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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第2章『平台の取り合い』

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第9話「調布の手紙」

「桐生、率直に言って、ペースが落ちてる」


 田崎店長の声は穏やかだったが、机の上に広げられたガントチャートの赤い線を、人差し指の腹で軽く叩いていた。

 七月七日、火曜日。残り六十八日。

 午前九時半。閉店までの工程表で、私が引いた返本累計の予定線は、今週の地点で千二百冊を示している。実績の青い印は、九百三十二冊で止まっていた。


 差は二百六十八冊。

 数字としては、まだ取り戻せる範囲だった。


「ペースは把握しています。今週中に二百冊追加で取次に出します」


 ノートPCの画面で、地下倉庫の在庫リストを呼び出す。

 返本対象として椎名さんがOKを出した冊数を、エリア別に並べ替える。文芸の棚から百十冊、雑誌の遅れたバックナンバーから九十冊、それで二百は確保できる。

 眼鏡のブリッジを左手の人差し指で押し上げて、画面に視線を戻した。


「椎名と、もう一度詰めるか?」


 田崎店長は、ガントチャートに視線を落としたまま、そう聞いた。

 詰める、という言葉を、彼は何度か飲み込んでから出している。


「いえ、現場の判断はこちらでまとめます。店長には、本部への週次報告だけお願いします」


「了解」


 田崎店長が立ち上がる。机の角を回って、事務室の扉に手をかけた時、廊下から足音が近づいてきた。

 ローファーの、ほとんど音を立てない歩き方。


 扉の磨りガラスに、エプロンの茶色い影が映る。

 ノックの代わりに、相手は扉の外で一度足を止めた。


「失礼します」


 椎名朱里が、扉を半分だけ開けて入ってきた。

 左手に、白い帳面を一冊抱えている。客注の控えだった。



「桐生さん」


「はい」


「一冊だけ、返さないでほしい本があります」


 彼女の声は、午前中にしては、抑えた音だった。

 帳面を机の上に置く。私の方には開かない。自分の方を向いたまま、ページを一枚めくった。


「藤村さんへの客注です」


 藤村絹江、と読み上げる必要はなかった。

 帳面の左端、上から二行目に、丁寧な楷書でその名前があった。隣の欄に、書名と版元、入荷予定日。


「『遠くの庭で待つ人』です。六月に出た本ですが、重版がかかって、今月末に入る予定で。藤村さんは重版分を取り置きにしたいと、先週おっしゃっていました」


「重版の入荷は」


「七月二十九日です」


 九十日の中で、二十二日後。

 閉店までには、まだ四十六日ある。客注として処理しても、納期に問題はない。


 私の返事を待たずに続けた。


「返本の対象から、この一冊を外していただきたいんです。配本数の一冊なので、棚に出すのは別の本ですが、藤村さん分の予約札だけは、地下のラックに残しておきたい」


 帳面の上の、その指を見る。

 爪は短く切り揃えてある。人差し指の腹に、薄い紙の埃がついていた。十年間、紙を触り続けた指の癖だった。


「椎名さん」


「はい」


 私は、ノートPCの画面の在庫リストを閉じる。

 マウスから手を離して、机の上に両手を置いた。


「客注は、最後まで対応します。それがルールです」


 短く区切った。

 言い切ってから、自分の声を耳で確かめる。事務的だった。よかった。


 椎名さんが、私の顔を見た。

 眉が動いたわけでも、目が見開かれたわけでもない。ただ、私の言葉を一度、自分の中で受け止め直しているのが、わかった。


「……ありがとうございます」


「礼を言うことではありません」


「でも、ありがとうございます」


 そう言って、帳面を抱え直す。

 扉の方に向き直り、半身を引いて、それからもう一度こちらを見た。


「桐生さんが、合理的に考えて、と言うかと思っていました」


 彼女の口元の端が、ほんの少しだけ動いた。

