第8話「不登校の書架」
売場二階の児童書コーナーで、低い棚の上から二段目を指で揃え直していた時、自動ドアの音が下から聞こえた。
七月三日、金曜日。残り七十二日。
午前十時七分。藤村絹江さんの来店時刻は、十年間ほとんどぶれない。
棚から手を離す。
ローファーのつま先を、児童書の棚と棚の間で一度回す。階段の手前に立つと、一階レジの方からゆりちゃんの「いらっしゃいませ」が聞こえてきた。
藤村さんの足音は、いつもの杖の先のゴムが、タイルに二回触れる音。それから、一拍置いて自動ドアが閉じる音。今日もそうだった。
藤村さんは一階の文芸棚に直行する日と、二階の児童書まで上がってくる日がある。火曜は文芸、金曜は児童書。それも十年間、ほとんど揺らがない。
藤村さんが階段を上がりきるまでに、棚の準備を終えておきたかった。
児童書コーナーの隅に置いてある木製の小さな丸椅子。藤村さんが座って本を選ぶための椅子の埃を、エプロンの裾で一度払う。
ついでに、奥の棚から三冊抜いた。
一冊目、『水曜日の図書館』。今月の新刊。
二冊目、『おじいさんのちいさな庭』。絵本シリーズの新刊で、装丁が和紙の手触り。
三冊目、『百歳の朝食』。人文系のエッセイ。藤村さんは食事の本を集めている。
三冊を腕に抱えて、丸椅子の横に置かれた小さなサイドテーブルに並べた。表紙が見えるように、面陳の角度で。
「朱里ちゃん」
階段の上で、藤村さんの声がした。
杖の音が一段ずつ。私は棚の向こうから顔を出して、頭を下げる。
「藤村さん、おはようございます」
「はい、おはよう」
藤村さんがゆっくり階段を上がりきって、踊り場のところで一度、息を整える。
白い綿のブラウスに、紺の薄手のカーディガン。七月の金曜日にこの組み合わせは、藤村さんの夏の制服みたいなものだった。
「藤村さん、今週の新刊はこちらです」
サイドテーブルの三冊を指す。
藤村さんは丸椅子に腰を下ろして、一冊ずつ手に取った。表紙を撫でて、裏表紙の文章を読み、それから、目を上げる。
「『水曜日の図書館』ね」
「はい」
「あなたが選ぶ図書館の話は、はずれがないのよ」
「ありがとうございます」
藤村さんは『水曜日の図書館』を膝の上に置いて、二冊目の絵本に手を伸ばす。
絵本のページをめくる時、ページの上端を親指でそっと支える持ち方。十年間で何度も見てきた、本に慣れた人の手つきだった。
「絵が、いい絵ね」
「私もそう思いました。庭の絵が、藤村さんちの庭に似てる気がして」
「うちの庭、私の方が手入れできなくなってきたから、もう似てないかもしれないけど」
藤村さんが少し笑う。
主人がね、と話し始めるかな、と思った。藤村さんは絵本を見ると、亡くなった旦那さんの話を始めることが多い。
でも、今日は始まらなかった。
藤村さんは絵本を閉じる。三冊目のエッセイにも軽く触れて、それから、三冊全部をサイドテーブルに戻した。
「全部、いただいていい?」
「はい。レジまでお持ちします」
私が三冊を抱え直そうとした時、藤村さんが言った。
「朱里ちゃん」
「はい」
「この店、なくなるんですってね」
声が、絵本を撫でていた時と同じくらい、静かだった。
私は三冊を抱え直す手の動きを止めた。腕の中の絵本の表紙が、私の腕に当たっている。
「……はい」
「九月だっけ」
「九月十二日です」
「そう」
藤村さんは膝の上のカーディガンの裾を、両手でそっと撫でた。
怒っている顔ではない。悲しんでいる顔でもない。十年間この店に通ってくれた人が、十年分の出来事を一つ受け取った時の顔だった。
「朱里ちゃん、この店がなくなったら、どうするの」
その問いの形を、私は、今までに何度か想像したことがあった。
いつか聞かれる。誰かに聞かれる。それは、私が私自身に何度も投げた問いでもあった。
でも、答えは、用意していなかった。
「……」
「ごめんなさいね、こんなこと聞いて」
「いえ」
声が出ない。
絵本を抱えた手が、自分の意思とは関係のないところで、表紙の角を強く握っている。
藤村さんは私の手元を見て、それから、目を逸らした。
