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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第1章『開店前の挨拶』

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第5話「宣戦布告」

 A4の紙が一枚、デスクに置かれた。

 手書き。ボールペンの青いインク。文字は丸くて、筆圧が強い。


 六月二十五日、木曜日。残り八十日。

 事務室のドアが開いて椎名さんが入ってきたのは、午前十時過ぎだった。田崎店長がコーヒーを飲んでいる横を通って、真っすぐ私のデスクに来た。

 紙を置く。言葉より先に。


「閉店フェアの対案です」


 声に迷いがない。

 月曜の返本作業から三日。五十冊を黙って箱に詰めた人間が、対案を持ってくるまでに、七十二時間。

 早いのか遅いのか。少なくとも、諦めてはいなかったということだ。


 紙を手に取る。

 タイトルは「最後まで本を売るフェア」。値引きの二文字がどこにもない。

 棚ごとにテーマを設け、常連客に「あなたのための最後の一冊」を届ける企画。人文書棚は「考えることを止めないために」、児童書棚は「この本と帰ろう」。

 テーマの横に客の名前が並んでいる。小林、安藤、藤村。

 手書きの文字を追いながら、構成を読む。

 企画として粗い。予算の裏づけがない。在庫処分率の数字も、取次への返本スケジュールとの整合も書かれていない。


 棚を知っている人間の企画だ、と思う。


 その感想は口に出さない。


「椎名さん。閉店フェアの目的は在庫処分です」


 紙をデスクに戻す。椎名さんの顔を見る。


「売りたい本ではなく、売れ残った本を捌く。それがフェアの機能です。予算の裏づけもありません」


「売れ残った本なんてないです。売れていない本があるだけで」


 椎名さんの声が速くなる。エプロンの紐を左手で握っている。三日前と同じ癖。


「この棚にある本は全部、誰かのために置いてあります。閉店するからって値札を貼って並べるのと、最後にちゃんと届けるのは違います」


「費用対効果の問題です。テーマ別の選書フェアは準備に人手と時間がかかる。残り八十日で、返本と並行して実施する余裕はありません」


「余裕がないんじゃなくて、やる気がないんです」


 空気が変わった。

 田崎店長の紙コップが、デスクに触れる音がした。小さく、乾いた音。

 田崎店長は椅子に座ったまま、私と椎名さんを交互に見ている。口を開かない。

 月曜日に返本リストの件で割って入ろうとして、私に止められた人だ。本部直轄の壁を、もう知っている。


 事務室のドアの向こうに、気配がある。

 三嶋さんだろう。売場から戻ってきた足音が、ドアの前で止まっていた。


「椎名さん、企画の意図は理解しています。ですが——」


「桐生さん」


 椎名さんが一歩、前に出る。

 距離が縮まる。インクと紙の匂い。指先に紙の埃がついている。いつも通り。朝から棚に触っていた手だ。


「あなたは本を売ったことがあるんですか」


 声が低くなっている。怒りではない。もっと深い場所から出る声。


「閉めるだけの人に、この棚の意味がわかりますか」


 田崎店長の椅子が、かすかに軋む。

 蛍光灯の白い光が、椎名さんの顔に影を作っていない。正面から当たっている。目が潤んでいるのか、光っているだけなのか、判別できない。


 三秒。

 自分の呼吸を数える。


「わかります」


 声が出た。思ったより静かだった。


「私も元は現場の人間です」


 椎名さんの表情が止まる。

 まばたきが一回、遅れた。口が半分開いて、閉じて、また開く。


「……現場」


「文翠堂三鷹店に二年いました。棚も組みましたし、POPも書きました。あなたと同じ仕事です」


 椎名さんの手がエプロンの紐から離れる。

 何を言おうとしたのか、言葉が出てこない。口元だけが動いている。


 田崎店長が立ち上がった。椅子が床を擦る。


「椎名。桐生。——二人とも、頭を冷やせ」


 田崎店長の声は低いが、怒りではない。長くこの店を回してきた人間の重さがある。


「桐生、椎名の企画は俺も目を通した。粗いが筋はある。だが、お前の言い分もわかる。本部直轄だからな」


 田崎店長は私を見て、それから椎名さんを見た。


「椎名。桐生が三鷹にいたのは、俺が一番よく知ってる。あいつは——」


「田崎店長」


 私は遮った。

 これ以上は不要だ。


「企画は現時点では不採用です。椎名さん、返本作業を続けてください」


 椎名さんは何も言わなかった。

 A4の紙をデスクから取り上げて、二つに折って、エプロンのポケットに入れた。

 ドアを開ける。三嶋さんの小さな声が聞こえる。「朱里さん」。椎名さんは何も答えずに売場へ出ていく。


