第7話「アルバイトの目」
バーコードリーダーがピッと鳴って、私はレジのモニターに視線を戻した。
六月三十日、火曜日。残り七十五日。
午前十時を過ぎたあたりで、文庫の二冊と、書店カバーをつけてほしいという依頼のあった単行本が一冊。常連の松本さんは、今日も奥の棚を見ずに私のレジに直行してきた。
「ありがとうございました」
頭を下げて、紙袋を渡す。
松本さんは紙袋の口を覗き込んでから、私の顔ではなく、私の後ろの平台を見た。
「ねえ、ゆりちゃん」
名札を覚えてくれている。書店員のアルバイトで、客に名前で呼ばれるのは何度経験しても、すこし驚く。
「はい」
「ここ、閉まるんだって?」
声が低い。詰問の声ではない。聞きたくないことを聞く時の、躊躇いの混じった声だった。
私は、答えようとして、口の動きが止まった。
九月十二日、と言えば終わる。閉店日は決まっている。社内通知も先週入った。お客様への正式な掲示は来週月曜だと、田崎店長から朝礼で聞いている。
来週まで、言ってはいけないことなのか。それとも、聞かれたら答えていいことなのか。新人アルバイトのマニュアルに、こういう項目はない。
松本さんの目が、私の顔を見ている。
「あ、あの」
声が出てから、続きを考える。続きが出てこない。
「ええと、それは——」
「最後まで開いています」
私の左横で、声がする。
朱里さん。いつから後ろにいたのか、気配を感じなかった。
「桐生から正式なご案内はもうすこし先になりますが、私たちは九月十二日まで、いつも通り営業します。新刊の入荷も続きますので、よろしくお願いします」
朱里さんが、レジカウンターの内側に並んで立つ。エプロンのポケットからボールペンが一本、頭を出している。
松本さんの目が朱里さんに移った。
「そう。——朱里ちゃん、最後までいるんだね」
「います」
朱里さんが頭を下げる。
深くはない。書店員の、半分の角度のお辞儀。客との距離を縮めるための角度。
松本さんは紙袋を提げ直して、自動ドアの方へ歩いていく。後ろ姿が小さくなる。
朱里さんは何も言わない。
私の方も見ない。
代わりに、レジ横の常備のスリップ入れの箱を、指先で一センチだけずらす。
「すみません」
声が出る。私の声だ。
「私、答え方がわからなくて」
「いいよ」
朱里さんの返事は短い。
でも、その短さに突き放す気配はない。
「私もまだ、ちゃんと言える日と、言えない日がある」
朱里さんはそう言って、レジカウンターを離れる。
二階の棚に戻っていく。ローファーの足音は、書店の床を踏んでも、ほとんど音がしない。
*
お昼の交代で休憩室に入った。
休憩室というよりは、地下一階の倉庫の隅を間仕切りで区切った狭い四角だ。長机が一つ、丸椅子が四つ。電気ポットと、インスタントコーヒーの瓶。誰かが置き忘れた塩飴の袋が、机の端で乾燥している。
私はコンビニのおにぎりを二つと、紙パックのお茶を取り出した。
間仕切りの向こうから、朱里さんが現れた。エプロンの裾を一度払って、向かいの丸椅子に座る。
朱里さんは弁当を持ってこない日が多い。今日もそうだった。コンビニの袋からサンドイッチを一つ。
「ゆりちゃん」
「はい」
「就活、どう?」
不意打ちで聞かれて、おにぎりの海苔を巻く手が止まった。
「あ、えっと」
「悪い、休憩中に」
「いえ、全然」
言いながら、ポケットからスマートフォンを出しそうになって、やめた。
就活の話を聞かれる準備は、いつもしている。家族にも、ゼミの教授にも、サークルの後輩にも。決まったテンプレートがある。
でも、朱里さんに話す言葉は、用意していなかった。
「あの、出版社、二社受けてて」