「いいのよ、答えなくて。私が聞いていいことじゃなかった」
「……すみません」
「謝らないで」
藤村さんが、丸椅子から立ち上がる。
杖の柄を握り直す手の指が、ブラウスの白よりも白かった。
「レジに行きましょうか」
「あ、はい」
三冊を抱え直して、私が先に階段の方へ歩く。
藤村さんが後ろからついてくる。杖の音が、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
*
レジ袋を渡して、自動ドアの外まで藤村さんを見送って、レジに戻ると、ゆりちゃんが小さな声で言った。
「朱里さん、大丈夫ですか」
「うん」
「顔色、ちょっと」
「平気。ありがとう」
レジカウンターの内側で、エプロンのポケットから青いボールペンを抜いて、また戻した。
抜いて、戻した。それを二回繰り返してから、自分の手が何をしているのか気づいて、止めた。
藤村さんが帰っていった自動ドアの方を、見ない。
「ゆりちゃん、二階上がってる。棚替え、続きする」
「はい」
階段を上がる。
二階に着いて、人文書の棚の前に立った時、棚に並んだ本の背表紙が、一瞬、文字として読めなくなった。
目を閉じる。
もう一度開けると、文字が戻ってきた。
棚替えの続き。
午前中の予定だった。
*
夕方、店を閉めた後、二階の事務室にはまだ電気がついていた。
桐生さんが残業をしている日は、扉の磨りガラスの向こうに、ノートPCの画面の白い光が透けて見える。
今日もそうだった。
私は児童書コーナーの最後の見回りを終えて、エプロンを脱ぐ前に、もう一度棚の前に戻った。
日中、藤村さんと話した丸椅子の横を通る。
その時、棚の一番上、子供の手が届かない位置の本の隙間に、白いものが挟まっているのに気づいた。
私のものではない。
お客様が挟んだ、ということでもなさそうだった。位置が高すぎる。子供のお客さんでは届かない。
近づいて、見上げる。
白い、というよりは、少し黄ばんだ紙の角だった。
脚立を取りに行く時間が惜しくて、棚の二段目に足をかけて、手を伸ばす。
指先が紙の端に触れる。引き出すと、それは、私のメモだった。
古い。
「桐生さん」
扉の磨りガラスの向こうに声をかけたつもりが、声が掠れた。
もう一度。
「桐生さん、ちょっと」
扉が開く。
「椎名さん。まだいたんですか」
「あの」
言葉を探した。何を見せたいのか、自分でもまだ、整理がついていなかった。
手の中の古いメモを、桐生さんに差し出すか、しまうか、迷う。
桐生さんが、私の手元を見た。
眼鏡のブリッジを左手の人差し指で押し上げて、それから一歩、廊下に出てきた。
「それは」
「私が、ここに入った年に書いた、メモです」
メモというよりは、ノートを破ったページの束だった。罫線の入った薄いノートの、ホチキスの跡が残った左端。
ページを開く。
一枚目に、本のタイトルが並んでいた。
『見えない扉の向こうに』
『ふたごの島』
『おじいさんのちいさな庭』(旧版)
『木曜日の旅人』
一冊ずつ、本のタイトルの下に、二、三行の感想が書いてある。
子供の字よりは整っているけれど、今の私の字とは違う、少し丸い字だった。
「これ、何のリストですか」
「入社した時に、児童書コーナーの本を、片端から読んで、感想を書いてました」
「全部、ですか」
「全部ではないですけど、棚の主要なのは、ほとんど」
桐生さんがページを一枚、めくった。
二枚目にも、本のタイトルと感想が並んでいる。三枚目、四枚目。指で数えると、メモは全部で十枚あった。
「これを、棚に挟んでた、ということですか」
「……たぶん」
「たぶん」
「自分で挟んだ覚えはないんです。でも、ここに挟まってたなら、私が挟んだんでしょう」
桐生さんが、メモの一枚を電灯にかざした。
ボールペンのインクが少し褪せている。十年分の埃と湿気が、紙を少しだけ波打たせていた。
桐生さんが、ふっと、息を吐く気配がした。
咎める息ではない。何かを言いかけて、別のことを言うことに決めた人の息だった。
「椎名さん」
「はい」