 ローファーの足音が遠くなる。

 田崎店長が私を見ている。


「桐生。お前、三鷹のことを出したのは初めてだな」


 答えなかった。

 ノートPCの画面を見た。ガントチャートの赤い線が、六月二十五日の今日を指している。



 エプロンのポケットの中で、紙が折れる感触がわかる。

 歩きながら、指先が紙の角に触れている。二つ折りにした企画書。朝の五時から書いた。ボールペンのインクが最後のほうで薄くなって、書き直した箇所が三つある。


 売場の一階に出た。

 蛍光灯の光が白い。レジのバーコードリーダーが、ピッと鳴る。お客さんがいる。木曜の午前中は客足が少ないけれど、ゼロではない。

 文庫の棚の前に立った。背表紙を見ているふりをする。見えていない。


 ——現場の人間。


 桐生さんの声が耳に残っている。

 三鷹店。文翠堂三鷹店。中央線で武蔵境から一駅。閉まったのは四年前。

 業界紙の記事で読んだ。閉店を担当したのが本部の若手社員で、後にリストラクチャリング推進室の主力になった。

 それが桐生さんだと知ったのは二年前だ。

 でも、三鷹店の現場に「いた」とは知らなかった。

 棚を組んでいた。POPを書いていた。私と同じ仕事をしていた。

 その人が、今、この店を閉めに来ている。


 文庫の背表紙に指が触れた。

 爪の間に紙の埃が残っている。今朝、二階の棚を整えた時の埃。洗っても落ちない。十年間、毎日触っていると指に染みつく。

 桐生さんの指は綺麗だった。もう棚には触っていないのだろう。


 午後の接客を終えて、閉店作業に入る。

 レジを締める。三嶋さんが「お疲れさまです」と言って帰っていく。

 田崎店長は事務室から出てこない。


 裏口のドアを開けた。

 店舗の裏手は駐車場に面していて、搬入用のスロープがある。返本の段ボールを置く場所。コンクリートの地面に、取次のトラックが残したタイヤ痕が黒く伸びている。

 六月の夕暮れは長い。午後七時を過ぎても空がまだ橙色に残っている。

 空気が湿っている。アスファルトの熱が残っていて、紙の匂いと排気ガスが混ざった外気が顔に触れる。


 煙草を吸いに来たわけではない。吸わない。

 ただ、事務室に戻りたくなかった。売場にも戻れない。閉店後の照明が落ちた棚を見ると、今日は泣きそうだ。


 裏口の段差に座った。コンクリートが冷たい。エプロンの裾がスロープの埃で汚れる。


 ドアが開く音がした。

 ヒールの足音。


 振り向かなくてもわかる。低くて硬い、カーペットの上でも消えない音。

 ただし今はコンクリートの上で、もっと鋭く響く。


 桐生さんが裏口に出てきた。

 私を見て、一瞬だけ足を止める。


 紺のスーツの肩に、蛍光灯の光と夕暮れが半分ずつ当たっている。眼鏡のレンズが橙色に染まって、目が見えない。


 立ち上がらなかった。

 座ったまま、桐生さんを見上げる。


「桐生さん」


 自分の声がどんな音をしているか、わからない。


「私はあなたを許さない」


 言葉が口から出ていく。考える前に。いつもそうだ。


「この店を数字で殺す人を、許さない」


 桐生さんは動かない。

 眼鏡の奥の目が見えない。夕暮れの光がレンズを塞いでいる。


 三秒。五秒。

 コンクリートの上をどこかの虫が横切る音。排気口のファンが低く回っている。


「許されたいなんて思っていない」


 桐生さんの声は静かだった。

 怒りも悲しみもない。報告書を読み上げるときと同じ温度。


「——これは仕事です」


 ダッシュの後の声だけが、少し違った。

 わずかに、掠れていた。


 夕暮れの光が、二人の間の地面を橙色に塗っている。搬入スロープの手すりの影が長く伸びて、私の足元まで届いている。

 店内の空気が裏口から漏れてくる。本と棚板と埃が混じった、この店だけの温度。十年間、肌で覚えた温度。


 桐生さんは何も言わずに裏口から中に戻った。

 ヒールの音が遠ざかる。ドアが閉まる。


 一人になった。

 エプロンのポケットの紙を取り出す。二つ折りの企画書。

 広げてみる。自分の文字。朝の五時のインク。

 「最後まで本を売るフェア」。


 紙を膝の上で畳み直して、ポケットに戻した。

 捨てない。


 空が暗くなっていく。

 武蔵境の商店街に居酒屋の灯りがつき始めている。駅のアナウンスが風に乗って、小さく聞こえる。


 桐生さんは三鷹店にいた。

 棚を組んでいた。私と同じ仕事をしていた人が、今は閉める仕事をしている。

 許さない。それは変わらない。


 ——でも、あの声が掠れたのは、嘘じゃなかった。


 立ち上がる。エプロンの埃を手で払う。

 裏口のドアを引いて、店内に戻った。蛍光灯の光が目に刺さる。

 紙の匂いが、外の空気を追い出す。

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