最終話:プレリュードの夏
納車されたばかりのプレリュード。
その助手席側のミラーが、根元からぽっきり折れていた。
「……嘘だろ」
一也は呆然と立ち尽くした。
助手席側には、自転車が擦っていった長い傷も残っている。
新車だ。
新車なのだ。
ついこの間、納車されたばかりなのだ。
「……俺のプレリュード」
思わず口から出た。
「かずや……」
「まだ全然乗ってねえんだけど」
「……うん」
「買ったばっかりなんだけど」
「うん……」
よしこも、さすがに何も言わない。
一也は頭を抱えたくなった。
初めて買った新車。
ずっと欲しかったプレリュード。
それが傷だらけになり、ミラーまでなくなった。
「最悪だ……」
思わずつぶやいてから、一也は口を閉じた。
救急車で運ばれていった、としきの顔が浮かんだからだ。
腕から血を流して、痛い、痛いと泣いていた。
「……まあ、あの子が大したことなきゃいいけどさ」
「うん。ほんま、それが一番やな」
よしこが言った。
映画は当然、中止になった。
助手席側のミラーがないだけで、運転していて妙に落ち着かない。
いつもの癖で確認しようとして、
「あ」
となる。
そこにあるはずのものがない。
一也は運転しながら、ちらりと助手席を見た。
よしこは窓の外を眺めている。
何をするのにも動作が遅く、同期から「トロ子」と呼ばれている。
でもさっきの事故のときは、誰より先に子供に駆け寄った。
何を考えているのか、やっぱり分からない。
分からないのに。
もっと知りたいと思った。
よしこを女子寮に送り、
一人になると、車内は急に静かになった。
カセットデッキからスクェアが流れている。
金曜日と同じ音楽だ。
一也は車線を変えようとして、いつものように助手席側を確認しようとした。
そして、また気づく。
ミラーがない。
「ったく……」
今日の事故を思い出す。
助手席の少し後ろにいた子供。
そこへ突っ込んできたバイク。
前へ押し出された自転車。
プレリュードの助手席側を擦りながら進み――
最後に、ハンドルがミラーを折った。
助手席側。
その言葉が、なぜか頭に残った。
そして。
金曜日の夜のことを思い出した。
同じ助手席には、よしこが座っていた。
スクェアをかけていた。
F1のテーマ曲が流れ始めて、一也は気分が高揚した。
『この曲聴くと、飛ばしたくなるんだよな』
アクセルを踏み込んだ。
『かずや』
『ん?』
『ちょっと速くない?』
『大丈夫だって』
『怖いんやけど』
『このくらい普通だよ』
そして――
『わあ!』
突然、よしこが大声を上げた。
驚いて、一也はブレーキを踏んだ。
スピードを落とした。
その直後。
道路はカーブしていた。
一也の右足から、力が抜けた。
「…………」
もし。
あのとき、よしこが声を上げなかったら。
もし、あのままの速度でカーブへ入っていたら。
「いやいや」
一也は首を振った。
何を考えているんだ。
偶然だ。
たまたま、よしこが何かを見間違えた。
たまたま、そこで大声を出した。
たまたま、その先にカーブがあった。
それだけだ。
日曜日の昼間に、二人で確かめたじゃないか。
夏祭りなんてなかった。
あったのは――
墓だった。
見渡す限りの墓石。
多磨霊園。
管理人の言葉が蘇る。
『ただね……昔から、見る人は見る、と言いますけどね』
「馬鹿馬鹿しい」
一也は声に出した。
幽霊なんかいるわけがない。
だいたい、よしこが見たのは幽霊なんかじゃない。
着物みたいな格好をした人たち。
そして。
オレンジと黄色の間の、ふわふわした光。
『なんかね、見てるとすごく落ち着く感じ』
一也は見ていない。
一度も。
同じ車に乗って、同じ道を走っていたのに。
見えたのは、よしこだけだった。
「……なんだったんだよ」
答える人はいない。
助手席は空っぽだ。
*
金曜日から、何一つ思いどおりにならなかった。
完璧に考えたデートプランは、最初のデニーズから崩れた。
都会の夜景にも興味を持ってもらえなかった。
日曜日には、存在しない夏祭りを探して墓地へ行った。
そして最後には交通事故に巻き込まれ、新車のミラーまで折れた。
散々だった。
こんな女、もう誘うものか。
そう思っても、おかしくない。
なのに。
「……次、どこ行こうかな」
口に出してから、一也は気づいた。
「…………」
思わず笑った。
「俺もたいがい、変だよな」
スクェアの音楽が流れるプレリュードは、東京の夜を走っていく。
助手席側のミラーは、もうない。
その空っぽになった助手席に、金曜日と同じ女の子を、また乗せたいと思っている。
一也にはまだ、その理由がよく分からなかった。
そして。
あの夜。
よしこにしか見えなかった夏祭りが、何だったのかも。
結局、分からないままだった。




