第十話:折れたミラー
昭和記念公園を出たあとも、一也の機嫌は悪くなかった。
朝からあれだけ騒いだ「夏祭り」は、結局、多磨霊園だった。
管理人には「見る人は見る」などと言われ、よしこが仕組んだドッキリではないかと何度も疑った。
それでも場所を変えてサンドイッチを食べ、家族の話をしているうちに、そんなことはどうでもよくなっていた。
昭和記念公園を出て、立川で映画を見るため再びプレリュードに乗り込む。
信号が赤になり、一也はプレリュードを停めた。
突然、助手席側から大きな音がした。
ガシャン!
「えっ!」
次の瞬間、何かがプレリュードの横を擦っていく。
ギギギッ、と金属を引きずるような嫌な音。
そして――
バキッ!
「何!?」
「事故!」
よしこが叫んだ。
一也もすぐに車から飛び出した。
車を移動させることなど、頭にも浮かばなかった。
道路には自転車が倒れていた。
その近くで、小学4年生か5年くらいの男の子が泣いている。
「痛い! 痛いよ!」
後ろにはバイクがあった。
助手席の少し後ろに停まっていた自転車に、後ろから来たバイクが突っ込んだのだ。
その勢いで自転車が前へ押し出され、プレリュードの助手席側を擦りながら進んだらしい。
よしこはすぐに子供のところへ駆け寄った。
子供は腕に大きな擦り傷を作り、血が出ていた。
それを見て、一也の頭が真っ白になった。
けれど、よしこは子供のそばにしゃがみ込み、子供の肩を抱き声をかけている。
「痛いな。びっくりしたな。傷みせて。だいぶすってるな」
「痛い!」
「救急車呼んでもらおうな」
日曜日だったこともあって、何事かと周囲から次々に人が集まってきた。
左側にあった靴屋からも店主らしき人が出てきたが、
「救急車お願いします」
よしこの声に電話をかけるため、店にまた戻っていった
よしこは子供から離れなかった。
「さすが男の子やな、痛いの我慢できてるな。お名前言える?」
「としき」
「としきくんか。としきくんたんと名前言えてえらいで。ママに来てもらおう。
おうちの電話番号言える?」
「うん。」
ちょうど救急車を呼び終わったのか、また店の外に出てきた
店主によしこが声をかける
「すみません、この子の家にも電話してもらえます?」
しゃくりあげながら子供が言った番号をよしこは店主に伝える。
しばらくして、
「お母さん、出ましたよ」
と教えてくれた。
「よかったな。ママきてくれるで。としきくんえらいなって
ほめてもらおな」
よしこが子供に言う。
一也は、その横でおろおろしていた。
何かしなければと思う。
でも、何をすればいいのか分からない。
救急車を呼んでくれたのは靴屋の人。
家に連絡しようと思いついたのは、よしこ。
泣いている子供についているのも、よしこ。
気がつけば、自分はその横に立っているだけだった。
やがて、遠くからサイレンが聞こえてきた。
「あ、救急車来たで」
よしこは子供に声をかけた。
でも、ちゃんと泣いている。
ちゃんと話もできている。
一也は、それだけで少しほっとした。
救急隊員が子供の状態を確認し救急車へ乗せる。
そこにちょうど子供の母親がやってきて、
一緒に救急車に乗り込んだ。
よしこは、それまでずっと子供のそばにいた。
救急車が走り去っていく。
一也は大きく息を吐いた。
ようやく終わった。
そう思った。
しかし、今度はパトカーがやってきた。
警察官が事故現場を確認し始めた。
バイク。
自転車。
そしてプレリュード。
バイクを運転していたのは、大学生だった。
一也たちより年上だ。
事故を起こして動揺しているのか、周囲から何か言われるたびに、苛立ったように声を荒らげている。
「事故を見ていましたか?」
警察官に聞かれ、一也は困った。
「いや……俺は見てないです」
信号待ちをしていて、前を向いていた。
事故が起きたのは助手席より後ろだ。
大きな音がして振り向いたときには、もう自転車がプレリュードの横を擦りながら前へ押し出されていた。
「私、見てました」
よしこが横から言った。
警察官がよしこのほうを向く。
「どんな状況でした?」
「この子が自転車で、このへんに止まってたんです」
よしこが助手席の少し後ろを指す。
「そこに後ろからバイクが来て、自転車にぶつかりました。それで自転車が前に押し出されて、車の横を擦りながら進んで……」
よしこが助手席側へ回る。
「最後に、自転車のハンドルがここのミラーに当たって、折れました」
警察官はうなずきながら話を聞いている。
一也は、その横に立っていた。
何もすることがない。
いや。
何もできない。
金曜日。
一也は、どんな小さなトラブルにも対応できるように、時間に余裕を持った。
店を調べた。
道を調べた。
夜景を調べた。
女の子との会話まで調べた。
完璧なデートのはずだった。
なのに、本当に予想もしないことが起きたら、何ひとつ役に立たなかった。
その横で。
何をやらせても遅い。
研修でもいつも最後。
予定どおりには、まず動かない。
そんなよしこが、泣いている子供のそばに迷わず駆け寄った。
救急車が来るまで声をかけ続けた。
家への連絡まで頼んだ。
そして今は警察官を前に、事故の状況を順番に説明している。
一也は、よしこの横顔を見た。
(……こいつ、こういうときは強いんだな)
知らなかった。
いや。
よしこのことなんて、まだほとんど知らないのかもしれない。
*
警察との話がようやく終わった。
一也は大きく息を吐いた。
「疲れた……」
「ほんまやな」
「お前、よく平気だったな」
「平気ちゃうよ。でもあのこ、すりきずだけみたいやったし
ほっとしたわ」
それだけ言って、よしこはプレリュードのほうを見た。
「あ……」
「何?」
「かずや」
「ん?」
「これ……」
一也も振り返った。
そして。
初めて落ち着いて、自分のプレリュードを見た。
助手席側には、自転車が擦っていった跡が残っている。
そして、その先。
あるはずのものが、ない。
「…………」
一也は近づいた。
見間違いではない。
納車されたばかりのプレリュード。
その助手席側のミラーが――
根元から、ぽっきり折れていた。