 笑った、というほどではない。皮肉でもない。十年間この店に立った人間が、本部から来た私の口癖をいつの間にか覚えていた、というだけの動きだった。


「ルールは、合理性の前にあります」


「はい」


 彼女が扉の向こうに消える。

 ローファーの足音は廊下を二歩進んで、階段の方へ折れる前に、もう聞こえなくなった。


 私は、机の上の手を一度、開いて閉じる。

 藤村さん、と書かれた椎名さんの楷書を、もう一度見た。それから、ノートPCの画面を開き直す。

 地下倉庫の在庫リストに、客注分のフラグを一件、立てる。たった一件の操作だった。


 マウスを動かす指が、いつもより、わずかに遅い。



 夕方、私は事務室の窓際に立っていた。

 二階の北側の窓は、武蔵境駅のホームの屋根が、ぎりぎり見えない高さに切られている。代わりに見えるのは、隣のビルの壁と、その上の空。今日の空は、夏の夕方にしては薄い色をしていた。


 午後の作業で、客注の取り置き棚に、藤村さん用のラベルを貼り直した。

 ボールペンで、藤村絹江様、七月二十九日入荷予定、と書いた。私の字は、椎名さんの字より硬い。罫線に沿って、文字の角がきっちり立っている。


 書きながら、思い出した。

 調布駅前店の、最後の客注ラベル。


 四年前。私が四番目に閉めた店。

 あの店も、客注のラベルは閉店の前日まで貼り直した。十冊ほどあったと思う。最後の一冊は、児童書だった。


 窓の外の空を、見るのをやめる。

 ノートPCの前に戻った。


 画面の左下、フォルダの並び。

 文翠堂・小田原店。熊谷店。所沢店。調布駅前店。


 調布駅前店のフォルダは、四年前、最後の引き渡し報告書を入れた日から、開いていない。

 昨年の春、武蔵境店への異動が決まった日、一度だけ開きかけて閉じた。先月、武蔵境店に来る前夜にも、開きかけて閉じた。


 今日も、カーソルだけを合わせて、止まる。


 ダブルクリックは、しなかった。



 ホテルに戻ったのは、夜十時を過ぎていた。

 武蔵境駅前のビジネスホテルの、シングルルーム。机に置いたノートPCの画面の明かりだけが、部屋の半分を白く照らしている。


 備え付けのケトルで湯を沸かす。

 スーツの上着をハンガーにかけて、ブラウスのままで机に向かった。インスタントコーヒーの粉を、紙コップに二袋分落とす。お湯を注ぐと、湯気の中で粉が溶けていく。一口飲んだ。安いインスタントの、わずかに焦げた苦味。事務室の備え付けと同じ味だった。


 ノートPCを開いて、画面に外付けのハードディスクを接続する。

 文翠堂閉店業務、と書かれたフォルダの中。

 調布駅前店のフォルダを、今度はダブルクリックした。


 ファイルが並んでいる。

 閉店通告書、ガントチャート、在庫処理報告、什器解体記録、引き渡し書類。それから一番下に、一つだけ、業務以外のファイルが入っていた。


 調布駅前店・拾得物.pdf


 四年前、閉店当日の翌日、店舗の引き渡しのために最後に巡回した時、シャッターの内側の床に、薄い封筒が散らばっていた。

 子供たちの手紙だった。


 閉店日の夕方、シャッターを降ろした後、ドアの郵便受けの隙間から、何枚も差し込まれていた。地元の小学校の児童書フェアに、十年通っていた子供たちの一部が、書いてくれたものだった。


 あの日、私は手紙を一枚ずつ拾って、書類用のクリアファイルに挟んだ。

 会社の備品として処分するわけにもいかず、捨てるわけにもいかず、結局、自宅でスキャンしてPDFにした。原本は、今もアパートの押し入れの段ボールにある。


 PDFを開く。

 一ページ目は、鉛筆書きのひらがなだった。


『おねえさん、いままでありがとう』


 差出人の名前は書いていない。

 代わりに、小さな猫の絵が描かれていた。


 二ページ目。


『きどうさん、しいなさん、たさきさん、いままで本をすすめてくれてありがとうございました。さくらより』


 名前が三つ、並んでいた。

 城戸さん、椎名さん、田崎さん。


 手紙の宛名は、私の名前ではない。

 調布駅前店の閉店を担当した私のことを、子供たちは知らなかった。閉店業務で店に入ってから、九十日。子供たちが知っていたのは、何年も前から児童書フェアの企画を作っていた、現場のスタッフの名前だった。


