第6話「一等地
「桐生、平台、椎名がもう組んでるぞ」
田崎店長の声が事務室の入口から飛んできたのは、午前九時十五分だった。
開店十五分前。私はノートPCの画面から目を上げる。
六月二十七日、土曜日。残り七十八日。
今日の作業予定は一階入口正面の平台の差し替え。閉店セール対象書籍二百四十冊を平台に上げ、定価販売の新刊を棚差しに降ろす計画。前日に田崎店長と擦り合わせて、椎名さんにも書面で伝達済みのはずだった。
「もう組んでる、というのは」
「並べ終わってる、ってことだ」
田崎店長が紙コップのインスタントコーヒーを持ったまま、立ったままで言う。眉が上がっている。
ガントチャートのウィンドウを閉じた。
売場用のフラットシューズに履き替える時間は惜しい。低いヒールのまま事務室を出る。
*
階段を降りる。
一階の蛍光灯はもう全部点いている。レジの前を通って入口の方向へ歩く。土曜の開店前、空調の音だけが店内に残っている。
入口の自動ドアの真正面に、平台がある。
書店の一等地。客の動線が最初にぶつかる場所で、平台一台あたりの月間売上は奥の平台の二倍以上出る。閉店セールの告知効果も、ここに置くかどうかで一桁変わる。
その平台の前に、椎名さんがいた。
エプロン姿。指先に紙の埃。腰をかがめて、平台の角の本を一冊、わずかに左にずらしている。
平台の上には、新刊が並んでいた。
文芸の単行本が中央に三冊、面陳。その左右に文庫の新刊。一冊ごとに小さな手書きPOPが立っている。文字数は短い。「読み終わって、すぐもう一度読みたくなる本」「夜に読むと、朝が違って見える」。
組み上がっている。
平台一面が、今月の新刊フェアとして完成していた。
「椎名さん」
声をかけると、椎名さんが顔を上げた。前髪の隙間から見える目に、驚いた表情はない。
「桐生さん。おはようございます」
「昨日、お伝えしたはずです。今日からこの平台は閉店セール対象書籍に差し替えます」
「伝達は受けました」
椎名さんは立ち上がる。エプロンの裾を一度払う。
「でも、今月の新刊はこの並びでないと意味がないんです。文芸の三冊は同じ作家のデビュー三作で、面陳の順番が逆だと意味が通らない。両脇の文庫は、その三冊を読んだ人が次に手に取る並びです」
「閉店セールの告知効果が落ちます。入口正面の平台は、客の九割が必ず通る動線です」
「セール本は、奥の平台でも目に入ります」
言い切る声に揺れがない。
昨日、書面に「了承」のサインはなかった。私が判子の欄を見落としていたのか、椎名さんが意図して空欄にしたのか。今、確認しても遅い。
平台を見る。
二百四十冊の閉店セール対象書籍は、台車に積まれて入口脇に待機している。一冊あたり三割引きの赤い値札。本部の販促部から先週届いた、規格化された値札の束。
その向こうに、椎名さんが組んだ新刊棚がある。POPの文字が、蛍光灯の下で黒く読める。手書きの「、」がすこし丸い。
頭の中で計算する。
差し替え作業の所要時間は、台車から本を下ろして、現在の新刊を棚差しに移し、値札を点検して並べ直すまで、二人作業で四十五分。一人なら一時間半。開店は九時半。差し替えてから開店すると、開店遅延が一時間。
遅延を回避するには、現在の新刊を残して開店し、午後の客足が引いた時間帯に差し替える選択肢もある。だが、それは譲歩だ。
椎名さんの目は、私の判断を待っている。
*
階段を降りてくる足音がした。
田崎店長が来た。紙コップは事務室に置いてきたらしい。両手が空いている。
「ああ、これか」
平台を一目見て、それから椎名さんを見て、私を見た。
「椎名。お前、いつ並べた」
「昨日の閉店後と、今朝の七時です」
「七時って、お前」
田崎店長は短く息を吐いた。困った顔でもないし、怒った顔でもない。長くこの店を回してきた人間の表情。
顎を一度撫でて、それから言った。
「桐生。半分こにしたらどうだ。平台を半分に区切って、入口側にセール本、奥側に椎名の新刊。交互じゃなくて、面で割る。それなら告知も新刊も両立する」
提案が、間に置かれた。
平台の長さを目で測る。約百八十センチ、半分に割れば九十センチずつ。
一見、妥協案として整っている。だが、書店の平台は一面で機能する設計で、半分に割った平台は両方の効果を半減させる。閉店セールの面積は半分、新刊フェアの面積も半分。客の目に入る情報量が増えて、どちらにも焦点が結ばない。
合理的に考えて、悪手だった。
「田崎店長」
声を落とす。
「ご提案はわかります。ですが、平台は一面で機能します。半分に割ると、両方の訴求力が落ちる」
「両方残したい、ってことか」
「両方は残せません。閉店セールを優先します」
椎名さんの肩が、ほんの少し下がった。エプロンの紐に手が伸びかけて、途中で止まる。
「桐生さん」
「閉店フェアは在庫処分が目的です。一等地の平台に閉店セール対象書籍を置く判断は、合理的に考えて譲れません。今月の新刊は、文芸新刊コーナーの棚差しに移してください」
「棚差しに、ですか」
「面陳ではなく、棚差しです」
言葉を返した。
言いながら、自分の指がスーツのジャケットの第一ボタンに触れているのに気づいた。袖口を直すふりをして、手を下ろす。
