで終わりだ。
終わりだったのだが。
◇
指が、止まった。
30年前の束の、作業種別の欄。
「照明・定期」「排水・定期」「換気・定期」——ここまでは、いまと同じだ。呼びかたが古いだけで、ぜんぶ現行の種別表にある。
そのあいだに、知らない種別が、はさまっていた。
——機械室・定期。
週に一度。同じ手で、同じ種別。判で押したように、束のなかに、くり返し出てくる。
特別あつかいの字ではない。照明や排水と、同じ並びの、ただの毎週の仕事の字だ。
機械室。
おれは28年やっている。現行の種別表は、ぜんぶ頭に入っている。ポンプ室、電気室、制御盤室。部屋の名前なら、いくらでもある。
「機械室」という種別は、ない。
現行に、ない。
30年前の、いちばん古い束にだけ、ある。
めくった。翌年の束にも、あった。その翌年の束の、とちゅうの月で——その種別だけ、ぱたりと消えていた。
消えかたに、乱れがない。前の週まで、いつもどおり。次の週から、ない。
やめた、というより、なくなった、という消えかただった。
消えた月の前後の伝票を、三度見た。理由の書かれた紙は、ない。伝票は理由を書く紙ではない。やったことだけを書く紙だ。
機械室・定期。
毎週やっていた作業が、ある月に消えて、28年間、一度も戻っていない。
定期、なのにだ。
書庫の紙のにおいのなかで、おれはしばらく、その三文字を見ていた。
箱を、元の棚へ戻した。戻す手が、いつもより、おそくなった。
夕方、課長に報告した。
「前例は、ありませんでした。ないことは、たしかめました」
「ならよし。あしたから準備だ、早く帰れ」
機械室のことは、言わなかった。異常ではないからだ。30年前の紙は、どの規程の、どの報告様式にも、あてはまらない。
あてはまらないものを、どこに書けばいいのかを、おれはまだ知らない。
帰りに、いつもの銭湯に寄った。湯船につかって、目をつぶる。今日も、どこも痛くない。
あさっての、次の日は、あの人を案内する日だ。行程表は、できている。
できていないのは、ひとつだけだ。目をつぶると、暗がりに、あの三文字が浮かんだ。
機械室。
……どこの、だ。