 城戸さんは、調布駅前店の前店長。

 田崎さんは——田崎康介。今の武蔵境店長は、当時、調布駅前店の児童書担当の主任だった。


 そして椎名、は、当時のアルバイトの名前だ。

 椎名朱里、ではない。同じ姓の別人だった。


 手紙の中の「しいなさん」が椎名さんでないことは、当時、調べた。

 名前が偶然一致しただけだ。それでも、四年経って、武蔵境店で椎名朱里という名前を聞いた時、私は一度、深く息を吐いた。


 PDFをスクロールする。

 手紙は全部で七通あった。

 どれも、現場のスタッフ宛だった。閉店を仕切った私の名前は、どこにも書かれていない。


 書かれていない、ということを、私はあの日、確認していた。

 報告書の表紙裏に、一行だけ、自分のメモを残してある。


『拾得物の宛先:当該店舗の販売員(城戸・椎名・田崎・他)に向けた児童客からの謝辞。当方宛は無し』


 事務的なメモだった。

 四年前の私の字。今と同じ、罫線に沿った硬い字だった。


 PDFを閉じる。

 ノートPCの画面の右上に、夜十時四十六分の表示が出ている。


 紙コップを口元に運ぶ。

 コーヒーは、もう冷めかけていた。


 手紙は、私には届かなかった。

 四年前のあの日も、今もそうだ。

 子供たちが「ありがとうございました」と書いた人は、十年その店に立っていた人だった。九十日で店を閉めるためだけに来た人間に、礼を言う子供はいない。


 それは——理屈として、正しい。


 眼鏡を外して、机の上に置いた。

 レンズの縁に、湯気の薄い曇りが残っている。


 明日、客注のラベルを、もう一度確認しよう。

 藤村絹江様、七月二十九日入荷予定。私の字で書いた、あのラベル。

 あれが届く相手も、私ではない。客注を最後まで対応した書店員——椎名さんに、藤村さんは礼を言うはずだ。


 彼女にも、こういう手紙が届くんだろうか。

 九月十二日に、誰かが武蔵境店のシャッターの隙間から、手紙を差し込むんだろうか。


 もし届くなら、宛名は、椎名朱里。

 差出人は、藤村絹江。


 その光景を想像してから、私は自分の思考に気づいた。

 いま、私は、椎名さんを、閉める対象として数えていない。


 九月十二日の朝、地下倉庫から最後の返本段ボールを搬出する人。

 その日の夕方、レジの電源を落とす人。

 シャッターのボタンを押す人。

 工程表の上では、そのいずれも、彼女の欄に名前が並んでいる。


 でも、いま、私が想像したのは、手紙を受け取る彼女の顔だった。

 子供にもらった手紙でも、藤村さんからの礼状でも構わない。何かが、彼女の手元に届く。届いたものを、彼女は、エプロンのポケットにしまうのだろう。


 眼鏡を、机の上から拾い直した。

 レンズを、ブラウスの裾で一度拭く。


 ノートPCの画面を閉じた。


 部屋の窓の外は、駅前のビルの看板が、いくつか光っている。

 看板の数を、数えようとして、やめた。

 数えても、明日の返本ペースは戻らない。


 ベッドに腰を下ろして、ブラウスの第一ボタンに、指を触れる。

 外そうとして、止まる。


 ——これは、仕事だ。


 声に出して言った。

 部屋には、誰もいない。

 言った後で、その言葉を、自分がもう一度確認したかったのだと気づいた。


 確認しないと、口に出せなくなる日が、近いのかもしれない。


 窓の外の看板の光が、部屋の天井に、薄く伸びている。

 明日は、水曜日。

 返本作業の続きと、客注の確認。


 ボタンに触れた指を、ようやく動かした。

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