椎名さんは何も言わなかった。
平台の上の新刊三冊を、両手で順番に持ち上げる。一冊ずつ。POPを抜いて、本の上に重ねて、台車を入口脇まで取りに行った。
台車を引いて戻ってくる。閉店セール対象書籍が積まれた台車。赤い値札が、新刊の白いPOPに触れて、わずかに音を立てた。
差し替え作業に入る。
田崎店長が「俺も手伝う」と言って、レジ脇のエプロンを取りに行った。
空調の音が、急に大きく聞こえた。
*
九時半。
差し替えはぎりぎり間に合わなかった。開店を七分遅らせて、シャッターを上げる。
最初の客は、いつもの常連だった。文庫の棚に直行する六十代の男性。平台を見もしない。私が一週間前に立てた仮説の通り、平台の効果は新規客と回遊客に対してのみ働く。常連は素通りする。
二人目の客が、平台の前で足を止めた。三割引きの赤い値札。手に取って、戻して、奥の棚へ歩いていく。
その光景を、私はレジの裏側から見ている。
椎名さんは二階に上がっていた。
人文書棚の棚替え作業。昨日からの続きで、午前中はずっと二階のはずだ。
昼前に田崎店長が事務室に戻ってきた。コーヒーをもう一杯入れる。
紙コップが二つ、デスクの上に置かれた。一つを私の方に押し出す。
「桐生」
「はい」
「椎名のあの並び、見たか」
「見ました」
「あれは、よく組んである」
田崎店長は私と目を合わせずに言った。
紙コップの縁を指でなぞっている。
「俺はあいつの新刊棚を十年見てきた。一冊一冊、客の顔を思い浮かべて並べてる。今日のあれは、特に、組み方がよかった」
返事をしなかった。
インスタントコーヒーを一口飲んだ。少し冷めていた。粉が完全に溶けていなくて、舌の奥に苦みが残る。事務室の電気ポットの湯温が、いつも少し足りない。
「俺の権限じゃどうにもならん」
田崎店長が小さく付け加えて、出ていった。
ドアが閉まる。
ノートPCを開く。ガントチャートの赤い線が、六月二十七日を指している。
閉店セール対象書籍の販売実績を入力するセルが、まだ空欄だった。
——一等地の平台。
私は文翠堂三鷹店にいた頃、一階の平台を一度だけ任された。
二年目の春。当時の店長が「桐生、組んでみろ」と言って、丸一日くれた。私は朝から組んで、夕方に組み直した。組み直した平台が一週間で売上を倍に伸ばした時の、紙の擦れる感触を、まだ覚えている。
あの時の私は、何を考えていたか。
誰のために本を並べていたか。
考えるのをやめて、PCの画面を閉じた。
*
午後五時、退勤。ビジネスホテルに戻る前に、私はもう一度一階に降りた。
閉店セール対象書籍の平台。三割引きの赤い値札が、二百四十冊分、整列している。差し替え作業の時、値札の角度を私が一冊ずつ揃えた。
売上は通常の土曜日の七割程度に留まっている。閉店セールの初日としては、想定の範囲内だった。
平台の角に、新刊が一冊残っていた。
文庫。差し替えの時に椎名さんが回収しそびれた、というよりは、回収しなかった一冊。
手に取る。
帯の文字を読む。デビュー作家の単行本デビュー三作の、文庫化された一冊目。
元の場所——平台の真ん中——に戻した。
戻してから、自分の指が本の角に触れている時間が、長すぎたことに気づく。
手を引いた。
階段を上がって事務室に戻り、鞄を取って、店を出た。
武蔵境駅前のビジネスホテルまでは徒歩八分。土曜の夕方、駅前のロータリーは家族連れで混んでいる。子供が一人、書店の名前が入った紙袋を提げて歩いていた。文翠堂の袋ではなく、駅ビルのチェーン書店の袋だった。
***
翌朝、六月二十八日、日曜日。残り七十七日。
午前八時四十分に出勤した。普段より十分早い理由を、自分でもうまく説明できない。
裏口から入る。事務室の電気を点ける前に、一階の売場の照明だけ点けた。
平台に向かう。
平台の上に、白いものが並んでいた。
手書きのPOP。
昨日の閉店セール対象書籍に、一冊ずつ。私が並べた二百四十冊全てに、ではない。だが、平台の中央二列、上から見て三十冊ほどに、小さなPOPが立っている。
文字を読む。
「絶版になる前に。最後の一冊かもしれません」
「五年前に出た本ですが、今読むほうがいい本です」
「値引きでも、この本にはこの言葉が必要です」
「藤村さんへ。先週話していた本です」
藤村さんへ。
その一枚だけ、宛名が書いてある。
立ち止まる。
爪先が冷えている。低めのヒール越しに、夕べ磨いたタイル床の冷気が伝わってくる。
平台の前で、しゃがんでPOPを一枚ずつ見ていく。文字は丸い。インクの色は昨日と同じ、青いボールペン。書いた時間は、たぶん、私が店を出た後と、今朝の開店前。
頬に空気が触れた。
冷たくはない。事務室から漏れてくる、本と棚板と埃の混じった、この店の温度。
——いいえ。
頭の中で、自分の声が言う。
いいえ、ではない。これは——
「桐生さん、おはようございます」
声がした。
振り向く。
椎名さんが、エプロンを着けながら売場に下りてきていた。手に持っているのは、青いボールペンと、書きかけのPOPカードの束。
「あと、二百十枚あります」
椎名さんが、まっすぐ私を見て言った。