「うん」
「一社は二次まで進んで、もう一社は最終で落ちました。今、別の小さい出版社のエントリーシートを書いていて、それを出すかどうか、迷ってます」
「出版社」
朱里さんがサンドイッチを一口かじって、ゆっくり噛んだ。
「うん。ゆりちゃん、本好きだもんね」
「本も、好きなんですけど」
言いかけて、声が止まる。
好きなんですけど、の後ろに続けるべき言葉を、自分の中から探した。
探しながら、思った。話してもいいのだろうか。話して、朱里さんを困らせないだろうか。
でも、聞いてもらえる機会はもう、そんなにないのだ。
「朱里さんを見て、ここで働き始めて」
顔を上げないまま、おにぎりのフィルムをいじっている。
「お客さんに本を渡す時の朱里さんの顔とか、棚を組んでる時の手の動きとか、見てたら、こういう仕事を作る側に行きたいなって、思って。本を選ぶ側じゃなくて、本を作る側に」
「作る側」
「はい」
「すごいね」
朱里さんの声に、笑いが混じった。茶化す笑いではない。
でも、それは少し困った笑いでもあった。
「ゆりちゃん、私を理由に進路を決めたら、ダメだよ」
「理由じゃないです」
私は顔を上げた。
「きっかけです。理由は、私が決めます」
朱里さんが、サンドイッチを口の手前で止めた。
ほんの一瞬だけ、目元が緩んだ。前髪の隙間から見える目が、いつもより細くなった。
「うん。——きっかけ、なら、いい」
朱里さんはそう言って、サンドイッチをまた口に運んだ。
それきり、就活の話はしなかった。
私の方も、これ以上聞かれたら泣きそうな気がして、ありがたかった。
休憩室を出る時、朱里さんが言う。
「桐生さんにコーヒー、持っていってあげて。事務室で、ずっとPCの前にいるから。たぶん、お昼食べてない」
「あ、はい」
電気ポットの湯を、紙コップに注ぐ。インスタントコーヒーの粉が二袋、棚に並んでいる。一袋分を破って、紙コップに落とす。
朱里さんはもう休憩室を出ている。
私は、紙コップを両手で持って、階段を上がる。
*
事務室のドアは、半分開いている。
ノックの代わりに、靴の踵を一度、床に当てる。書店員の作法というほどではない、自分なりの合図。
桐生さんが顔を上げる。
「三嶋さん」
「あ、コーヒー、お持ちしました」
「ありがとうございます」
桐生さんがノートPCの画面から目を上げる。
黒いボブの髪が、肩のあたりで揃っている。眼鏡のブリッジを、左手の人差し指で押し上げる仕草。
画面を覗くつもりはなかった。
でも、デスクの脇に立った時、視界の隅に数字の列が見えてしまう。Excelの表らしい。縦に並んだ行に、何かの数字。たぶん売上か、在庫の数字なのだろう。
「ここに」
紙コップを置く場所を探した。デスクの右端、桐生さんのノートPCから少し離れた位置に、コースターが一枚。
「あ、コースター、お借りします」
「どうぞ」
紙コップを置く。湯気が、まっすぐ上に立つ。
桐生さんはそれを見て、画面に視線を戻す。横顔の輪郭が、蛍光灯の白い光に照らされている。眼鏡のレンズの縁が、わずかに反射する。
マウスを一度クリック。表が下にスクロールする。
私は、すぐに事務室を出るつもりだった。
でも、足が動かない。
桐生さんの横顔。
数字を見ている人の顔。眉間に皺は寄っていない。集中しているけれど、苛立っているわけでもない。ただ、数字を読んでいる。
朝、松本さんに「最後まで開いています」と即答した朱里さんの声を、思い出していた。
あれは、お客さんへの答えだ。
でも、あの言葉は、朱里さんが自分自身に言っている言葉でもあるのだろう。
じゃあ、この人は。
この、数字を見ている横顔の人は、自分に何を言っているのだろう。