「なぜ、この店にこだわるんですか」
メモを持ったままの私の手が、止まる。
桐生さんは、メモから目を上げて、私の顔を見ていた。
眼鏡の奥の目が、午前中に藤村さんが帰った後のゆりちゃんの目と、少し似ていた。聞いてはいけないことを聞いてしまった、と思っている顔。
でも、桐生さんは目を逸らさなかった。
「……答えていいですか」
「お答えになりたければ」
「立ち話で、いいですか」
「どうぞ」
私は、メモを胸の前で抱え直した。
脇の児童書コーナーに視線を移す。蛍光灯は半分しか点いていない。閉店後の節電。半分の光の中に、子供向けの絵本と、児童文学と、図鑑が並んでいる。背表紙の高さがふぞろいで、小さな丘みたいに見える棚だった。
「私、中学の時、不登校でした」
言葉が出てから、自分の声を聞いた。
桐生さんは何も言わない。続きを待っている。
「クラスに、いられなかったんです。理由は、よく覚えてない。覚えてないというより、たぶん、特別な理由じゃなかった。みんなが普通にしていることを、私は普通にできなかった」
メモを抱えた腕に、少しだけ力を入れる。
「家にもいられなくて。母が働いてて、家にいると一人で、テレビをつけても、つけてもつけても、時間が進まないんです。それで、駅前まで歩いてきて、ここの二階に上がってました」
「児童書コーナーに」
「はい。本を読みに来てるふりをして、丸椅子に座ってました。一日中。誰にも何も言われなかった」
私は、棚の方を見た。
桐生さんは私の視線の先を追う。半分の光の中の児童書の棚。
「ある日、棚の一番下に、表紙が裏返しになって落ちてる本があって、拾ったんです。それが、『見えない扉の向こうに』でした」
「ベルクマンの」
「桐生さん、知ってるんですか」
「読んだことはありませんが、棚替えの時にタイトルを見ました」
「そうですか」
少しだけ、笑った。
桐生さんが本のタイトルを覚えているということが、意外で、少し嬉しかった。
「あの本に、不登校の女の子が出てくるんです。見えない扉を、図書館の中で見つける話で。読んでる間だけ、私の方が、本の中に入れた」
手の中のメモの一枚目に、『見えない扉の向こうに』の感想がある。
十六歳の私の字。
「読み終わった日に、私、レジに行って、当時のアルバイトの方に、ここで働きたいって言ったんです。高校はまだ行ってなかったけど、十六歳になったら働けるって聞いてたから」
「採用されたんですか」
「最初は断られました。学校に行きなさいって。でも、毎日通って、毎日言って、三ヶ月くらいしたら、当時の店長が、夕方の二時間だけ品出しをしてみるかって」
その夕方の二時間が、最初の足場だった。
品出しから、レジ補助。アルバイトから契約社員。契約社員から正社員。十年かかった。
「私、この棚に、拾ってもらったんです」
声が掠れる前に、息を一度吸い直した。
「あの本に出会って、この棚に拾われた。だから、十年かけて、今度は私が、別の子を拾う側になる番だと思ってた」
桐生さんは、何も言わない。
眼鏡のレンズが、半分の光を映して、少しだけ反射していた。
「この棚が、私の学校だったんです」
メモを胸の前で抱え直す。
もう片方の手で、児童書コーナーの一番手前の棚板を、指の腹で軽く撫でた。十年分の指紋と紙の擦れが、この棚板にだけ集まっている気がした。
「十年かけて、私が先生になる番だと思ってた。でも」
でも、の続きを言わなかった。
言わなくても、桐生さんは、私の目の先にある棚を見ていた。
九月十二日に、この棚が空になる。
桐生さんは、しばらく動かなかった。
ノートPCを置いてきた事務室の扉が、半分開いたままで、磨りガラスの向こうの白い光が、廊下の床に細長く伸びている。
桐生さんが何か言うかな、と思った。
でも、何も言わなかった。
言わないことが、嘘よりも、ずっと、私には届いた。
メモを持つ手の指が、知らないうちに、少し冷たくなっていた。
桐生さんは、半分の光の中の児童書の棚を、まだ見ている。
私は、自分が答えるべき藤村さんの問いに、まだ答えていない。