「桐生さん」
声が出てから、後悔した。
言うつもりじゃなかった言葉が、口から出た。
「はい」
「あの、変なこと、聞いていいですか」
桐生さんがマウスから手を離す。
ゆっくり、私の方を見る。眼鏡の奥の目は、思っていたよりずっと、普通の目だった。怖くもなく、冷たくもない。
「どうぞ」
「桐生さんって、本は好きですか」
言ってから、自分の声を聞いた。
馬鹿な質問だ、と思った。書店の本部社員に「本が好きか」と聞くのは、寿司屋の大将に「魚は好きですか」と聞くようなものだ。
でも、聞いてしまった。
桐生さんは、すぐには答えない。
画面のExcelの表を、もう一度見る。それから、紙コップに視線を落とす。湯気がまだ上がっている。
マウスから完全に手を離す。
「——好きですよ」
桐生さんの声。
短い言葉だ。
でも、その声は、午前中にPHS越しに本部と話していた時の声とも、田崎店長に閉店ガントチャートの確認をしていた時の声とも、違っている。
事務的ではない。
むしろ自分の手の中にある何かを確かめるみたいに、ゆっくり言葉を置いた声だった。
「あ、すみません、変なこと聞いて」
「いえ」
桐生さんは紙コップに手を伸ばす。
まだ熱いはずなのに、両手で包み込むようにして持つ。
「コーヒー、ありがとうございます」
「いえ、あの、椎名さんが、桐生さんがお昼食べてないんじゃないかって」
言ってから、自分の言葉に気づく。
椎名さんが、桐生さんを、気にかけている。それを伝えてしまった。
桐生さんが伝言を聞いた時の表情を見たくて、私は咄嗟に下を向く。
桐生さんは何も言わない。
紙コップを口元に運ぶ気配がして、それから、机に戻す音がする。
「三嶋さん」
「はい」
「ありがとうございます。椎名さんにも、お伝えください」
「あ、はい」
顔を上げた時、桐生さんはもう画面に視線を戻している。
マウスを動かす指の、爪の白い半月が、蛍光灯の光に映える。
事務室を出る。
ドアを閉める時、最後にもう一度、桐生さんの横顔を見た。
紙コップから上がる湯気の中で、眼鏡のレンズが少し、曇っている。
*
売場に戻ると、二階で朱里さんが棚替えをしている。
人文書の棚から本を一冊ずつ抜いて、横に積み、棚板を布で拭いて、また並べ直す。十年分の埃を一冊ずつ確認するみたいな作業。
私はその後ろを通り過ぎる時、何も言わなかった。
桐生さんの声を、頭の中でもう一度、再生する。
好きですよ。
あの「好きですよ」は、私のためのものではなかった。
お客さんへのリップサービスでもなかった。
たぶん、本人にとっても、不意に出てしまった言葉だったのだ。
なぜなら桐生さんは、答える前に画面のExcelをもう一度見て、紙コップの湯気を見て、それから言ったのだから。
あれは、自分自身に確認してから出した答えだった。
階段を降りる。
レジに戻る。バーコードリーダーがピッと鳴る音を待つ。
二人のことは、まだ何も知らない。
桐生さんが本を売ったことがあるとも知らないし、朱里さんが桐生さんをどう思っているかも知らない。
ただ、今日の朝にお客さんへ「最後まで開いています」と答えた朱里さんの声と、お昼に「好きですよ」と言った桐生さんの声が、私の中で同じ場所に届いている。
形は違うけれど、両方とも、自分自身に向かって出された声だった。
二人は、自分にしか聞こえない声で、お互いに何かを言い合っているのかもしれない。
まだ、お互いには届いていない言葉で。
その声を、たまたま、私だけが聞いている。
レジの前で、私は名札を一度、指で揃え直した。
次のお客さんが、自動ドアから入ってくる。




